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ZERO-DELAY  作者: WE/9
嵐のあと

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36/102

解放

【醫務室:素直になれない贈り物】


醫務室内には、かすかな消毒液と電解液の入り混じった冷たい匂いが漂っていた。


**九條 クジョウ・リンは丸椅子に座り、お気に入りのタクティカルジャケットを脱いで華奢な腕を露わにしていた。数箇所の防水絆創膏と、ゴーグルが砕けた際に頬に残った赤い傷跡を除けば、彼女は相変わらず活力に満ちているように見えた。しかし、パーティションの向こう側にいる今田イマダ**はそうはいかなかった。


生体兵器の高圧スタンバトンを正面から浴びた彼の状態は、決して楽観できるものではない。彼は多くのモニターに繋がれ、深い昏睡の中に沈んでいた。


凜は周囲を見渡し、廊下に足音がないことを確認すると、ポケットから丁寧に包装された高級チョコレートの箱を取り出した。それは彼女が秘蔵していた、京都の名店のもので、よほど気分が良い時にしか口にしない逸品だった。


「……チッ、モブ先輩。これ、高いんだからね」


彼女は赤くなった顔で小さく毒づきながら、今田のサイドテーブルにそっとチョコレートを置こうと手を伸ばした。


「おや、どうやらお邪魔だったかな?」


からかうような軽い笑い声が入口から響いた。**ミナトが両手をポケットに入れ、ドアフレームに背を預けて立っていた。その隣には、クールな表情ながらも優しい眼差しを向けたアキラ**が並んでいる。


「きゃぁっ――!」


凜は感電したかのように素早く手を引っ込め、チョコレートを落としそうになった。彼女は慌ててキャップを深く被り直し、声を荒らげる。


「あ、あんたたち、いつからそこにいたのよ! 脳みそのネットワークが断線してんじゃない? 入る前にノックくらいしなさいよ!」


曉は狼狽する凜の姿とチョコレートの箱を交互に見て、珍しく口角をわずかに上げた。彼女は自分が負傷した際、湊がこうして寄り添ってくれたことや、生死の境を共にした後のあの清々しい朝のことを思い出していた。


「今来たところだ」


曉は穏やかに室内へ足を進め、凜の頭を優しく撫でた。今回は、凜も拒まなかった。


「よくやったわね。生体兵器を単独で仕留めるなんて、歴史を作ったわよ」


「ふん、あんなデカブツ、弱点さえ見極めれば大したことないわよ」


凜は顔を背けたが、帽子の影に隠れた口角は抑えきれずに上がっていた。


「今田の奴……」


湊はベッドサイドに歩み寄り、眠り続ける今田を見つめて目を細めた。


「君を助けるために命を懸けるなんて、いかにも零次レイジの教え子らしい。あらゆる面で平凡だけど、その馬鹿正直さだけは一級品だな」


「そういえば、零次師匠は?」


凜は周囲を見渡したが、あの目立つ白髪の姿はどこにもなかった。


「情報部で、情報官たちをこっぴどく絞り上げてるよ」


湊は苦笑いしながら首を振った。


「あの人の性格だ。『データの誤り』で弟子が窮地に陥ったことを、簡単に見逃すはずがないからな」


白鷺零次は今、まさに情報部の「粛清」を行っていた。彼にとって、このレベルの任務に生体兵器が現れたことを見逃したのは、絶対的な失職だった。彼の凍てつくような威圧感により、情報部はかつてない低気圧に包まれていた。


「行こうか、小さな天才さん」


湊は凜に向かって首を傾げた。


「チョコも届けたことだし。これ以上放置したら、情報部の連中が全員辞表を出しちまう。零次を止めに行こう」


三人は並んで医務センターを後にした。朝の陽光が本部のガラスカーテンウォールに降り注ぎ、この「伝説のコンビ」と「超新星」のシルエットを鮮やかに照らし出していた。


曉は疲労の中にも輝きを宿した凜の瞳を見つめ、ふと小さな声で尋ねた。


「……さっきの、彼に『ありがとう』って言いたかったの?」


凜の足が止まった。次の瞬間、彼女は猛烈な勢いで前方へと走り出し、捨て台詞を残した。


「誰があんなモブに『ありがとう』なんて言うもんですか! あれは賞味期限が切れそうだったからあげただけ! 早く行くわよ! 零次師匠が本当に情報部を壊しちゃったら、今日のブランチが食べられなくなるじゃない!」


湊と曉は顔を見合わせ、二人同時に「年長者」としての、含みのある微笑みを浮かべた。


【スキャン:53の衝撃】


ZERO-DELAYにおいて、任務の終了はすべての終わりを意味しない。すべての執行官は全身スキャンを受ける義務がある。それは怪我の治療のためだけではなく、AI「零(Zero)」のデータベースを更新し、次回の戦術演算の精度を保証するためだ。


「……本当に全身なわけ?」


凜は胸を隠すようにして、スキャンカプセルの前で少し窮屈そうに立っていた。


「規定よ。今回あなたは生体兵器を倒した。データの更新は、今後の武装支給において重要になるわ」


曉はカプセルに背を向け、淡々と、しかし拒絶を許さない口調で言った。


「安心しろ、俺たちも後ろを向いてる」


湊も正直にドアに背を向け、後頭部で手を組んで天井の通気口を眺めていた。


「まあ、お前みたいなガキを見てもな……なんてな。一応、紳士協定は守るさ」


「……あんたたちの脳みそ、やっぱり断線してるわね! 誰が見せるもんですか!」


凜は赤くなって毒づくと、素早く服を脱ぎ、冷たい青い光が満ちるスキャナーの中へと足を踏み入れた。


数分後、電子合成音声が響く。


『スキャン完了。全パラメーターをクラウドにアップロードしました。』


凜が服を着直した頃、中央モニターには彼女の最新の能力レーダーチャートが表示されていた。湊と曉は興味深そうに近寄る。


執行官:九條 凜 (Kujo Rin)


年齢:17歳 / 誕生日:5月7日


【重要性能指標分析】


射撃: 99点(歴史的レベル、零次より1点高い)


速度: 97点


総合身体能力: 53点


潜在能力: 95点


「零」のからかうような声が響く。


「九條執行官、君の射撃能力は歴史的だ。だが同時に、身体能力も歴史的だよ。日本全国でこのシステムを使用しているメンバーの中で、これは史上最低のスコアだ!」


空気が三秒間、凍りついた。


「ぷっ……」


湊は笑いを堪えきれなかったが、凜の顔が般若のように黒くなったのを見て、強引に咳払いに変えた。


「ゴホッ! いや……53点か。温度のある数字だな。曉の全力パンチ一発でバラバラになりそうな数値だけど、射撃の99点はバケモノ級だぞ」


曉は悲惨な53点を見つめ、隧道で凜が生体兵器に掠られただけで吹き飛んだ光景を思い出し、深く考え込んだ。


「納得ね。あなたの戦闘スタイルは、才能だけで命を燃やしている状態よ。身体が脳のリズムについていけてない。これは危険だわ」


「最低記録……」


凜はその53点という数字を凝視し、拳をギリリと握りしめた。


「……あのモブ先輩よりも低いの?」


「今田の数値は安定の75点だ。平凡だがバランスはいい」


モニターに「零」の冷笑が浮かぶ。


「凜、今の君はスーパーカーのエンジンを積んだ……芝刈り機だ。少し接触しただけで粉々になるよ」


「うるさい! この実体のないクソAI!」


凜は怒りに任せて飛び上がり、モニターを蹴飛ばそうとした。


射撃成績は圧倒的だったが、プライドの高い凜にとって「日本最低」という四文字は屈辱以外の何物でもなかった。


「……ねえ、先輩」


凜は不意に動きを止め、キャップを深く被り直した。その声は低く沈んでいる。


「……あとで、格闘を教えてよ」


曉は少し驚いた表情を見せた。


「あんなトロい動作、効率が悪いって言ってなかった?」


「……練習しないと」


凜は顔を背け、医務室の方を見つめながら、声をさらに絞り出した。


「次、あんな怪物に遭った時……誰かが盾になってくれるのを指をくわえて見てるだけなんて、そんなの、最悪だもん」


湊は雅痞ヤッピーな笑みを消し、曉と視線を交わした。彼らはこの17歳の少女の強情さの中に、データを超えた「真の執行官」の眼差しを見た。


「いいわ。ただし、私の訓練はスパルタよ」


曉は手を伸ばし、再び凜の髪をくしゃくしゃに撫でた。今回は凜も振り払わなかった。


「身体能力がマシになるまで、サボることは許さないから」


三人は和やかな雰囲気の中で、この刺激的な一日を終えた。


【翌朝:配置転換】


「新堂曉、神楽湊、九條凜。三名の執行官は司令室へ出頭せよ」


スピーカーから冷徹な声が響く。今田の重傷により、ZERO-DELAYのチーム編成は一時的な調整を余儀なくされていた。司令の指示は簡潔で効率的だった。


「今田の復帰まで、曉は零次の単独ユニットのバックアップに回れ。湊、君は凜の教育担当を任せる」


曉が大ホールで装備を整え、零次と合流しようとする時、その動作はいつもよりずっと緩慢だった。彼女の深藍色の瞳は、銃を点検している湊の方へと何度も向けられる。唇を引き結び、タクティカルベストを握る手がわずかに震えていた。その「名残惜しさ」は、冷徹な仮面の下から溢れ出さんばかりだった。


湊は壁に寄りかかり、その曉の姿を見ていた。脳裏には二年前、初めてコンビを組んだ時の光景が浮かぶ。あの頃の曉は「元警官」に対する軽蔑と嫌悪を隠そうともせず、余計な言葉一つ交わそうとはしなかった。


(随分変わったもんだ……)


湊は心の中で密かに笑い、口角を上げた。あの氷山のような女が、たった一日の別れで、捨てられた子猫のような目をするなんて誰が想像しただろうか。


「曉、たったの二十四時間だ」


湊は歩み寄り、自然な動作で彼女の襟元を整えた。二人にしか聞こえない声でからかう。


「零次の方は少し寒そうだけど、君なら慣れてるだろ。心配するな、この子猫ちゃん(凜)はちゃんと面倒見ておくから」


「……誰が心配なんてしてるのよ」


曉は素早く冷徹な表情に戻り、視線を逸らした。しかし、耳元はわずかに赤らんでいる。


「あなたが新人を甘やかすのが怖いのよ。あと、反応速度が落ちるから甘いものを食べさせすぎないで」


零次と曉が去っていく背中を見送り、残されたのは湊と、キャップを深く被り「不機嫌」のオーラを纏った凜だけだった。湊は心の中で少し頭を抱えた。自分より頭半分低い凜を見下ろし、思考を巡らせる。どう接するべきか?


1. 「教育担当モード」: 零次のよう、適切な距離を保ち、要求を突きつける。


(だが自分にそんな性格は似合わないし、無理をしてもこのガキに見透かされるだろう)


2. 「相棒モード」: 曉との初期の頃のように、互いを探りながら戦場で磨き合う。


(だが凜はまだ17歳、身体能力はたったの53点だ。対等に扱うにはあまりに危うすぎる)


「ねえ、断線先輩」


凜が先に沈黙を破り、苛立ち紛れに地面を蹴った。


「いつまで石像みたいに突っ立ってるわけ? 曉先輩がいないと、歩き方も忘れちゃった?」


「ああ、悪い悪い」


湊は鼻をこすり、少し決まり悪そうに笑った。まずは自分らしい「リラックスしたリズム」で試してみることにした。


「考えてたのさ。曉がいない間、少しは君に優しくしてやるべきかなって。なんと言っても君の身体能力は、守られるべき『国宝級の最低スコア』だからな」


「死にたいの? 今すぐあんたの脳みそに風穴を開けて、完全に断線させてあげましょうか?」


案の定、凜は即座に噛み付いてきた。シルバーの銃が指先で器用に回転する。


「ははは、わかったよ」


湊は手を振り、少しだけ真面目な瞳になった。


「行こうか。今田が休んでいる間、今日は任務を待つことにしよう。君のパフォーマンス、期待してるぜ」


【緊急出動:第48号終端駅】


ホールの空調の音が規則正しく響く中、凜は金属製のベンチに座り、キャップを深く被って船を漕いでいた。曉の小言がない静寂の中で、戦闘後の疲労が押し寄せてきたのだ。


湊は隣に座って腕時計を眺め、自販機でコーヒーでも買おうかと考えたその時、鋭い警報音が空気を引き裂いた。


『緊急出動指令。執行官:湊、凜。目標エリア:管轄外縁、第48号終端駅。』


零(Zero)の声が、任務モードの機械的な響きに変わる。凜はバネが仕掛けられているかのように跳ね起き、その瞳は瞬時に刃のような鋭さを取り戻した。


「行くぞ、小さな天才さん。仕事の時間だ」


湊はタクティカルベストを掴み、凜に向かって顎をしゃくった。


列車は漆黒の弾丸のごとく隧道を駆け抜ける。車内のスクリーンが点灯し、零のホログラムが現れた。その表情はいつもより険しい。


「今回の任務地点は、管轄で最も遠い終端駅だ。旧市街と工業地帯の境界で、環境は複雑。情報によれば、非合法組織が大規模な先進銃器の取引を行っている。N組織から流出した試作型兵器も含まれているようだ」


零はマップを展開し、廃棄された貨物ホームを赤く示した。


「警察はすでに現場から撤退した。司令の指示は『全クリーン(殲滅)』だ。生存者は必要ない。……ただし、一点だけ例外がある。情報提供者、コードネーム『K』だけは確保しろ」


スクリーンに一人の男の写真が映し出された。顔色は土色で、視線を泳がせている中年男だ。底辺で長く生きてきた者の顔だ。


「彼からN組織の次の荷の流向を聞き出す必要がある。彼以外は、現場での射殺を許可する」


湊はマップと男の写真を見つめ、瞳の奥にどこか懐かしげなさざなみを浮かべた。彼は自嘲気味に笑い、無意識に腰のホルスターに手をやった。


「……どうしたのよ、先輩」


凜はシルバーの双銃の弾倉を確認しながら、横目で彼を睨んだ。


「いや……僕の二回目の任務にそっくりだと思ってさ」


湊は静かに溜息をついた。


「あの時も、こんな何もない場所で、この仕事の重さを初めて実感したんだ」


【十分後の死線】


「目的地到着まで、あと十分」


零が冷静に告げる。湊は立ち上がり、ドアの側へ移動して隧道を流れる影を見つめた。雅痞ヤッピーな表情を消し、凜に向き直る。その声には、先輩としての忠告が込められていた。


「凜、いいか。あそこは辺鄙な場所だが、狭い上に遮蔽物が多い。君の射撃精度なら問題ないが、非合法の特殊兵器には気をつけろ。見たこともない光線やエネルギー反応があったら、無理せず僕の後ろに下がれ」


「……チッ」


凜はヘルメットを調整し、闘志に燃える瞳を隠した。


「自分の心配でもしてなさいよ、先輩。私は生体兵器を単独で仕留めたのよ。あんな場所、あんたより早く片付けてあげるわ」


彼女は湊の隣に並んだ。身長差は歴然としていたが、二人から放たれるプレッシャーは、車内の空気を圧倒的な嵐へと変えていた。


「残り五分」


零の声が、再び車内に響き渡った。




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