あの、僕らが敗北した未来
ホールの冷たい機械的な空気とは対照的に、凜の部屋はこの地下要塞の中で唯一の桃源郷のようだった。極めて精緻に整えられ、それでいて衝突するような美学に満ちた空間だ。
壁には高価な京都の手漉き和紙の芸術品が飾られているが、その横には複雑な構造の改造ライフルが横たわっている。窓際のデスクには最高級の射撃用ゴーグルが並び、その後ろには可愛らしい小動物の肉球クッションが山積みになっていた。
朝の微光がフィルターガラスを通り、広いダブルベッドに降り注ぐ。
九條 凜は今、深い眠りの中にいた。肌身離さず持っている黒いキャップは、サイドテーブルの最も目立つ場所に置かれ、主人の夢を守っているかのようだ。
帽子の束縛から逃れた漆黒の長い髪が白い枕に広がり、数筋の髪が磁器人形のように整った頬にかかっている。彼女は淡いピンクのシルクのパジャマを纏っていた。軽やかな生地は、17歳ながらも訓練で引き締まった彼女の細いシルエットにしなやかに沿っている。
呼吸に合わせて長い睫毛が震え、左手は無意識に枕の下を握りしめていた――そこは、普段銃を置いている場所だ。眠りの中の彼女は、ナイフのように鋭い執行官でも、一族に囚われた天才でもない。ただの寝起きが少し悪く、柔らかい布団に安らぎを求める一人の少女だった。
しかし、執行官としての直感は、眠りの中でも消えることはなかった。
穏やかだった呼吸のリズムが唐突に途切れ、凜のまぶたが跳ね上がった。目覚めた瞬間、黒い瞳には驚異的な神彩が戻る。
彼女はベッドから飛び起き、シルクのパジャマの肩が滑り落ちて白い肌が露わになった。彼女は強張った動作で壁のデジタル時計を見上げ、瞳孔を収縮させた。
「……やばっ! 遅刻するっ!」
凜は悲鳴を上げ、優雅さなどかなぐり捨ててベッドから転がり落ちると、サイドテーブルの黒いキャップをひったくった。
【悪夢:敗北した未来】
アラームの叫びに凜は完全にパニックに陥り、裸足で床に飛び降りた。フローリングを叩く足音がせわしなく響く。シルクのパジャマを脱ぎ捨て、黒いニーハイソックスを細くしなやかな白い脚へと引き上げる。黒い下着を身に着け、腰にある戦いの名残である薄い紅痕を隠すように、白いタンクトップとダボついたタクティカルジャケットを羽織った。最後に、魂とも言える黒いキャップを深く叩きつける。
簡単な洗面を済ませた彼女は、襟元さえ整えぬまま、愛銃を掴んで部屋を飛び出した。
「はぁ、はぁ……間に合っ……た?」
凜はホールに駆け込んだ。しかし、目の前の光景に心臓が止まりそうになった。
ホールには誰もいない。かつての清潔でハイテクな空間は、壁紙が剥がれ落ち、天井からは乾いた血管のように電線が垂れ下がっていた。周囲には腐敗と鉄錆の臭いが立ち込め、まるで数百年も放棄されたかのように荒れ果てている。
「零? 零! いるの!?」
凜はヘッドセットを押さえて叫んだが、返ってくるのは冷たい砂嵐の音だけだった。
彼女は恐怖に駆られて指揮台へ走り、最強のAI、**ハリー(Harry)**を呼び出すための「金のベル」を叩いた。
――カチッ。 ベルは沈み込んだが、何の反応もない。
「みんな、どこに行っちゃったの? 曉姉さん……零次師匠……」
凜は震えながら後退した。視線はホール中央の、最も目立つ白い壁に釘付けになる。そこには、毒々しい紫色のスプレーで狂ったような大文字が殴り書きされていた。
『終わったよ。 ― K』
「K? あの気持ち悪い、変態の情報屋!?」
凜の瞳孔が激しく震える。「どういうこと? ここはどこなのよ!?」
極度の混乱と恐怖に陥ったその時、廊下の奥から濃厚でドロドロとした紫色の霧が湧き出してきた。その霧は生き物のように彼女に襲いかかり、凜は反応する暇もなく、紫の闇に包まれた。
「ごほっ! げほげほっ……!」
鼻を突く甘ったるい刺激に喉が焼け、生理的な涙が溢れ出した。視界が霞む中、彼女は底なしの深淵へと堕ちていく感覚に囚われた。
【現実:冷めない余韻】
「ごほっ! げほっ!!」
凜は猛然と目を開け、胸を激しく上下させた。彼女はまだ柔らかいベッドの上にいた。窓の外の朝日は変わらず穏やかだ。極めてリアルな、悪夢だった。
今度は服を着替える余裕さえなかった。命よりも大事な帽子さえ忘れ、淡いピンクのシルクパジャマ姿のまま、裸足で、顔中に恐怖と涙の跡を残したまま、ドアを蹴破るようにして飛び出した。
廊下のライトは明るく、温かかった。
「……小凜?」
正面から歩いてきたのは、朝食に向かおうとしていた湊と、包帯を巻いているが自力で歩けるようになった今田だった。
二人はその場で硬直した。湊の手のコーヒーは零れそうになり、今田は口をあんぐりと開けて石化した。
目の前の凜は、黒髪を乱したまま肩に散らし、薄いシルクの生地越しに華奢な肢体が透けて見える。いつも強気な顔は真っ赤に火照り、瞳には涙が溜まっている。その姿は、痛々しいほど可憐で、二人の鼓動を加速させた。
「あの……凜、帽子は?」
今田は顔から火が出そうなほど赤くなり、支離滅裂に彼女の頭を指差した。
「それに、なんでそんな格好で飛び出してきたんだ?」
湊は二秒ほど呆然とした後、即座に自分のジャケットを脱いで凜の肩にかけた。大露出した白い肌を隠すように。彼は雅痞な表情を消し、真剣で案じる眼差しになった。
「どうした? 悪夢でも見たのか?」
凜は目の前にいる二人の「生きた」人間を見つめ、聞き慣れた声を聞き、張り詰めていた神経がついに切れた。彼女はなりふり構わず湊のジャケットを掴み、震える声で尋ねた。
「断線先輩……私たち、まだZERO-DELAYにいるの? 今は何年? ……私、今、別の世界に行ってたみたいで……」
「凜、落ち着け。今は現実だ。俺たちがここにいる。……どんな世界に行ってたんだ?」
「……わからない。でも、私たちが……私たちが徹底的に叩き潰された世界だった……」
自室に戻った凜は、閉ざされたドアに背を預けた。心臓の鼓動は、先ほど悪夢の中で命からがら逃げ回っていた時よりも速い。
「バカ、バカ、バカ……!」
彼女は羞恥に悶えながら、枕を掴んで火照った顔を強く押し付けた。あろうことか、廊下であんな透けそうなほど薄いピンクのシルクパジャマ姿で、裸足で、帽子も被らず、あまつさえ泣きべそをかきながら断線先輩のジャケットにしがみついてしまった……。おまけにあのクソモブの今田ときたら、目玉が飛び出さんばかりにこっちを見ていたのだ!
「あの危機感……バイオ兵に包囲されるより命懸けだったわよ……」
凜はぶつぶつと毒づきながら、驚異的な速さで着替えを済ませた。今回は普段よりさらに厳重だ。黒のニーハイソックスを極限まで引き上げ、タクティカルジャケットのファスナーは顎のラインまで上げきり、最後にあの黒いキャップを力いっぱい深く被る。それでようやく、未だに紅潮している両頬を隠した。悪夢の残像はまだ脳裏にこびりついて離れないが、今は「先ほどの露出未遂」への羞恥心が、荒廃した世界への恐怖を一時的に上回っていた。
【廊下:静かなる守護】
廊下では、湊が壁に寄りかかり、やってきた曉と話し込んでいた。曉はすでに整った黒の執行官制服を纏い、深藍色の長い髪を鋭いポニーテールに結い上げ、その瞳には冷静な光を宿している。
「それで、小凜は本当に悪夢であれほど怯えていたの?」
曉はわずかに眉をひそめ、瞳に心配の影を落とした。
「Kのあの事件、まさか私たちが仕留めきれなかった尾があるのかしら?」
「さあな。だが、あいつの反応は単なる幻覚とは思えない」
湊は真剣な表情で答えたが、すぐにいつもの雅痞な口調に戻った。
「まあ、あいつが帽子を被ってない姿は、案外普通の17歳の女の子って感じだったけどな」
その時、ドアが「バン!」と勢いよく開いた。
凜が大股で歩み出てきた。庇はこれ以上ないほど低く下げられている。彼女はまだその場に立ち尽くし、完熟したトマトのように顔を真っ赤にしている今田を見て、込み上げる無名火と気恥ずかしさを隠すように大声で叫んだ。
「ちょっと! クソモブ! あんたの脳みそはまだオフラインなの!? 行くわよ!」
言い捨てるやいなや、湊と曉の表情を見る勇気など微塵もなく、彼女は振り返ることもせず、威勢のいい足取りでホールへと向かった。今田は飛び上がり、慌てて頭を掻きながらその後を追った。
曉と湊は並んで立ち、走廊の角へと消えていく活力に満ちた師弟(というより、お嬢様と従者)の背中を見送った。
廊下には再び静寂が訪れ、遠くでセンサーライトが微かに明滅している。
「あいつの身体が、これに耐えきれるといいんだが」
湊は今田の背中を見つめ、静かに呟いた。
「それに、小凜が見たあの『敗北した未来』が、永遠にただの夢であることを願うよ」
曉は自ら湊の手を握り、指を絡めて、お互いの手のひらの温度を確かめ合った。ZERO-DELAYという、常に死神とすれ違う世界において、このような平穏な言い合いや羞恥にまみれた日常こそが、最も贅沢な戦利品なのだ。
「私たちがいる限り、あんな未来は起こさせない」
曉の声は堅実で、温かかった。
「行きましょう。任務が待っているわ」
廊下の床に陽光が差し込み、二人の影を長く伸ばす。この束の間で穏やかな日常は、遠くで黒い列車が入線する轟音とともに、静かに新しい一ページをめくろうとしていた。
【ZERO-DELAY 最下層・高リスク拘禁エリア】
深夜の監獄、空気は粘りつくほどに淀み、息が詰まるようだった。
K は薄暗い隅にうずくまり、興奮のあまり身体を規則正しく震わせていた。片手は無意識に汚れた石床を何度も往復し、あたかもそのざらついた感触から、ある繊細な肌を連想しているかのようだった。
「ああ……あの瞳、俺を殺したくてたまらないのに耐えるしかない、あの瞳……」
K は目を閉じ、粘りつくような湿った喘ぎ声を漏らす。
「片手でへし折れそうなあの細い首。力いっぱい『可愛がって』やる時、あいつが何色の涙を流すのか見てみたいもんだ……へへっ……ひひひひ……」
――ガシャンッ!
金属の格子が激しく叩かれる音が、彼の腐臭漂う妄想を打ち砕いた。
「え? 幻覚か?」
K は緩慢に首を回した。充血し濁った瞳が暗闇の中で獣のような緑色の光を放つ。
「おや……俺の可愛い子犬ちゃんじゃないか」
薄暗い赤外線ライトの下、九條 凜 が牢の前に立っていた。キャップを極限まで深く被っているものの、怒りで激しく上下するその胸元は、K の目には最高級の興奮剤に映った。
「死に損ないのジジイ、発狂してんじゃないわよ」
凜の声は氷のように冷たかったが、嫌悪感による微かな震えを隠しきれていなかった。
「ああっ……どうした? 俺が恋しくなったか? 下着がぐっしょり濡れるほど、俺のことを考えてたのかい?」
K は蛇のように地を這って近づき、顔が格子に触れるほど身を乗り出した。紫に変色し苔の生えたような舌を出し、空気を貪欲に舐めとる。まるで凜の放つ匂いを捕らえようとしているかのようだった。
「ZERO-DELAY の中じゃ『ルームサービス』も許されてるのか? だったらさっさとその邪魔な服を脱ぎ捨てて、そのピンク色の乳房を見せてくれよ。それとも……偽善者な仲間に囲まれているより、俺の目だけがそのお嬢様という皮の下にある『堕落』を正しく見抜いていることに、ようやく気づいたのか?」
「黙れ」
凜の手首が跳ね上がり、シルバーの拳銃の銃口が格子を突き抜け、K の油ぎった額に深々とめり込んだ。その強い衝撃で K の頭は後ろの格子に叩きつけられ、鈍い音を立てた。
「見ているだけで、俺はもう……」
K は額の銃口など気にも留めず、極限まで歪んだ狂喜の笑みを浮かべた。見開かれた瞳は、凜の袖から覗く白く細い手首に釘付けになり、唾液を啜る音を立てた。
「……我慢できなくなりそうだ。お前のその高慢な手で、今ビンビンに固くなっている俺の『ここ』を握らせたくてな……」
「黙れって言ってんでしょ!」
凜は低く咆哮した。指先は極度の反吐が出るような感覚で強張っている。
「言いなさい! 昨日、あんたが何をした!? なぜ私にあんな奇妙な夢を見させたのよ!」
それを聞いた K は、毛羽立つような鋭い笑い声を上げた。彼は猛然と格子を掴み、指がねじ切れるほどの力で握りしめる。その姿はまるで獲物を待つ腐乱死体だ。
「お前にはたっぷり『手出し』してやりたいが、夢なんてのは知らねえな……へへ。どんな夢を見たんだ? 俺の下で泣きながら許しを乞う夢か? それとも、愛する仲間たちが、あの紫の煙に巻かれてドロドロの肉塊に溶けていく夢か?」
K はわざと声を潜め、戦慄を覚えるような誘惑の響きを込めた。
「夢は潜在意識の現れだ……お嬢ちゃん、もう感じてるんだろ? その天才的な脳みそが、本当はすべてが壊される瞬間を待ち望んでいることを。俺を見るお前の瞳……本当は、俺と同じくらい汚れてるぜ……」
「……救いようがないわね」
凜は、完全に狂い、もはや人間と呼ぶことすらできない怪物を見据えた。これ以上問い詰めたところで、自分の魂まで洗いきれない悪臭に染まるだけだと悟ったのだ。
彼女は猛然と銃を引き抜き、疫病を避けるように大きく一歩後退した。
「あんたの汚らわしい妄想と一緒に、ここで腐り果てなさい」
凜は背を向け、急ぎ足でその暗がりから逃げ出した。背後には、依然として K のねっとりとした笑い声が響き渡っていた。
「逃げるなよ……すぐまた戻ってくることになるんだから……あの紫の夢の中で……お前の涙を一滴残らず、じっくりと舐めとってやるからな……へへへへ、ひひひひっ!」




