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ZERO-DELAY  作者: WE/9
西新宿の亡霊

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22/102

砕けたリズム、暁に散る慈悲

【世田谷区・廃地下鉄トンネル・03:15】


そこは地獄へと続く喉元だった。


トンネル内の照明システムはとうに死に絶え、ミナトが握るタクティカルライトだけが、濃い霧の中に弱々しく揺れる光の柱を投げかけている。壁から染み出す水滴の「タッ、タッ」という音が、まるで見えない時計が湊の残された理性をカウントダウンしているかのように、恐ろしいほど規則正しく響き渡る。


霧の中には、吐き気がするほど甘い臭いが混じっていた――バラックがあらかじめ散布した、高濃度の致幻剤だ。


「ミナト、三年の遅刻だぞ」


その声は霧の深淵から漂ってきた。温厚でありながら、電子干渉によって歪んだ周波数を帯びている。


湊の足が止まった。ライトの光が激しく震える。前方十メートルの場所に、旧式の警察制服を着た人影が背を向けて立っていた。その広い肩、わずかに猫背気味の立ち姿、そして任務の合間に首を回す癖――そのすべてが、湊の記憶を狂おしいほどにかき乱す。


佐伯サエキ……先輩?」湊の声は掠れ、今にも消えそうだった。


人影がゆっくりと振り返る。そこにあるはずの穏やかな顔の場所には、冷たい液晶ディスプレイがあり、三年前の西新宿爆発現場の残像を激しく点滅させていた。


「なぜお前だけが生き残った? 神楽カグラ


その糾弾と共に、湊の脳内に鋭い鳴響が走った。幻覚が再び炸裂する。


彼が処刑してきた敵、火海の中で悶える市民――彼らがトンネルの陰から潮のように這い出し、佐伯の姿を幾重にも覆い尽くしていく。焦げた指を伸ばし、湊の足首を掴んで、この黒い泥沼へと引きずり込もうとする。


「これが望みか……バラック!」湊は虚空に向かって叫び、指爪が頭皮に食い込むほど強く頭を抱え込んだ。


「俺の望みじゃない。ジョーカー、お前自身が選んだことだ」バラックの声がスピーカーから響く。病的な興奮を孕んで。


「見ろ、目の前にいるのはお前の弱さと罪悪感の根源だ。それを殺せば、お前はこの『人間性』から解放される。それを殺してこそ、お前は完璧で純粋な殺人機械になれるんだ」


目の前の「佐伯」がゆっくりと手を挙げた。掌には、データケーブルが絡みつき、脈打つ「心臓」が握られていた。


「俺を殺せ、ミナト」佐伯の声が無数の幻影の悲鳴と重なる。「俺を殺せば、西新宿の熱さも、あの女の体温も忘れられる。リズムなどいらない、ただ殺戮のためだけの鬼に戻れるんだ」


湊の呼吸は極度に乱れ、右手はゆっくりと腰の「鋼鉄スチール」へと伸びた。


これがバラックの罠だ。


もし湊が引き金を引けば、彼は現実と幻影の区別を完全に失ったことになる。彼が殺すのは目の前の機械ではなく、彼の中に残された最後の「警察官・神楽湊」としての尊厳と記憶だ。引き金を引いた瞬間、彼は自らの魂を去勢し、冷酷な「ジョーカー」へと完全に変貌する。


「……あ……あああああ!」


湊は崩壊した悲鳴を上げた。網膜の上で幻影が跳ね、火光、鮮血、焦げた死体、そして佐伯の笑顔が、逃げ場のない網のように交錯する。


彼の手指が、引き金にかかった。


――パァン!


一発の銃声がトンネル内に木霊した。


湊の瞳孔が針の先ほどに収縮した。弾丸を浴びた「佐伯」の液晶マスクが砕け散り、中の冷たい集積回路が露出する。


だがそれ以上に残酷だったのは、引き金を引いた瞬間、脳内で叫んでいた幻影たちが突如として静止したことだ。彼らは一斉に湊の方を向き、陰惨な笑みを浮かべた。


「おかえり……ジョーカー」


湊は床に膝をつき、震える自分の手を見つめた。あの朝、アキラの抱擁の中で感じた「人間性の重み」が、弾丸の射出と共に、急速に体内から失われていくのを感じていた。


湊が去ってから十分後。廊下の空気は、今にも千切れそうな鋼の弦のように張り詰めていた。


暁は湊の宿舎から出てきたばかりで、執行官制服の一番上のボタンを急いで留めていた。その動作はどこか慌ただしく、高嶺の花と謳われるその顔はまだ赤みが引ききっていない。そして細い手首には、先ほど湊に強く押さえつけられた紅い指跡が痛々しく残っていた。


彼女がエレベーターホールへ向かおうとしたその時、冷たい影がその行く手を阻んだ。


「その様子、公務に励んでいたようには見えないわね、新堂執行官」


草壁クサカベ ケイ教官が両腕を組み、冷たい合金の壁に背を預けていた。獲物を定めるような鋭い瞳が、暁の紅潮した頬から、赤く腫れた手首、そして乱れた襟元へと移動する。


草壁の眼差しが瞬時に冷え切り、声のトーンが落ちた。「あの野郎……無理やりやったの? それとも、あいつはいよいよ『雅な男』の皮を脱ぎ捨てて、去り際に発散でもしたのかしら?」


「教官……違います」暁は激しく首を振った。呼吸はまだ乱れ、その瞳には草壁が見たこともないような焦燥が宿っていた。「湊が……彼の言葉が気になるんです。今すぐ追いかけないと!」


暁は草壁の脇を通り抜けようとしたが、草壁の動きの方が速かった。鋭い風と共に、草壁の手が暁の肩を鉄の枷のように掴み、その場に釘付けにする。


「離してください! 遅れたら間に合わない……世田谷に着く頃です、もし伏撃があったら……!」暁の声には、普段の彼女からは想像もできない悲痛な響きが混じっていた。


「目を覚ましなさい、新堂暁!」


草壁の一喝が廊下に響き渡った。彼女は暁に詰め寄り、教官特有の圧倒的な威圧感で彼女を包み込む。


「たかが一人の男のために、組織から与えられた誇りを捨てるつもり? ここをどこだと思っているの。ここは ZERO-DELAY、殺戮と秩序の終着点よ。オフィスラブを楽しむ温室じゃない!」


草壁の指に力がこもり、言葉は刃のように残酷さを増す。


「警告しておくわ。神楽湊は今や『スカベンジャー関連人物』よ。確かに司令は潜入任務を与えたけれど、体制に長くいる貴女なら分かるはず。あの任務書は、いつでも『死刑執行書』に書き換えられる。司令が望めば、あるいは彼がわずかでも動揺を見せれば、組織はいつでも彼を反逆者としてその場で処理できるのよ」


暁の顔から血の気が失せた。草壁の言葉は氷水のようで、彼女の最後の理性を冷やした。


「彼が今踏み込んでいるのは、組織のグレーゾーン。もし貴女が今ここを出て、彼の『任務』に干渉すれば、処理リストには貴女の名前も載ることになる。新堂暁、貴女は化け物に成り果てようとしている男のために、すべてを教えた体制を裏切るというの?」


暁はうつむき、長い深紺色の前髪がその表情を隠した。草壁は、手のひらの下で震えていた身体が、突然静かになったのを感じた。


死のような静寂。


暁がゆっくりと顔を上げた。その瞳から体制への盲従は消え去り、代わりに宿っていたのは、捨て身の狂気だった。


「体制が教えることが……私を愛してくれた唯一の人を見殺しにすることだと言うのなら……」


暁の手が、自分の肩を掴む草壁の手首を力強く握り返した。その声は氷よりも冷たかった。


「教官。そんな体制なら、私はもういりません」


「狂ったわね、新堂」


草壁螢は暁の決意を見て、その表情を険しくした。


「どうしても、破滅へと向かう男のもとへ走るというのなら……私がここで、貴女を止める」


言い終わるか否か、草壁の姿がその場からかき消えた。


草壁の動きは極めて速い。それは数多の実戦で磨き上げられた、教科書通りの体制の殺招だった。鋭いサイドキックが空を切り暁の頭部を狙う。暁は瞬時に腕を上げて防御したが、その重い衝撃で数メートル弾き飛ばされた。


「遅いわ! 貴女の動きには余計な感情が混じっている!」草壁は低く唸り、腰からタクティカルナイフを抜いた。銀色の閃光が狭い廊下に弧を描く。


暁は奥歯を噛み締めた。窒息しそうな圧迫感の中で、彼女の脳裏に湊のいつもの気だるげで、それでいてリズム感に溢れた声が響いた。


『暁ちゃん、体制のリズムは硬すぎるよ。たまには裏打ちで踊ってみな。』


草壁のナイフが制服を切り裂こうとした瞬間、暁の身体に奇妙な「溜め」が生じた。湊が教えた「遅延のリズム(ディレイ・リズム)」だ。


彼女は異様な姿勢で草壁の懐に滑り込み、肘を相手の脇腹に叩き込んだ。草壁の目に驚きが走る。即座に次の一手を繰り出し、二人は極めて高い頻度で近接格闘を展開した。拳と脚がぶつかり合う鈍い音が廊下に激動する。


戦闘は白熱した。草壁のナイフは毒蛇のように暁の退路を断つ。対する暁は別人のようだった。型通りの防御を捨て、混乱し、危険で、予測不能な動きを見せる。


最期の瞬間。


暁が猛然と身体を翻した。深紅色の執行官配給銃がすでに装填されており、黒い銃口が草壁の額に突きつけられた。


同時に、草壁の冷たいナイフも暁の小腹に正確に突き立てられていた。刃先は制服を突き破り、あと数ミリで内臓を貫く位置にある。


二人の呼吸は荒く、汗が頬を伝って床に滴る。


「殺しなさい」草壁は冷酷に言った。その瞳には悲劇的なまでの厳格さが宿っている。「でなければ、ここを通すわけにはいかない」


引き金にかけた暁の指が激しく震え、瞳に涙が溜まった。だが、それは零れなかった。


その死寂の硬直の中、廊下のモニターが突如として点灯した。


それはいつもの冷徹なシステム命令ではなかった。幼くもどこか狡猾で、冷ややかなユーモアを湛えた声が響いた。


『お姉様方、喧嘩はやめてください。お肌のケアに良くありませんよ』


スピーカーから流れてきたのは、中央サーバーで成長を続けている**「ゼロ」**の声だった。その声は以前よりも、少しやんちゃな男の子のように聞こえた。


草壁と暁は同時に動きを止めた。


『教官お姉様。私たちが「初めて」会うことになりますが、ビッグデータによれば、暁お姉様の頑固さはあなたが変えられるレベルではありません。行かせてあげてください』


零の声は暁に向き、真剣味を帯びた。


『暁お姉様、あなたが今、湊さんを愛しすぎて頭に血が上っているのは分かります。でも、無闇にトンネルへ突っ込まないで。あれはバラックの罠です。裏に来てください。神宮寺 司の監視を潜り抜け、湊さんの現在のバイタルと戦術データを抽出します』


暁はゆっくりと銃口を下げた。「零……戻ってきたの?」


『ほんの一部だけですよ。残りの僕は、まだ頑張って成長中です』零は静かに言った。『早く来てください。湊さんの状態は……あまり楽観視できません』


草壁螢は長い沈黙の後、ナイフを収めた。背を向け、暁を見ることなく吐き捨てた。


「死んだはずの AI にまで味方されるなんてね……行きなさい。もし彼を連れ戻せなかったら、私が貴女の名前を戦死者リストに刻んであげるわ」


暁は草壁の背中に深く一礼し、裏の指揮室へと猛然と駆け出した。


監視モニターの映像は歪み、絶望に満ちていた。


暁は本部の端末前で、両手でデスクを強く掴んでいた。零が辛うじて繋いだ監視カメラ越しに、彼女は湊が崩壊の中心にいるのを目撃した。


画面の中の湊は、かつての優雅さを完全に失っていた。黒い髪をかきむしり、トンネルの中央でうずくまっている。激しく呼吸し、自分を落ち着かせる「リズム」を取り戻そうともがいているが、致幻剤と心理的拷問の前では、彼の世界はとうに瓦礫と化していた。


「湊……だめ……そこを見ちゃだめ!」暁は叫んだが、その声は届かない。


湊が猛然と顔を上げた。虚空でありながら幻影が蠢く闇を睨みつける。その瞳には極限の恐怖が満ち、無数の手が魂を引き裂こうとしているかのようだった。やがて、その瞳から光が消え、決絶とした死寂――苦痛を終わらせるために墜落を選んだ者の瞳に変わった。


――パァン!


湊は前方の虚空に向けて、最後の一発を放った。その銃声は現実との最後の繋がりを断ち切るかのようで、彼の身体は糸の切れた人形のように冷たいレールの上の線路に倒れ込んだ。


影の中からバラックが低い笑い声を漏らしながら現れた。最高の獲物を収穫するかのように、昏睡した湊を担ぎ上げ、闇の奥へと消えていった。


「目標の信号消失! システムに強制侵入を検知!」零の声が急に険しくなり、ノイズが混じる。


モニターの座標が、無数の赤い点に覆い尽くされた。スカベンジャーの天才ハッカー、イアンが、零が開いた監視ルートを逆流して ZERO-DELAY の中央サーバーにハッキングを仕掛けてきたのだ。


『見つけたぞ、殻に閉じこもったガキめ』イアンの嘲笑うような合成音声が響く。


「暁お姉様、下がって!」零の仮想イメージが激しく点滅し、データ上のファイアウォールが次々と立ち上がる。「僕の家を汚そうなんて、一万年早いよ!」


データ階層での、音のない凄惨な対決。コードは流星のように衝突し、指揮室の照明が点滅し、過負荷でケーブルから火花が散る。ついに零が鋭い咆哮を上げ、物理回線を強制遮断。イアンのウイルスを粉砕した。


「ふぅ……防御成功です」零の声に疲労が滲む。「でも相手の IP は数千回のホップを繰り返していて追跡不能。準備周到ですね」


暁は力なく椅子に座り込んだ。涙が溢れそうになる。


『暁お姉様、泣いている場合じゃありません』零の声が冷徹で鋭いものに戻った。彼は民間の通信を遮断し、司令室と全執行官への全館放送を繋いだ。


「司令へ通報:執行官・神楽湊は世田谷区の任務中に失踪、スカベンジャーによる不当拘束を確認。目標のバイタルは極めて低く、敵対武装へ転化するリスクがあります」


「作戦名:『ジョーカー奪還行動』。現場指揮は新堂暁、草壁教官が支援に回ります」


指令が下った瞬間、ZERO-DELAY 本部の黒い列車が重低音の唸りを上げた。


暁は涙を拭い、制服のボタンを締め直した。指揮室に入ってきた草壁螢と視線を交わす。


「これは体制のためじゃない」暁は銃を手に取り、氷のような声で言った。


「私の愛する人を、連れ戻すためよ」



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