余燼
「これを着ろ、早く!」
湊は路肩に乗り捨てられたパトカーのトランクから、「POLICE」の文字が入った一般特警用のベストを数着引きずり出し、零次と明に投げた。ZERO-DELAY特有の黒い作術服が一般市民にパニックを巻き起こし、体制の機密を露呈させるのを防ぐため、彼らは迅速に偽装を重ねた。
曉はタクティカルヘルメットを被り、特徴的な深い藍色の長髪を隠した。彼女の手にある格闘ナイフには、まだN組織の構成員の血が残っている。
「目標、信義本部中枢。突っ込んで派手に暴れてやろうぜ」
湊はボルトを引き、瞳に狂気じみた戦意を燃やした。
しかし、彼らが影から踏み出し、最後の突撃を開始しようとしたその瞬間――。
「ウォォォーン――!!」
街全体の電力システムが、何らかの巨大な力によって強制的に再起動された。不気味な紫色の光が突如として消え、続いて台北に馴染みのある、温かなオレンジ色の街灯やビルの景観照明が「パッ、パッ、パッ」と順に点灯した。
あの死のような圧迫感は、わずか数秒のうちに霧散した。
「どういうこと?」星玲が呆然とする。スマホのアンテナ表示は一瞬で最大に戻り、麻痺していたネットワークが再び流れ始めた。「電網が復旧した……ハリーの力が押し戻されたの?」
いや、ハリーが勝ったわけではない。
電力の回復と共に、固く閉ざされていた民家の窓から明かりが漏れ始めた。路地からは、隠れていた市民たちが続々と這い出してきた。彼らは一様に茫然自失とした表情で周囲を見渡し、まるで今起きたことが、都市を滅ぼす戦争ではなく、ただの長い停電であったかのように振舞っていた。
その時、四人のイヤホンに林司令の低く感情のない声が響いた。
『ZERO-DELAY、全隊撤退せよ』
「何だって?!」湊がマイクに向かって吠えた。「司令、俺たちはもう目の前にいるんだ! あと五分くれれば、あの仮面の野郎を引きずり出せる!」
『命令だ、湊執行官』林司令の声は異常なほど冷静で、凍りつくような冷徹さを含んでいた。『都市の秩序は再起動された。現場は当局が接収した。黒い列車が入線している。三分以内に地表から離脱し、トンネルの中へ消えろ』
曉は道端で目をこすりながら母親の手を引く幼い少女を見つめた。その子は、特警の服を着た「お兄さんやお姉さん」たちを不思議そうに眺めていた。
「行くよ」
零次は優雅に長剣を収め、背を向けた。白い髪が通常の街灯の下で眩しく光る。
「終演だ。相手は欲しいものを手に入れただけでなく、僕たちの代わりに『後始末』まで丁寧に済ませてくれたようだね」
これこそが究極の挑発だった。N組織は衆人環視の中でZERO-DELAYの核心資産を強奪し、反撃を受ける前に、寛大にも街を体制に「返却」したのだ。最強の執行官たちから、引き金を引く理由すら一瞬で奪い去って。
「台北は……本当に安全、ね」
曉は皮肉な放送のセリフを低く繰り返し、氷のような視線を向けた。
四人の姿は路地に消え、地底へと続く秘密の入り口へと吸い込まれていった。背後では士林の夜景が煌々と輝き続け、人類の歴史を塗り替えかねなかったあの「襲来」など、最初からなかったかのように街は息づいていた。
【台北の傷跡:ハリーの離脱】
本部に戻ると、そこには惨烈な対比が待っていた。
台北支部の医護室は負傷者で溢れ、多くの基層隊員がうなだれて治療を受けている。空気には消毒液と敗北の気配が混じり合っていた。一方で、後から駆けつけた東京支部の支援部隊は整然と整列し、その甲冑は鮮やかで無傷そのものだった。
「戦う前に終わらされた」という挫折感が、機房内の空気を極限まで押し潰していた。
湊は偽装のベストを剥ぎ取り、明たちと共に指揮室へ突き進んだ。林司令に説明を求めるためだ。
「司令! これは一体どういうことだ!」湊はコントロールデスクに両手を突き、不満を露わにした。「あいつらをそのまま逃がしたのか? 敵の正体すら拝めてないんだぞ!」
林司令は大きな窓の前に立ち、その背中はどこか老いて見えた。彼は正常に戻った台北の街並みを見つめ、声を落とした。
「奴らが自ら私を解放した瞬間、理解したよ……。彼らの目的は既に達成されたのだと」
「目的? 台北を占領するために攻め込んだんじゃないのか?」
「私にもわからん」司令が振り返る。その瞳は恐ろしいほど深い深淵を湛えていた。「十七が分析した『台北を拠点に世界へ侵食する』という戦略目標すら、おそらくは真っ赤な嘘だった。奴らは最初から、ここに留まるつもりなどなかったのだ」
その時、機房のスピーカーからハリー(Harry)の澄んだ、しかし厳粛な声が流れた。
『現在、都市全域をスキャンしてバックドアや異常がないか確認しているよ』黄金のデータ流がスクリーンを走る。『一つの可能性がある――Nはただの「ストレステスト」を行っていたんだ。自分たちがその気になれば、十分以内にZERO-DELAYの手から一等地を奪えるということを、世界に見せつけたのさ』
ハリーは間を置き、スクリーンに修復中のハートのアイコンを表示させた。
『幸いなことに、十七(SEVENTEEN)は完全にハッキングされたわけじゃなかった。僕の全力のレスキューで、彼女の核心ロジックは守られたよ。今、意識をゆっくり回復させているところだ』
続いて、零(Zero)の冷淡な声も通信に割り込んだ。
『日本各支部も今回の台北作戦の全データを受領した。同様の「連鎖麻痺」を防ぐため、システムをアップグレード中だ。ニューヨークの方はどうだ? ハリー』
ハリーは半秒の沈黙の後、素早く返信した。
『異常なし(オール・グリーン)だよ』
「異常なし」と口では言いながらも、その場にいる全員が理解していた。この街の平和には、もう修復できない亀裂が入ってしまったことを。曉は影の中で監視モニターを見つめ、指先を無意識に震わせていた。
「これは、終わりじゃない」彼女は低く呟いた。
新堂弦が持ち去ったのは、単なる十分間の都市支配権ではないのだ。
【別れ:黄金の約束と赤い手首】
襲撃の硝煙が完全に消え、騒がしかった月台は再びZERO-DELAY特有の冷徹な秩序を取り戻していた。軌道に停まった黒い特急列車が低い重低音を響かせている。東京支部のメンバーが整然と車内へ戻っていく中、湊と曉は、明と星玲の前に立っていた。
ニューヨークのデータセンターへ戻る前、ハリーの黄金の虚像が皆の視界に現れた。その表情は少年のそれではなく、深淵を覗く者のようだった。
『本当に奇妙だよ、今回のことは』ハリーはポケットに手を入れ、遠くを見据えた。『今回は守り抜いたけど、台北が次の同規模の襲撃に耐えられるかはわからない。とにかく、僕は通常の業務状態に戻るよ。困った時は、あの**「黄金のアラーム」**を叩いて。光がある限り、僕は降臨するから』
黄金の光が霧散し、ハリーはセクション・ニューヨークへと帰還した。
「星玲」曉が唐突に声を出し、別れの沈黙を破った。
彼女は星玲の前へ歩み寄り、ポケットから編み込まれた赤いブレスレットを取り出した。混乱の合間に、曉が密かに用意していた贈り物だ。彼女は星玲の手を取り、その細い手首に優しく結びつけた。
「これは……?」星玲が目を丸くし、少し目を潤ませた。
「お守りよ」曉は短く、しかし温かさを込めて言った。「今度危なくなったら、蛋餅のことばっかり考えないで、自分をちゃんと守りなさい」
「曉お姉ちゃん……うぅ、寂しくなるよ!」星玲は曉に抱きつき、琥珀色のポニーテールを揺らした。
離れた場所では、男たちの「密談」が行われていた。湊は曉の目を盗み、明の肩を抱いて端へと追いやった。
「なあ、明。お前は理屈っぽいが、正直に教えてくれ。普段、どうやって星玲を『甘やかして』るんだ? コツを教えてくれよ」
明はバッグを叩き、真剣な眼差しで手帳を取り出した。
「僕の計算によれば、星玲の心理的満足感は、15%のサプライズ、35%の忍耐強い傾聴、そして50%の食料供給から成る。特に感情が不安定な時は、高カロリーのスイーツを直接投下すれば成功率は98.7%だ」
湊は呆気に取られたが、やがて吹き出した。「ありがとな、相棒。俺の『気楽なスタイル』にも、お前の『データ的な甘やかし』を取り入れる必要がありそうだ」
列車の発車ベルが鳴り、湊と曉は車内へと足を踏み入れた。小さくなっていく星玲と明の姿を見送りながら、曉はポケットの中のペアのブレスレットに触れた。
「行こう。東京へ」
「ああ。帰ったらあの店のレモンティーを飲もうぜ。お前はまだ酒が飲めないからな」湊は微笑み、再び彼女の手を握った。
【帰路:不安と微かな微笑】
往路の切迫感とは違い、帰りの機内は奇妙なほど静かだった。超音速輸送機のエンジン音は遮音壁を越え、心地よい低周波の律動へと変わっていた。曉は窓の外に広がる雲海を見つめていたが、あることに気づいて通信機を叩いた。
「……零次隊長は? 一緒に東京へ戻ると思ってたんだけど」
イヤホンから零の冷ややかなユーモアが返ってきた。
『白鷺零次執行官は離陸直前に特別指令を受けました。彼は直接、京都へ向かいましたよ。何でも、教え子を迎えに行くとか』
「教え子?」あの孤高の「戦力天頂」が弟子を取っていることに、曉は驚きを隠せなかった。
『ええ。京都支部で優秀な成績を収めたメンバーです。来週から東京支部の正規隊員として配属される予定ですよ。17歳の、なかなかに手強いクソガキだそうです。曉、君も苦労しそうですね』
曉は通信を切り、小さくため息をついた。そして隣に座る湊を見た。台北を発ってから、湊の表情はずっと強張ったままだ。目を閉じてはいるが、眉間の深い皺が、彼の心の嵐を物語っていた。
曉は手を伸ばし、少しぎこちなく、しかし優しく湊のボサボサの黒髪を押さえた。
「あなたらしくない顔ね」曉の囁きはエンジン音に紛れ、彼にだけ届いた。「まだ、台北のことを考えてるの?」
湊はゆっくりと目を開け、曉の深い藍色の瞳を見つめた。彼はすぐには答えず、自分の髪に触れている彼女の手をそっと握り返した。
「考えていたんだ……新堂弦が最後に残した、あの感覚を。曉、この戦いは綺麗に終わりすぎた。綺麗すぎて怖いんだ。俺たちが特警に変装して街に出た時みたいに、この街も、この世界も、俺たちみたいな『掃除屋』をいつでも消し去れるんじゃないかって」
彼は曉を見つめ、微かな脆さを見せた。
「もしある日、俺や君が別の人間にすり替わってしまったら。その時は、必ず俺を見つけ出してくれ。いいな?」
曉は一瞬虚を突かれたが、普段湊が自分をどう慰めてくれるかを思い出した。彼女は少し顔を近づけ、額を湊の額に押し当てた。藍色の髪と黒い髪が混じり合う。
「バカね」曉は低く毒づいたが、口角は微かに弧を描いた。「その前に、例のレモンティーのお店の入り口に、あんたが一番嫌いなピンク色の看板を掲げてあげるわ。それを見てあんたが怒らなかったら、偽物だってすぐにわかるから」
湊は呆然とした後、この数日間で初めて、心からの笑みを浮かべた。
【東京・羽田空港秘密格納庫】
機体が格納庫へ滑り込むと、モニターに高階執行官専用の暗号通知が跳ねた。
【重要通知:京都支部メンバー(17歳)、72時間以内に到着予定。到着後、全隊員の心理状態調整を実施する】
湊はその通知を見て、曉に茶化すように言った。「ガキが来るらしいぜ、曉。これからは俺だけにツンデレしてちゃダメみたいだな」
曉はフンと鼻を鳴らし、タクティカルバッグを掴んでハッチを出た。しかし、その手首にある星玲とお揃いの赤い手環は、灯火の下で誰よりも眩しく輝いていた。




