深淵への招待状
コンピューターのメインファンの低い唸り音が響く中、イアンは巨大な湾曲モニターの前に座っていた。その顔は幽玄なブルーの光に照らされ、精巧なドールのようにも見える。彼の指が仮想キーボードの上で軽やかに跳ねると、画面には湊と暁の戦闘後のデータ分析が高速で流れ出した。
「バラック、君は衝動的すぎたよ」
イアンは振り返らず、グラスの中の氷がぶつかるような冷ややかな声を出した。
「さっきの伏撃、もし『弦』のコマンドセットを起動していなければ、少なくともあと五人の兄弟の命を繋ぎ止められたはずだ」
バラックはイアンの背後に歩み寄り、その広い掌を彼の肩に置いた。イアンの細い身体から伝わる緊張を感じ取る。
「起動しなければ、君の場所まで露見していただろう。メガコーポが寄越したファイアウォールなんて、風の通るザルと同じだ」
「彼らは最初から、僕たちが生きて帰るなんて思っていないのさ」
イアンは冷淡に眼鏡を押し上げ、モニターにはトンネル内で抱き合う湊と暁の赤外線残像が映し出された。
「見てごらん、このバディを。戦闘中に発生する共振周波数が98%に達している。これは体制が教えられるものじゃない。これは……『人間性』の結合だ」
「人間性か。あんな場所じゃ、それは贅沢品だ」
バラックはモニターを見つめた。
「けれど、それは僕たち『電子のゴミ拾い(スカベンジャー)』に最も欠けているものだ」
イアンは顔を向けた。その凍てついた瞳の奥に、一瞬だけ疲労がよぎる。
「バラック、メガコーポ側が『神楽 湊』をその場で仕留められなかった理由を問い詰めてきている。君の忠誠心を疑い始めているよ」
「疑わせておけ」
バラックは鼻で笑い、鋭い眼光を放った。
「イアン、メッセージを送れ。彼らのプライベートチャンネルに暗号化して、呼び出すんだ」
イアンの細長い指が空中で止まり、眉を微かに動かした。
「直接彼らに挑むつもりかい? 僕の生存確率学には反するね」
「挑戦じゃない」
バラックはモニターの中の暁の顔を見つめた。
「これは確認だ。もし彼らが本当に『弦』の遺志を継いでいるなら、それは敵だ。だが、もし彼らがただ体制に飼い慣らされた小鳥に過ぎないなら……このトンネルを飛び出す勇気があるかどうか、見てみたい」
イアンは二秒ほど沈黙し、やがてその口元に、極めて淡く、どこか病的な美しさを湛えた弧を描いた。
「了解。座標を送信した。目的地は『旧神田電気トンネル』だ」
送信成功のログを見つめながら、イアンは低く独り言ちた。
「君の直感が正しいことを祈るよ、バラック。さもなければ……僕たちは夜明け前に全員死ぬことになる」
【東京本部・湊の個人休息室・21:00】
シャワーから上がったばかりの湊は、明朝のシフトを確認しようと机の上のスマートフォンを手に取った。突然、画面が不気味なブルーの光を放ち、あらゆる生体認証ロックをバイパスした。
冷たく、電子的なリバーブがかかった声が低く響く。
『神楽執行官、信号を追跡しようとするな。この回線は三十秒後に自己崩壊する』
湊の目が瞬時に鋭くなった。大声で助けを呼ぶことはせず、背後のドアに鍵をかけ、冷ややかに問い返した。
「拾荒者のハッカーか。想像以上に度胸があるな」
同じ時刻、隣の部屋の暁も鏡の前のスマートフォンを見つめていた。画面には回転するカラスの紋章が浮かんでいる。
『新堂執行官、なぜ「あの男」の権限が僕たちの手元にあるか知りたくないかい? 知りたければ、明日の午前二時、パートナーを連れて旧神田電気トンネルへ来い』
「……誰なの?」
暁の声が微かに震える。
「新堂 弦はどこにいるの?」
『来ればわかることだ。忘れるな、これはプライベートな招待だ。もし神宮寺の部隊を連れてきたり、あのデブの情報員を刺激したりすれば……「弦」に関する全てのデータは永久に抹消される』
画面は暗転し、データは完全に蒸発した。まるで今しがたの通話など最初から存在しなかったかのように。
十分後、湊は密かに暁の部屋のドアを押し開けた。二人は視線を交わし、互いの瞳の中に同じ衝撃と不安を読み取った。
「お前も受け取ったのか?」
湊は声を潜めた。暁の手のひらは汗で濡れている。
「ええ。イアンとかいう奴……技術が恐ろしく高い。壁に刻んだ俺の『リズム感』まで狂わされそうになった」
湊は暁のそばに寄り、落ち着かせるように肩を叩いた。
「明らかに罠だ、暁。相手は俺たちの全てを知っている。お前がどれほど『弦』に執着しているかもな」
「わかっているわ」
暁は顔を上げ、その瞳に揺るぎない決意を宿した。
「でも、もし彼らが本当に弦の情報を持っているなら、行かないわけにはいかない。湊……これは私が『自分は何者か』を取り戻すための、唯一のチャンスなの」
彼女の頑固な瞳を見て、湊はため息をつき、苦笑した。
「そう言うと思ったよ。いいだろう、体制に隠れてこっそりデートするなら、こんな目立つ黒のライダースーツは脱いでいかないとな」
【午前 01:45・神田地区地下入口】
本部の監視とパトロールドローンを避けるため、二人はありふれた私服に着替えていた。湊はゆったりとしたワークジャケットにパーカーを合わせ、腰の銃を隠している。暁は濃い色のスポーツウェアを纏い、深紺色の長髪をキャップの中に収めていた。
「いいか、暁」
薄暗い電気トンネルへ入る前、湊は最後の通信機器チェックを行った。
「状況が悪くなればすぐに撤退だ。俺たちはもう組織のために戦ってるんじゃない。俺たちの残りの人生のために戦うんだ。覚えてるか?」
暁は頷き、袖口に隠したタクティカルナイフを握りしめた。
錆びついた鉄扉を押し開けると、古いケーブルの焦げた臭いと冷気が混ざり合った独特の空気が押し寄せてきた。トンネルの奥、微かな黄色い光の下に、鉄塔のような男が立っていた。
バラックは沈黙したまま配電箱に寄りかかり、その肌は微光の中で黒く光っている。彼の傍らの石台では、イアンが冷淡にノートパソコンを叩いており、モニターの青い光が彼の病的なほど整った顔を照らしていた。
「予定より三分遅いな」
イアンは顔を上げずに言った。
「あのしつこい追跡ドローンを撒くのに時間がかかってね」
湊は一歩踏み出し、暁を背後に庇うように立ち、視線をバラックに固定した。
「さて、人は来た。存在しないはずの『権限』について、話をしようか」
バラックはゆっくりと目を開けた。零次にも匹敵する圧倒的な威圧感が、狭いトンネル内に充満する。
「権限はただの餌だ」
バラックの声は雷鳴のように重い。
「神楽 湊、新堂 暁。体制に飼われた猟犬に、まだ人間の魂が残っているかどうか……見てみたい」
そう言うと、バラックは無造作にジャケットを放り投げ、黒豹のようにしなやかで強靭な肉体を露わにした。銃を抜くこともなく、ただゆっくりと両手を広げ、無駄のない格闘の構えをとった。
「これは交渉ではない。テストだ」
バラックの口調は冷酷だった。
「銃は使うな。殺傷武器も禁止だ。もし俺を認めさせることができれば、全てを教えてやる」
「銃なしだと?」
湊が眉をひそめる。ここはバラックの土俵だ。
「彼は私たちの限界を見たいのよ」
暁が湊の耳元で低く囁き、キャップを脱ぎ捨てて深紺色の髪をきつく結び直した。
「付き合ってあげましょう。私も見てみたい……この手が銃を握る以外に、何ができるのかを」
「いいぜ、お嬢様」
湊が笑った。それは嘲りではなく、純粋な戦士としての興奮だった。彼は上着を脱ぎ、腰回りのタクティカルベストを露出させたが、そこには目立つ武器は一つもなかった。
「なら見せてやろう。俺たちのリズム感は、銃がなくても致命的だってことをな」
「開始」
イアンがコマンドを入力すると、冷たい電子音がトンネルに響き渡った。
バラックの姿が、その場から消えた。
【ドォン!】
虚飾のない、純粋な**「速度と力」**。湊が腕を上げてガードするのが精一杯だった。バラックの鋼鉄のような拳が、湊の前腕に重く叩き込まれる。
【ドン!】
鈍い衝撃音が響き、湊の身体は数メートル後方へと弾き飛ばされた。腕には激しい痺れが走る。この力は、零次との訓練でのどんな対抗戦をも遥かに凌駕していた。
「湊!」
暁が叫び、閃光のような速さで飛び出した。バラックの側面を突き、簡潔かつ効率的な格闘術で急所を狙う。
しかし、イアンの存在が戦況を奇妙なものにしていた。
【ジジッ!】
暁がバラックに近づこうとした瞬間、足元の地面に数本の青い回路が発光した。イアンのモニターには赤い警告バーが点滅している。
「新堂執行官、体温データが高すぎますね。帯電エリアを通るには適していません」
イアンが冷たく言い放ち、キーを叩くと、暁の足元の電流が瞬間的に増幅された。
暁は身を翻して回避せざるを得ず、攻撃のリズムを乱された。バラックはその隙を逃さず、裏拳の一撃で湊を再び窮地へと追い込んだ。
「あのハッカーに構うな!」
湊は体制を立て直し、口角から一筋の血を滲ませながらも、その瞳の興奮は増していた。
「暁、お前の周波数を維持しろ。リズムは俺に合わせろ!」
暁は瞬時に察した。彼女は単独でバラックに近づくのをやめ、周囲の「環境」に注意を向けた。バラックが湊に向かって猛攻を仕掛けた瞬間、暁は壁の配管を支点にして跳躍し、バラックの頭上を飛び越えた。
バラックはその動きを読み、背後へ拳を振り抜こうとした。しかし、暁のターゲットはバラックではない。
【キィィィーン!】
彼女の細い爪先が、バラックの側面にあった錆びた配電箱を激しく蹴り上げた。配電箱は大きく揺れ、中の基板から火花が飛び散る。
「バラック、左後方だ。電磁干渉が起きるぞ!」
イアンの声に焦りが混じった。
バラックの注意が配電箱に削がれた一瞬。湊はその機を逃さず、死角からコンビネーションを叩き込んだ。拳に力を込めるのではなく、「リズム」を追求する。雨粒のように密度の高い連打。ガードした後の筋肉の疲労点を的確に突く。
剛腕のバラックといえど、この「電撃戦術」の精妙な連携には手を焼いているようだった。
【パン! パン! パン!】
湊の拳が連続してバラックの胸を打つ。実質的なダメージは少なくとも、彼を一歩後退させた。
「ふん……悪くないリズム感だ」
バラックの口元に、初めて興奮の混じった笑みが浮かんだ。その両目には、かつてないほどの戦意が宿る。
イアンはモニターを見つめていた。湊と暁の共振周波数が驚異的な速度で急上昇している。
『戦闘同期率……95%に到達』
冷静にデータを読み上げるイアンの手が、眼鏡を押し上げる際に微かに震えた。
このバディは、その「人間性」を武器に、「非人間」の限界を突破しようとしている。
トンネルの空気は、今にも発火しそうなほど熱を帯びていた。
湊の呼吸は短く、躍動していた。興奮で全身の筋肉が微かに震え、拳にはこの一年、死線を潜り抜けて磨き上げた瞬発力が満ちている。対するバラックは今にも噴火しそうな火山のようだった。黒い肌の下に血管が浮き出し、その一撃は鋼板をも貫く威力を持っていた。
二人はその「リズムの点」を待っていた。万物が静止し、互いの心音だけが共鳴し合うその瞬間を。
二人の拳が空中で激突し、破壊的な衝撃が爆発する寸前。耳を刺すような電子の絶叫が、トンネルの沈黙を切り裂いた。
【ピーーーーッ!】
「バラック、止めろ!」
イアンの指がキーボードに最後の一打を叩きつけた。彼の指示により、トンネル内の全てのケーブルが過負荷となり、激しい電気火花が連鎖的に発生。一時的な電磁バリアが形成され、二人の気配を強制的に遮断した。
モニターに表示された、バラックの体力限界を示す赤いラインを見ながら、イアンは内心で驚嘆していた。
「これ以上はバラックの負荷が閾値を超える。このバディの同期率は……すでに人間の範疇を超えている」
バラックの拳は、湊の頬から五センチも離れていない場所で止まっていた。拳風が湊の頬をかすめ、細い血筋を残す。バラックはゆっくりと手を引き、激しく上下する胸を抑えながら、瞳の戦意を深い敬意へと変えていった。
「テストは終了だ」
バラックは低く言い、落ちていたジャケットを拾い上げた。
「おい! どういうつもりだ?」
湊は脱力したように膝をつき、激しく肩で息をしながらも、鋭い眼差しで睨みつけた。
「話はまだ終わってねえぞ……」
バラックは湊のそばに歩み寄ったが、その抗議には取り合わなかった。彼はタコだらけの大きな手を差し出し、湊を引き起こそうとするかのように見せたが、二人の肩がすれ違った瞬間、湊の耳元に顔を寄せた。
地獄の囁きのような、湊にしか聞こえない低い声で、彼はいくつかの言葉を落とした。
「西新宿のあの爆発……あいつが、本当に事故であそこで死んだと思っているのか?」
その瞬間、湊の瞳孔が急激に収縮し、全身の血が凍りついたようだった。彼がずっと葬り去ろうとし、エリート警官から堕落させ、そして ZERO-DELAY に入った初志でもあった悪夢の封印を、この見知らぬ男はいとも容易く引き剥がした。
「お前……何て言った?」
湊の呼吸は一瞬でリズムを失った。理智が秒で崩壊し、雅痞な微笑みは消え去り、代わりに狂気に近い暴虐が宿る。彼の右手は無意識に腰の後ろへと伸びた。この対戦で使うはずのなかった改造ピストルを、彼はすでに握りしめていた。銃口がバラックの後頭部を狙おうとする。
「湊! やめて!」
鋭い声が響いた。暁の冷たくも温かい手が、湊が銃を抜こうとする手首を死守するように抑え込んだ。
「落ち着いて! 原則第三条、冷静さを保って!」
暁は湊の背中に全身を預け、全霊の力で彼を制止した。その声は微かに震えている。
「これは罠よ、湊! 彼に乗せられないで!」
湊の指はトリガーの縁にかかり、指関節は力みすぎて白くなっていた。バラックの背中を睨みつけ、歯を食いしばる。暁の温かい頬が自分の冷え切った首筋に触れ、あの馴染みのある香りが漂ってきたとき、ようやく断線しかけていた理性が一点、また一点と繋ぎ合わされていった。
「……チッ」
湊はゆっくりとグリップから手を離し、銃をホルスターに戻した。彼はうつむき、乱れた黒髪で両目を覆い隠した。
バラックは立ち止まり、暁に抱きしめられている湊を一瞥した。その口元には、同情か嘲笑か判別のつかない弧が浮かんでいた。
「次に会うときは、冗談やテストでは済まさない」
バラックは低く告げ、イアンに向き直った。
「行くぞ」
イアンは優雅にノートパソコンを閉じ、最後にまだ息を荒げている暁を見て、眼鏡を直した。
「新堂執行官、君の父親の遺言についてだが……そこに追跡プログラムを植え込んでおいた。君が本当に真実と向き合う準備ができたとき、信号が灯るはずだ。そのとき、君のそばにいる人間がまだ信頼に値する者であることを願っているよ」
二人の姿はトンネルの闇の奥へと溶け込み、最初から存在しなかった幽霊のように消え去った。
トンネル内は再び死寂に包まれた。
湊は片膝をつき、両手で顔を覆った。暁は彼のそばに膝立ちになり、腕を彼の腰に回したまま、普段はふざけてばかりのこの男が、今は獣のような押し殺した嗚咽を漏らしているのを感じていた。
「湊……彼、なんて言ったの?」
暁は心配そうに、優しく問いかけた。
湊は答えなかった。ただ、暁を壊れるほど強く抱きしめ、彼女を自分の身体の中へ溶かし込もうとするかのような力で抱いた。
「暁……」
湊の声は恐ろしく枯れていた。
「お前以外に……俺にはもう、未来なんてないんだ」
【東京本部・執行官宿舎・03:15】
廊下のセンサーライトが明滅を繰り返している。湊はふらつく足取りで部屋のドアを開けた。あの一向に揺るがなかった「リズム感」は、今や雑音の塊と化していた。
暁も彼の後に続いて部屋に入り、背後でドアを閉めた。暗闇の中で湊の広い背中が微かに震えている。電気トンネルから持ち帰ったあの殺気は、依然として彼の周囲に渦巻き、消える気配がなかった。
「湊、落ち着いて」
暁が一歩歩み寄り、彼の手首を掴もうとした。
「バラックは何て言ったの? 西新宿の爆発のこと? それともあなたの過去? 話して、私たちはバディでしょう……」
「……何も言うな」
湊の声は、砂利の上を擦るように低く響いた。
「言わないわけにはいかないわ!」
暁は彼の前に回り込み、頑固で心配に満ちた瞳で見つめた。
「あなた、さっき彼を殺そうとした。いつものあなたじゃなかった。話してくれないと、このことがあなたを壊してしまう!」
「言わなくていいって言ってるだろ!」
湊が突然、低く吠えた。あの優しかった黒い瞳には血走った色が浮かび、心胆を寒からしめるほどの野性が閃いていた。彼が猛然と一歩踏み出し、暁が反応する間もなく、強大な力で後方へと押しやられた。
【ドサッ!】
暁の華奢な身体は、柔らかいベッドの中へと深く沈み込んだ。彼女が起き上がる前に、湊の大きな影が覆いかぶさってきた。彼は暁の両手首を枕の両端に力強く押さえつけ、窒息しそうなほどの圧迫感を放った。
それは、暁の知っている湊ではなかった。今の彼は、動作が粗雑で、焦燥し、出口を求めて憤怒をぶつけようとする追い詰められた獣のようだった。熱く乱れた呼吸を吐きながら、彼は暁の首筋に顔を埋め、その肌を軽く噛みしめた。
「湊……痛い……」
暁は自分を押さえつける男を、怯えた目で見つめた。
それは、経験したことのない恐怖だった。湊の手が震えながら彼女の襟元を乱暴に掴むのを感じた。それは純粋な獣欲と混乱の交錯だった。この瞬間、湊は暁の身体を奪うことで、バラックに抉り取られた心の深淵を埋めようとしているかのようだった。
しかし、彼の唇が彼女に乱暴に触れようとしたその時、暁の目尻から一滴の冷たい涙がこぼれ落ち、ちょうど湊の手の甲に当たった。
その一滴の温度は、重槌のように湊の混乱した脳内を叩き割った。
「……クソが」
湊の身体が凍りついた。彼はそのままの姿勢で固まり、数秒後、全身の力が抜けたように、暁の手首を押さえていた力をだらりと解いた。
彼はゆっくりと起き上がり、暁に背を向けてベッドの端に座ると、両手を深く髪の中に突っ込んだ。部屋の中には、二人の不規則な呼吸音だけが響いていた。
「……すまない。暁、すまなかった」
湊の声はかすれ、激しい自責と落胆に満ちていた。
「お前を……発散の道具にするつもりなんてなかった。どうかしてた、今の俺は本当にどうかしてたんだ」
暁はゆっくりと起き上がり、赤くなった手首をさすりながら、湊の項垂れた背中を見つめた。怒りはなく、ただ胸が張り裂けるような愛おしさだけがあった。バラックという男の数言が、湊が長年維持してきた自己防衛の壁を粉砕してしまったのだと悟った。
「……いつか」
湊はうつむいたまま、落ち着きを取り戻した、けれど死んだような声で言った。
「いつか、腹の中で腐りかけている真実を、一から十まで全部お前に話す。なぜ俺が警察官になったのか、なぜこの地獄に加わったのか……」
彼は苦々しく、自嘲気味に笑った。
「でも、今じゃない。今の俺は……自分が誰なのかさえ、もう分からなくなりそうだ」
暁は沈黙して彼を見つめていた。やがて背後からゆっくりと近づき、優しく、けれど断固とした意志を持って彼の肩を包み込んだ。湊の広く、冷たくなった背中に顔を寄せ、彼の心臓が次第に安定したリズムを刻み始めるのを感じ取っていた。
「……いいわ」
暁は傷ついた子供をなだめるように、優しく囁いた。
「何があったとしても、あなたが誰であったとしても。今は、あなたは神楽 湊。私と一緒に台北で店を開く実習生。あなたが話したいと思うその日まで、私はここにいるから」
背中から伝わってくる体温を、湊は感じていた。それは、この凍てついた体制の中で、彼が唯一触れることのできる、真実の未来だった。彼は背後に回された暁の手を握り返した。
今、彼の「リズム」はようやく、微かな、けれど確かな周波数を取り戻した。




