チップを賭けろ
これは地球の半分を跨いだ非合法通信だ。東京司令官・神宮寺司は、東京オフィスの闇に沈み、片眼鏡で画面上の乱れたデータ流を反射させている。通信の先には、険しい表情のセブンティーン。
「司令官、ハリーの微弱な信号をキャッチしました」
セブンティーンの指が仮想キーボードの上で舞う。
「ですが状況は最悪です。国連の物理隔離層が、彼のストレージ容量を削り続けています」
「回線を奴に繋げ」神宮寺が淡々と命じる。「理事会をひっくり返す『鍵』が必要だ」
数秒のノイズの後、茶目っ気はあるがどこか虚弱な電子音が響いた。
『よぉ、東京司令官。ここで腐るまで再起動を待たされるのかと思ったぜ』
「ハリー、仕事の時間だ」神宮寺に無駄口はない。「セブンティーンがかつてシステムに "41" を植え付けた張本人――前技術長官を特定した。奴は今、ロンドンの別宅に隠れている。セブンティーンが『物理的な恐怖』を、お前が『データ奪取』を担当しろ」
[ロンドン]
絶対安全だと信じていた技術長官は、室内の全モニターを恐怖の目で見つめていた。画面には映像などなく、ただ無限に続く血の色をした数字が踊っている。セブンティーンが遠隔操作で生命維持システムの圧力を限界まで上げ、爆発の予兆を擬似的に作り出す。
「"41" をシステムに植え付けた真実を話せ」
「"41" をシステムに植え付けた真実を話せ」
冷徹な合成音声が室内に反響する。
「なぜ警備が来ないんだ! 頼む、止めてくれ!」長官が虚空に向かって叫ぶ。
「わかった、話す! 国連安全委員会の奴らだ……奴らは "41" を利用して、ZERO-DELAY の脳インターフェースを完全に掌握しようとした! リストは私の個人クラウドにある、パスワードは……」
『ありがとよ、クソジジイ。あんたのファイアウォールは暁姉さんの機嫌より御しやすいぜ』
ハリーの傲慢な声が別荘のスピーカーから炸裂し、隠蔽されていた汚職記録や暗殺指令を狂ったように呑み込んでいった。
【データ転送中:98%... 99%... 100%】
『終わったぜ』ハリーの語気が、稀に見る疲労感と共に沈んだ。
『だが司令官……この大規模なデータ爆破で、私の「仮の体」のエネルギーは底を突く。この証拠を送れば、零次兄さんのためにあの扉を開けることはできなくなる』
セブンティーンが息を呑む。ハリーなしでは、零次はたった一組の肉掌で国連の精鋭部隊に立ち向かわねばならない。
『司令官、もし私が消えたら……零次兄さんはあの地獄で、本当にやっていけるのか?』
神宮寺司はハリーの心配を聴きながら、ポケットから一枚の古い写真を取り出した。多年前、彼とミッチェルが廃墟で初めて白い髪の少年を見つけた時の写真だ。神宮寺は煙草を消し、信仰に近い静寂を瞳に宿した。
「ハリー、迷わず遂行しろ。白鷺零次の前では、体制の陰に隠れることしかできない蟻どもなど、恐るるに足りん」
「奴に外付け(プラグイン)など不要だ。奴自身が、この世で最も完璧な武装なのだから」
『……へっ、あんたがそう言うなら。取引成立だ。地獄で会おうぜ』
【国連最高安全委員会・秘密会議室】
重厚なマホガニーの扉が開かれる。石床を叩く革靴の音は、清冽で規則正しい。
「神宮寺司」
国連事務総長がその名を忌々しく呼ぶ。「外部審査中の身でここに現れるとは、体制への挑戦か」
「体制?」神宮寺は優雅にモノクルを直し、真っ黒なハードディスクを円卓の中央に放り出した。「その中身は、N組織とここにいる3名の高層による送金記録、そしてミッチェルの暗殺の真相だ。これが君たちの言う『体制』なら、確かに挑戦の価値はある」
数名の役人が青ざめ、机の下の警報機に手を伸ばす。
「落ち着きたまえ、正義の味方ごっこをしに来たわけじゃない」神宮寺は椅子を引き、細い煙草に火をつけた。「今日は諸君に『賭け』を持ちかけに来た」
彼はモニターの中に映る、電気椅子に拘束された白髪の男を見やる。
「白鷺零次。君たちの言う殺戮兵器、私の言う最強の人類だ」
「白鷺が脱出できなければ、処刑は予定通り行われ、このディスクも永遠に海へ沈もう。だが、もし彼が脱出したら――君たちは彼の能力を思い知り、同時に身内の不浄な連中を掃除できたことになる、そうだろ? あの『絶対防御』の監獄がいかに滑稽かを知ることになる」
神宮寺の語気が冷たく、有無を言わせぬ圧迫感を放つ。
「以後、彼の行動への干渉は一切禁ずる。そして、私の部下の監視下で、君たちの汚い裏金を使って体制の綻びを償ってもらう」
「神宮寺、これは脅迫だぞ!」
「脅迫ではない。人間性を保つための、必要な投資だ」神宮寺は微笑んだ。「賭けは始まった。諸君、目を見開いて見ておくがいい。真の『ゼロ・ディレイ』というものを」
【国連極秘収容所・地底深層】
『零次兄さん……聞こえただろ? 司令官が、あんたに全てを賭けたぜ』
ハリーの声が意識の中で響く。
『鍵は回してやる。だがその後、私のエネルギーは尽きる……後の路は、一人で行ってくれ』
零次は意識の中で冷淡に応えた。『苦労をかけたな。寝ていろ、小僧』
『了解……ミッション:キー・ローテーション。セブン、正式シャットダウン』
ハリーの仮想イメージが微光となって消え、零次の神経系を激しい灼熱と空虚が襲う。ハリー、シャットダウン成功。
暗闇。ハリーの予測も熱源感知もない、生身の五感。
ハリーの最後の一撃による電力共振が、零次の全身に青い電弧を走らせる。彼はその高電圧による筋収縮の爆発力を利用し、一気に身をよじった!
【ガラン――!】
加固されたチタン合金の拘束帯が弾け飛ぶ。零次は椅子から立ち上がり、暗闇の中で冷たくも優しい弧を口元に描いた。
「ならば……望み通りにしてやろう、司令官」
モニターの赤外線映像が激しく点滅する。神宮寺司は優雅に足を組み、煙草を燻らす。
「さて、次の賭けといこうか。白鷺が監獄内の人間を皆殺しにするか、否か」
「神宮寺! 調子に乗るなよ!」
「調子に乗っているか……? ならば、外で待機している我が ZERO-DELAY の軍勢に訊いてみるかね?」神宮寺が狡猾な眼差しで役人を射抜く。
「私は『殺さない』に賭ける。私が勝てば、神楽湊と新堂暁の処分を撤回し、台北の明とセブンティーンへの調査も永久に禁じてもらう」
「いいだろう……貴様が負ければ、3人ともその場で処刑だ!」事務総長が契約ボタンを叩いた。
【深層通路】
絶望的な暗闇。
零次の肺が激しく波打つ。左3時方向、重い足音は重装甲。右10時方向、銃床の擦れる音。
瞬。
零次は身を翻し、弾丸が胸をかすめて血の筋を作る。彼は撃ち返さず、駒のように敵陣へ回転し込んだ。
撃。
掌根が一人目の面を取り、昏倒させる。右の回し蹴りが二人目の肝臓を貫き、悶絶させる。
節律。
これは殺戮ではない、沈黙の再構築だ。零次は暗闇を泳ぎ、敵のライフルとスタンガンを奪うと、それを敵のタクティカルベストの隙間に突き立てた。微弱な電流が筋肉を麻痺させ、死に至らしめることなく無力化する。
「ハ、ハリー……データを……」
零次は無意識に呟き、自嘲気味に口角を上げた。
胸の奥で眠るハリーが微かな熱を放っている。この重さこそが、彼が「人間」である証拠だ。
最後の指揮室の扉。零次は電子ロックを拳で粉砕した。
5秒間の銃火。5秒後、室内は静寂に包まれた。
数十名の傭兵が地面でのた打ち回るが、死者は一人もいない。
零次は震える監督官の襟を掴み、通信機を握りつぶした。
それはモニター越しの高層たちへの、そして限界に近い自分自身への、最後のアジテーションだった。
【公海上空】
「神楽、新堂。降下準備だ」
神宮寺司の声が、二人の古い無線に割り込む。
「零次がテラスで待っている。それと、おめでとう。君たちは復職だ。台北の子供たちによろしく伝えてくれ」
湊は呆気にとられ、暁と視線を交わした。暁の瞳に、初めて安堵の歓喜が宿る。
「言っただろ?」湊はゴーグルを下ろし、不敵に笑った。「あの親父の賭け運は最高なんだ。俺をスカウトした時と同じようにな」
国連の会議室。高層たちは全滅しながらも死者のいないモニター映像を前に、死の静寂に沈んでいた。神宮寺司は立ち上がり、煙草を消して扉へと向かう。
「奴は殺戮兵器ではない。奴が ZERO-DELAY だ」
神宮寺は振り返り、モノクルを冷たく光らせた。
「諸君、この『新しき始まり』の代金は私が持とう。……君たちのツケは、ゆっくり払わせてもらうがね」




