初陣・実戦
大気には電磁気とオイル冷却による氷のような冷気が満ちていた。
ここは繁華な東京の地下鉄とは似て非なるもの。ZERO-DELAYの血管とも呼ぶべき場所だ。線路の突き当たりには、漆黒の塗装を施され、鞘から抜かれた長剣のように鋭いラインを持つ列車が、静かに闇の中に潜んでいた。
「これが……ブラックトレイン(Black Train)」
今田は重いタクティカルバックパックを背負い、興奮か緊張か、声をわずかに震わせた。
「何ボサっとしてんのよ、モブ先輩」
凜は手元のシルバーの双銃を点検しながら、キャップを深く被り直した。月台の照明の下、その瞳には狂熱的な火花が散っている。
「さっさと乗らないと、このホームの埃と一緒に置いていくわよ」
二人が車両に足を踏み入れた瞬間、ライトが点灯し、センターコンソールの前に半透明のホログラムが現れた。
「おかえり。あるいは、初めましてかな」
映し出されたのは、洗練されたスーツを纏い、クールなユーモアと雅痞な気質を漂わせる男だった。その深邃な眼差しが、スクリーン越しに二人の新人を射抜く。
「僕は 零。東京支部の戦術核心だ。僕のデータベースには君たち二人のあらゆるデータが詰まっている。凜、君の毎日の射撃後の心拍数から、今田君、君の驚くほど平凡なバイタル指標までね……」
「だが、データは所詮データだ。実戦こそが、体制の唯一の基準だよ」
零が手を軽く振ると、車内のスクリーンにミッションブリーフィングが弾け出した。
• 目標: N組織に雇われた過激派暴徒。
• 任務: 中央電力システムの破壊阻止。
• 地点: 第三区地下メンテナンス隧道。
「これは単純な『クリーニング(掃除)』だ」
司令室では、白鷺零次が高台の指揮椅子に座り、顎に手を置いていた。目の前の無数のスクリーンが、彼の細身ながらも威圧感に満ちた姿を映し出している。彼の視線はモニター越しに、ホームにいる二人の弟子を注視していた。
「凜、今田。遠隔で見守らせてもらうよ」
零次の声が車内放送から流れる。冷ややかだが、不思議と安心感を与える魔力を秘めた声だ。
「結果を考えるな。ただ自分たちのリズムを維持しろ。忘れるな、これは演習じゃない。隧道の中に指導員はいない。あるのは殺意だけだ」
「了解、師匠」
凜は笑みを消し、わずかに前傾姿勢をとって臨戦態勢に入る。
「……頑張ってついていきます」
今田は眼鏡を押し上げ、深く息を吸い込んだ。
【深淵の狩場】
ブラックトレインは驚異的な加速度で隧道へと突入し、目標エリア外の緊急ゲートに音もなく停車した。
扉が開くと、そこには絶対的な闇が待っていた。
電力スタンドの外にある隧道は、回路の損傷により照明は一箇所の小さなライトだけに頼っていた。常人にとっては一寸先も見えない地獄だが、ZERO-DELAYにとっては最高の狩場だ。
「暴徒は計十二名。自動火器を所持。距離三百メートル」
零の声がヘッドセットに響く。「あの連中は闇が味方だと思い込んでいるようだが……それが間違いであることを教えてやってくれ」
凜は隧道に足を踏み入れた瞬間、全感覚を解放した。
彼女に暗視ゴーグルは必要ない。脳内で隧道の輪郭、空気の流れの抵抗、さらには遠くにいる敵の呼吸音までもが、自動的に三次元の弾道モデルへと組み上げられていく。
「今田、三時方向に二人、五時方向に一人。そこがアンタの持ち場よ」
凜は低い声で命じた。短く、力強く、逆らうことを許さない権威に満ちた口調だ。
「残りの九人は……私が引き金を引いた後、十五秒以内に消す」
今田は答えなかった。彼はすでに影の中へと消えていた。彼の微弱な存在感は、この闇において最強の魔法となる。大海に溶け込む一滴の水のように、最先端の赤外線センサーですら彼を正確に捉えることは困難だった。
【不測の事態:生体兵器】
「私のリズムについてこれないなら、視界から消えなさい」
心の中で口癖を唱え、凜は遮蔽物から飛び出した。左手の銃が火を噴く!
バン!バン!バン!
絶対的な闇の中、隧道の奥で光るマズルフラッシュが、正確に敵の急所を撃ち抜いていく。彼女は闇の中で踊っているようだった。旋回、移動、そのすべてが敵の視線が切り替わる死角を完璧に突いている。
側翼では、凜の背後を突こうとした暴徒が、人影を見る間もなく頸部を消音射撃で射抜かれた。今田が闇の中から一瞬だけ姿を現し、再び塵のように消える。
遠隔で見守る零次は、スクリーン上で次々と消えていく赤点を見つめ、口角をわずかに上げた。
「リズム感……想像以上に噛み合っているな」
「凜! 伏せろ!」
凜が雑兵を掃討するリズムに没入していたその時、闇の死角から鈍い風切り音が前触れもなく襲いかかった。今田のあの平凡で緩慢だったはずの姿が、驚異的な反応を見せた。彼は前方に飛び込み、肩で凜を激しく突き飛ばした。
バリバリッ――!!
蒼い高圧電流の火花が闇で弾けた。今田の背中に重厚なスタンバトンが直撃する。凄まじい電流が彼を襲い、くぐもった悲鳴と共に地面に叩きつけられた。身体は筋肉の痙攣で激しく震えている。
「今田……?」
凜は無様に転がりながら立ち上がった。襲撃者を見上げた瞬間、その瞳が凍りついた。それは普通の人間ではない。全身を強化装甲で覆われ、瞳に冷徹な赤光を宿し、野獣のような重い呼吸を繰り返す 「N組織:生体兵器」 だった。
「なによ……あれ」
凜の手がわずかに震える。シミュレーション場ではどんなに強い相手でもペイント弾に過ぎなかった。だが、目の前で倒れ、青ざめた顔で動かない今田を見て、凜は初めて悟った。これは遊びじゃない。命を懸けた、正真正銘の「任務」なのだ。
生体兵器は止まらない。手に持ったスタンバトンを再チャージし、耳を劈く鳴動と共に、凜の頭部へ二撃目を振り下ろした。
「……動きなさいよ、私!」
凜は叫び、左手で地面を突き、今田の襟を掴んで強引に後方へ引きずった。致命的な一撃がコンクリートを砕く寸前、彼女は極限の回避を見せた。
「凜、聞け。現場にイレギュラーが発生した」
ヘッドセットから、普段の軽薄さを捨てた、恐ろしいほど冷静な零(Zero)の声が届く。
「残念だが、即時アップロードしたデータによれば、君の初陣が『ラストダンス』になる確率は40%だ。支援部隊は出動したが、この怪物の弱点を君のゴーグルに同期させた」
スクリーンの向こう側で、零次は椅子の肘掛けを握る指を白くさせていた。
「そいつは……」零の声に重い緊張が走る。
「かつてN本部で一対一の記録がある中で、白鷺零次だけが数年前と一ヶ月前に撃破に成功した個体だ。君の弾丸は装甲には通用しない。後頸部の排熱口を狙うしかない」
「舐めないでよ――!!」
凜は恐怖をねじ伏せるように咆哮した。意識を失った今田を厚い鉄製の変電箱の影に安置し、金属の怪物へと向き直った。
【極限の演算:0.8秒の賭け】
凜は黒いキャップを深く被り直し、両手のシルバーピストルを同時にロードした。
バン!バン!バン!バン!
狂気的なまでの制圧射撃。一発一発の弾丸が正確に生体兵器の視覚センサーと膝の関節を叩く。致命傷には至らないが、絶え間ない衝撃が怪物の歩みを確実に遅らせる。
照準は必要ない。極限の圧迫下で、彼女の脳内のリズム感は幾何級数的に跳ね上がる。銀色の閃光と化した彼女は、狭い隧道の壁を跳ね、滑り、柔軟な身のこなしで距離を保ちながら、零がマーキングした赤点――後頸部を狙い澄ます。
だが、生体兵器の動きは予想を遥かに超えていた。バトンを捨て、背中の推進器が轟音を上げると、重装甲の砲弾となって凜に激突した。
「速っ?!」
宙に浮いた凜は回避不能。巨大な金属の拳が胸元に迫る。
「……チッ!」
命中の刹那、凜は空中で身体を捻った。心臓への直撃は避けたものの、肩を激しく擦られ、そのまま吹き飛ばされた。右手の銃が闇の彼方へと転がっていく。
壁に激突した凜のゴーグルには亀裂が走り、視界はノイズで砕け散った。生体兵器が再び彼女に顔を向け、小柄な彼女を巨大な影が完全に覆い尽くす。
17年の人生で、死神の冷たい吐息をこれほど近くに感じたのは初めてだった。
凜は血の混じった唾を吐き捨て、昏倒した相棒を振り返ることはなかった。震える手で割れたゴーグルを直し、ノイズの走る視界を凝視する。
脳裏には、先日の射撃場で湊が見せた、すべてを見透かしたような余裕のある眼差しが浮かんでいた。
『凜、僕の戦い方は複雑だぜ。距離を取るか、死角に入るか。それは君が「全局」を見極めているかどうかにかかっているんだ』
「全局を見る……ふぅ……はぁ……」
彼女は荒い呼吸を無理やり鎮めた。初めて自分の短気な気性を抑え込み、すべての暴躁を冷徹な論理へと転換した。
細い指で残されたシルバーの銃を回転させ、その瞳は刃のように冷たく研ぎ澄まされる。
「零、データを。メインセンサーに一発叩き込めば、どれだけの遅延が生まれる?」
耳元で零の声が、驚きと称賛を込めて響く。「心拍数の安定を確認。構造分析によれば、メインセンサーへの直撃で約 0.8秒 のロジックリセットが発生する。だが凜、チャンスは一度きりだ」
「0.8秒……。私には、一生分くらい長く感じるわね」
【暗闇の処刑台】
「行くわよ!」
凜は低く唸り、放たれた矢のごとく突き進んだ。今度は盲目的な射撃ではない。生体兵器を自らの「リズム」へと引き込んでいく。
バン!
一発目。弾丸は怪物の左眼センサーを正確に掠めた。怪物の動作に極微小な凝滞が生まれる。凜はその隙を突き、しなやかな黒猫のようにその側翼を駆け抜けた。
バン!バン!バン!
高速移動しながら、怪物の両肩、肘、腰の補助センサーを次々と撃ち抜く。装甲から火花が飛び散り、怪物の動きは砂を噛んだ精密機械のように混乱し、硬直していく。
「今よ!」
凜は鋭く頭を下げ、その小柄な体躯を活かして地面を滑り、巨大な股下を一瞬で潜り抜けた。
背後に回った刹那、怪物から漂う不快な化学薬品の臭いすら感じ取った。彼女は素早く反転して立ち上がると、至近距離から上半身のセンサー群を狂気的に制圧する。
スクリーンの向こう、後頸部の排熱口にある弱点の赤光が、ゴーグル越しに鮮明に浮かび上がった。
「消えなさい、怪物!」
最後の一発を放とうとしたその時、鋭敏なリズム感が尋常ではないエネルギーの波動を捉えた。
ウィィィィン――!
生体兵器のかかと部分の装甲が開き、二筋の紫色レーザーが破壊的な熱量を伴って、予告なく後方へとなぎ払われた!
「……っ!」
常人離れした弾道本能が、凜を寸前で動かした。強引に腰を捻り、身体を側方へと弾き飛ばす。レーザーは隧道の地面を焼き、コンクリートを瞬時に溶かして暗赤色の溝を刻んだ。
数メートル先に叩きつけられた凜のゴーグルの亀裂はさらに深まっていた。二度目の失敗。目の前の怪物は、データにあるよりも遥かに変幻自在だ。
「凜! 体力が急速に低下している、無理はするな!」
遠隔の零次がついに声を荒らげた。「支援はあと二分で到着する!」
「二分? そんなの待ってたら、ここごと爆破されてるわよ」
凜はゆっくりと立ち上がった。肩と脚に激痛が走るが、その手はしっかりと銃を握っている。再び向き直り、瞳の赤光を増幅させる生体兵器を見据えて、彼女は一歩も退かなかった。
さっきのレーザーは危険だった。だが、同時に相手の攻撃パターンも完璧に読み切った。失敗のたびに、彼女の中の「弾道モデル」は修正され、完成へと近づいていく。
「紫色レーザー……冷却時間は約12秒。噴射の補償動作で旋回半径には偏りが生じる……」
彼女は再びシルバーピストルを回し、不敵で狂気的な微笑を浮かべた。それは九條家の誇りであり、零次の弟子としての意地だった。
「零、次のレーザー噴射の予読パスを計算して。……気落ちなんてしてないわよ。次は、あいつの首を直接もぎ取る計画を立ててるんだから」
【決着:第二の伝説】
「計算を……最大まで引き上げろ!」
凜の瞳は血走り、極限の演算の下、周囲のすべてがスローモーションへと変貌した。彼女は猛然と突進し、激突の瞬間に奇怪なサイドステップを見せた。湊のフェイントを模倣したその動きに、怪物の重拳は空を切る。
「第一段階!」
シルバーピストルが咆哮を上げる。
バン!バン!
残されたセンサーを完全に破壊。怪物は完全な闇に突き落とされ、頭部からノイズを撒き散らす。
間髪入れず、凜は隧道の天井に向けて引き金を引いた。
バン!
唯一のメンテナンス用ライトが粉砕された。
隧道は死寂の闇に包まれた。視覚センサーに依存する生体兵器にとって、この突発的な「視覚差」とシステムダウンの重なりは、0.8秒の遅延を永遠のような時間に引き伸ばした。
凜はその闇の中を、まるで昼間のように駆け抜けた。背中のタクティカルナイフを逆手に引き抜き、一閃。筋肉の記憶に従い、関節の隙間に刃を深く突き立てる。
動作は止まらない。左手を後ろへ伸ばした。――それは先ほど今田を運んだ際、彼の腰から掠め取っておいた予備のナイフだ。
グサッ!
二本目のナイフが閃光となり、怪物の胸部装甲の隙間に突き刺さる。
凜は腰のナイフの柄を足場に跳躍し、胸のナイフを蹴って、怪物の厚い肩の上へと舞い上がった。優雅で致命的な黒猫のごとく、怪物の背後にしがみつく。
生体兵器は狂ったように暴れ、背後のレーザー装置を再起動しようとするが、センサーを失ったレーザーは壁を無意味に切り刻むだけだった。
ゴーグル越しに、狂ったように点滅する赤点を冷徹に見据える。凜は最後の一丁となったシルバーピストルを、怪物の後頸部へと押し当てた。
「ふん……まあまあ強かったわよ。でも、さよなら」
ドォォォォン!!
特製の穿甲弾が至近距離で爆裂し、闇の隧道を火光が貫いた。生体兵器の心臓部である中央処理ユニットが、完膚なきまでに破壊される。
怪物の動きは唐突に止まり、巨大な鋼鉄の身体は動力を失って前方に崩れ落ちた。土煙が舞い上がる。
【エピローグ】
騒然としていた司令室は、針が落ちる音すら聞こえるほど静まり返った。
**零(Zero)**のスクリーン上のデータが激しく踊り、やがて歴史に刻まれるべき一画面で停止した。
「……データ、更新完了」
零の声がわずかに震え、やがて狂喜の叫びへと変わった。
「単独撃破を確認! 九條 凜、ZERO-DELAY創設以来、白鷺零次に次ぐ二人目の『生体兵器単独クリーニング』達成者として記録!」
指揮椅子の零次は、握りしめていた肘掛けからゆっくりと手を離した。スクリーンの向こう、金属の残骸の上に立ち、肩で息をしながらキャップを直す小柄な姿を見て、彼はこの上なく自慢げな微笑を浮かべた。
「よくやった、凜」
凜は怪物の肩から飛び降り、虚脱感でふらつく足取りで今田のもとへ歩み寄った。自分を救って傷ついた「モブ先輩」を見下ろし、小さく呟いた。
「ねぇ、モブ……死んでないなら早く起きなさいよ。ミッションコンプリート。帰ったら一番高いスイーツ奢ってもらうからね、アンタの金で」
隧道の先、ブラックトレインのライトが再び灯り、支援部隊の足音が近づいてくる。しかし、この瞬間の栄光は、間違いなく17歳の少女、九條 凜のものだった。




