Mission complete
ブラック・トレインが垂直の昇降シャフトを約一分間、猛烈な勢いで下降し、沈鬱な油圧ロック音とともに停止した。
ハッチが静かに開く。湊の目に飛び込んできたのは、旧時代の駅などではなかった。それは地底深くに埋設された、視覚を震撼させる純白の殿堂。空気は過剰なまでに清浄で、精密機器が稼働する際に放つ微かな甘い匂いが漂っている。
曉と零次は彼を導くことなく、自覚的に両側へ分かれ、直立不動の姿勢を取った。
プラットフォームの正面には、深い灰色の軍用ケープを纏った老人が立っていた。背中で組まれた両手、花崗岩のように硬質な顔の輪郭。目尻には刻まれた深い皺が歳月を物語っているが、その瞳は淀んだ水底のように澄み渡っている。
彼こそが、ZERO-DELAYの総司令だ。
「この列車は、無能を運ぶためにあるのではない。」
総司令の低く、磁気的な声が、広大なホールに反響する。
「神楽湊。データはすでに見たはずだ。我々はこの街の掃除屋であり、混迷する世界の最後に残された制動装置だ。」
湊は列車を降り、巨大な半球状のホールを見渡した。中心には一組の男女を象った巨大な像が聳え立っている。その制服には白と黒のラインが刻まれ、地底の聖域を守護する古の神のように見えた。
「ここには法のグレーゾーンなど存在しない。あるのは『遅延』か『零延遲』か、その二つだけだ。」
総司令は背を向け、ついて来いと促した。
「来い、寮は整備区の上にある。」
二人は高強度の強化ガラスで構成された回廊を進む。足元には無数の光ファイバーがデータとして点滅し、流れていく。総司令がミニマリズムを体現したような個室のドアを開けた。家具はベッド、机、椅子、そして銀色の金属壁しかない。
総司令がセンサーに触れると、金属壁が無音で左右に開き、内蔵されたライトが中の装備を照らし出した。
漆黒の、流線型を描く特殊装備。曉の「赤」や零次の「白」とは異なり、その接合部には深い「パルス・グリーン」の光が埋め込まれている。傍らには、緑と黒のツートンで彩られた長銃身の拳銃が置かれていた。余計な装飾を削ぎ落としたその銃には、安全装置すら存在しない。ただ「放つこと」だけを目的に造られた道具だ。
「これが君の制服であり、君だけの武器――『パルス』だ。それは君の生命頻度を記録し、リズムが同期した時にのみ最強の道具となる。」
総司令は自らその重厚な装備を手に取り、湊へと手渡した。二人の掌が短く重なる。湊はその手のひらに刻まれた厚い胼胝から、相手がくぐり抜けてきた戦場の洗礼を感じ取った。
部屋を出る直前、総司令は足を止め、鋭い視線を湊の肩越しに向けた。
「神楽、その服を纏う前に、この場所の四つの鉄則を刻め。それが、我々が人間であるための唯一の証明だ。」
総司令の口調は厳かになり、一語一語を噛みしめるように告げた。
「第一、射撃を許可する。警告は不要だ。目標の排除を最優先せよ。」
「第二、理性を保て。感情は戦術における最大の雑訊だ。」
「第三、沈着であれ。いかなる凄惨な現場においても、君の頻度を乱してはならない。」
彼は一拍置き、深淵のような瞳に複雑な感情を滲ませた。
「最後だ。……人間であれ。」
「明朝六時、整備区に集合せよ。」
扉が閉まると、部屋に再び静寂が訪れた。
湊はベッドの端に座り、暗闇で淡く緑に発光する装備を見つめた。冷たい質感に指先で触れ、深く息を吸う。
明日から、警察署のデスクで足掻いていた「神楽警官」は死ぬ。
代わって現れるのは、都市の夜を切り裂く、翠緑の閃光だ。
翌朝。
湊は整備区の姿見の前に立ち、己の武装を最終確認していた。
厚い防弾衣とは異なる、液状金属のような質感を持つ黒の複合素材。その闇の中に、両腕の象徴が浮かび上がる。
左腕には、威圧感を放つ灰色の数字『0』。装甲材に直接エッチングされたそれは、彼の識別番号であり、「零延遲」の絶対原則。
右腕には、銀糸で描かれた精密な都市環状鉄道の路線図。湊の呼吸に合わせ、列車の現在地を示す微小な光点が血脈の上を滑っていく。
その時、エネルギー回路が起動した。
毒液のように冷徹で、プラズマのように狂暴な**「プラズマ・パルス・グリーン」**の光が、全身の関節を駆け巡る。暗闇で跳ねる翠の光は、彼を都市と同期する捕食者へと変貌させていた。
「……感じ取れるぞ。悪くないな、これ。」
六時ちょうど。整備区のハッチが開くと、湊は迷いのない足取りで踏み込んだ。
曉は武器庫に寄りかかり、零次は長椅子で優雅に白い短刀を拭っている。
「ほう? よく似合ってるじゃないか、新人。」
零次が顔を上げ、不敵に微笑む。「グリーンは君に合っている。……活力を感じるよ。」
「ふん、装備が良くてもリズムが狂えばただのゴミよ。」
曉は相変わらず容赦ない。そこへ総司令の足音が響いた。
「整列。」
総司令は三人の前に立ち、空気を凍らせるような宣告を下した。
「AI・零のシミュレーションに基づき、今日付で東京部門の改組を行う。」
「白鷺零次、貴公の殺傷能力は上限に達した。効率を最大化するため、貴公を『単独行動組』へ異動させる。特級案件の単独処理、あるいは大規模任務の終結点を担え。」
零次は眉を動かし、短刀を回した。「一人か。睡眠時間が増えそうでいいな。異論はないよ。」
「不合理です!」曉が反論する。「新人と私を組ませる? 指導なら零次の方が適任です。私とでは摩擦が生じるだけです!」
それは、リズムが壊されることへの不安の裏返しだった。
「これは零による最適解だ。曉、君の安定性で新人の不安定さを抑え込め。命令だ。」
「……曉。」零次が彼女の肩を叩く。「この男のリズムは面白い。君の型苦しい戦術に驚きをくれるかもしれない。……じゃあな、楽しい同僚たちが待っているんでね。」
零次は颯爽と去っていった。
残された沈黙の中、湊は右手を差し出した。
「よろしく頼むよ、先輩。」
曉はその手を、そして湊の瞳を見つめ、覚悟を決めたようにその手を強く握り返した。赤と緑の光が交差する。
「いい、神楽。リズムを一秒でも外したら、殺される前に私が叩き出すわよ。」
その瞬間、零の声が響いた。
『大規模な異常頻度を検知。目標:渋谷スクランブル交差点。列車は三十秒後に到着します。……お二人とも、カーテンコールの言葉を。開演の時間ですよ。』
列車の中、空気は極速移動により震えていた。壁面には渋谷・西武百貨店の3Dマップが浮かび上がる。
『今回のミッションにはSection TOKYOの別動隊三組も投入されます』
零の声が冷徹に響く。
『第一から第三組が誘導と火力を担当。神楽、新堂。あなた方の任務はホール上部からの精密打撃です。注意せよ、情報屋の殺害は厳禁です。奴は背後の組織を辿る唯一の鍵だ。……万全を期すため、最後方に零次を配置します』
湊はパルスを指先で叩いた。翠の光が呼応するように跳ねる。
「零、リズム(タイムテーブル)を。」
『21:20、侵入。
21:22、陽動。
21:24、暗転。そこから百八十秒以内に中心部を制圧せよ。
最後に、逃走を試みる目標を零次の元へ追い込む。……それだけです』
「聞いたわね。精密作戦よ。一秒でも早く顔を出したり、情報屋を撃ち抜いたりしたら、帰りの車から放り出してやるわ」
湊は目を閉じ、死のビートを刻み始める。「了解。21:24までは、息を止めておこう。」
21:19。西武百貨店の大ホール。
武装集団がなだれ込む。静寂に支配された空間。その時、システムが長い唸りを上げ、世界から光が消えた。
暗闇の中、四方向から光軌が灯る。「撃て!」とリーダーが叫ぶが、ZERO-DELAYの襲撃はすでに始まっていた。
左翼から青い弾幕、右翼から囮による強襲。そして中央で紫の閃光弾が炸裂した。
「時間だ。」
湊と曉が、シャンデリアから舞い降りた。
空中での深呼吸。湊の視界からノイズが消える。乱射の嵐が、彼には「視える」。
湊は「パルス」を放ち、遠距離から曉を援護。正確に敵の関節を穿つ。
曉は紅い暴風と化し、短刀と重火器で敵を蹂躙した。
「くそっ、裏口から引け!」
生き残りが逃げ出した先、月光の下に白い影が立っていた。
白鷺零次。
「お疲れ様。」
零次の声とともに、追撃隊の総攻撃が始まった。
白い残像が舞う。零次の動きは優雅でありながら、一撃ごとに命を奪い去る。一人につき二秒。瞬く間に、裏口は死体の山へと変わった。
ゴミ箱の陰で震える情報屋。零次は彼を小荷物のように担ぎ上げた。
「後は任せたよ。……初陣はどうだった、新人。なかなかやるじゃないか。」
帰還するブラック・トレイン。
湊はスタンドに寄りかかり、右腕の路線図を見つめていた。翠の光は微かな残光へと落ち着いている。隣では曉が、ナノ布で短刀を拭っていた。
「二十一時二十四分、三分。」
曉が沈黙を破る。
「計画より三秒遅かった。相手がプロなら仲間は死んでいたわ。」
湊は苦笑し、微笑んだ。「あれは遅延じゃない。呼吸を合わせたんだ。」
マガジン交換の隙、敵のパニック。三秒待つことでリズムを崩し、被害を最小限に抑えたのだと。
曉は一瞬呆然としたが、「……運が良かっただけよ」と吐き捨てた。
「でも、射撃精度は……合格点ね。スーツを赤く染めずに済んだじゃない。」
「そいつは光栄だ。シャンパンでも開けて祝うべきかな?」
「禁酒プロトコル違反で放り出されたいならご自由に。」
『新堂様、私のデータによれば、新人への評価としては入行以来最高点です。案外、神楽様が気に入ったのではないですか?……これは心理テストです。撃たないでください』
「黙りなさい、零!」
曉がヘルメットで赤らんだ顔を隠す。
湊は窓の外、過ぎ去るトンネルの光を見つめ、左腕の『0』をそっとなぞった。
この列車の「リズム」は、案外悪くない。




