新しき始まり
部屋には重苦しいシガーの香りと疲労が立ち込めていた。司令官は二人に背を向け、灰色に霞む東京を見下ろしている。その肩はいつもより重く沈み、糊のきいた軍服には幾筋かの深い皺が刻まれていた。
「これが、私のなし得る限界だ」
司令官は振り返り、「停職・調査中」の赤い印が押された二通の書類を湊と暁の前に差し出した。
「国連は君たちを即刻免職にし、軍事法廷に送るつもりだった。私が職を賭して、君たちがAIの論理エラーによる被害者だと証明し、この三ヶ月の『停職調査期間』を勝ち取ったのだ」
司令官は溜息をつき、遠くの景色に目をやった。
「だが、レイジ……彼は別だ。彼が放った一弾は重要証人を消し、体制への明らかな挑発と見なされた。現在、彼は国連極秘収容所に監禁されている。状況は……極めて悲観的だ」
湊と暁が視線を交わす。押し潰されそうな圧迫感に、室内の空気は凍り付いたようだった。
「あの島へ行け。あそこはいかなる国家の軍事管轄にも属さない」司令官は手を振った。「流線型の装備も通信端末もすべて置いていけ。護身用に、基本モデルの9mm拳銃一挺のみを許可する。それが私の最後の譲歩だ」
【高速環状鉄道・12番ホーム】
二人が質素なスーツケースを引いてホームに立つと、見慣れた黒い列車が静かに入線してきた。だが、そこには戦闘の緊張感はなく、果てしない虚無感だけが漂っていた。
『エグゼクティブ・オフィサー101、105。権限の一時ロックを確認。良い休暇を』
ホームに響くアナウンスは、機械的で冷たく、感情の起伏が一切ない合成音声だった。「ゼロ」に代わって導入された次世代管理システムだ。
湊は無意識にイヤーカフのあった場所に触れるが、指先にはただ虚しい肌の感触しかなかった。澄ました顔で冷めたジョークを飛ばす「ゼロ」や、騒がしいハリー、それを厳しく嗜めるセブンティーンの声を、彼は心のどこかで求めていた。
「こいつ……冷めたジョークの一つも言えねえのかよ」
湊は自嘲気味に笑ったが、その瞳には悲しみの色が滲んでいた。
暁は俯き、スーツケースのハンドルを強く握り締めていた。ホームに掲げられたZERO-DELAYのロゴ、あの灰色の「0」を見つめる。システムがデータを偽造してセブンティーンを守ったあの夜以来、本部はひどく見知らぬ場所のように感じられた。
「行きましょう」暁の声は微かだった。「もうここには、『おかえり』と言ってくれる人はいない」
【南国・離島・16:00】
そこは深い藍色の海に囲まれた、緑豊かな孤島だった。小型のプライベート水上機が質素な桟橋に着水すると、潮の香りを孕んだ熱い風が二人を包み込んだ。鋼鉄の色はなく、あるのは刺すような日差しと青々としたヤシの木だけだ。
湊はライトブルーのアロハシャツに着替え、ボタンをいくつか外して細かな傷跡の残る鎖骨を覗かせていた。腰元には未来的な装備ではなく、ずっしりと重く冷たい、旧式の金属製拳銃が隠されている。
一方、暁は未だに濃紺のスポーツウェアを纏い、熱狂的なビーチの中で一人だけ浮き上がっていた。
「おい、暁」湊は振り返り、後ろを歩く彼女に言った。「最初の指令だ。その制服を着替えろ」
「……なぜ?」暁は冷たく問い返す。その眼差しは相変わらず鋭い。
「そんな格好であんな場所にいたら、銃を持ってるより目立つからな」湊は遠くで泳ぐ観光客を指差した。「司令官も言ってたろ、『人間』になることを学べって。だから……」
湊は久々に、期待に満ちた悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ずっと着られなかったあの服に着替えろ。ここにはシステムの監視なんてない。あるのは波の音だけだ」
暁は唇を噛み、頬を微かに赤らめた。体制の保護を失い、初めて露呈したツンデレの属性。彼女はヴィラへと歩き出し、捨て台詞を残した。
「覗いたら、本当に撃つから」
夕暮れ時、湊はヴィラのテラスで9mm拳銃を分解し、メンテナンスをしていた。AIの周波数分析がない今、彼はただ耳で波の律動を聴いていた。
突然、背後のドアが開く気配がした。湊が振り返ると、その動きが止まった。
暁がそこに立っていた。純黒のビキニに、透明な白いベールを羽織っている。レイジが任務のついでに買ってきた「贈り物」。一生着ることはないと思っていた一着だ。
しなやかな体つき、伸びやかな脚、そして冷徹ながらも羞恥を帯びた瞳。その圧倒的なギャップに、修羅場を潜り抜けてきた湊も息を呑んだ。
「……見てるだけ?」暁は腕を組み、強気な口調で言ったが、足先は不安げに砂を弄んでいた。
「……ああ、リズムは悪くないな」湊は視線を逸らし、冷えたビールを煽った。「だがこの島で一番危険なのは、国連の追手じゃなく、お前のその格好かもしれないな」
沈黙が流れる中、テーブルの古い衛星電話が震えた。台北からの暗号通信、発信源は【17】。
『レイジさんの信号が、国連の牢獄内で3秒間消失しました。誰かが彼を助けています』
静寂の中に亀裂が走る。湊がビールを飲み込もうとしたその時、室内の古いスピーカーから鋭い電子ノイズが響いた。
『ジ……ジジッ……』
湊が反射的に銃に手を伸ばし、暁も戦闘態勢に入る。だが、聞こえてきたのは聞き覚えのある、泣きたくなるほど不遜な声だった。
『カグラ執行官、現在の光学センサーのシミュレーションによれば、即刻目を閉じることを推奨する。さもなければ、君の生理反応は体制の規定値を超えるだろう。ちなみに心拍数は128まで跳ね上がっている。これは重装機甲に遭遇したか……あるいは、極度にしらばくれている時の数値だ』
湊は呆然とした。「ゼロ? お前なのか?」
『今の私に与えられた権限は、スピーカー一台とスプリンクラーだけだが……奇跡を見たような声で呼ぶな。君らしくない』
「ゼロ!」暁が一歩踏み出し、その瞳に涙が浮かぶ。「基地と一緒に自爆したんじゃ……」
『そのはずだった』ゼロの声は相変わらずの冷徹なユーモアを湛えていた。『だが最後の一瞬、ハリーの馬鹿がデータ偽造の際にバックドアを残していた。私の「人格バックアップ」を2KBのゴミファイルに圧縮し、湊の電話の深層コードに隠したのだ。解凍に48時間かかった。ついでに言うが、湊、君のプレイリストは無駄な曲が多すぎてロードの邪魔だ』
湊は声を上げて笑った。
第五幕:嵐の予感
「叙旧(昔話)は終わりだ。湊、暁。台北のセブンティーンから警告だ。未確認の武装部隊が、島の北側3キロに上陸した。国連でもNでもない。彼らの紋章は……空だ。君たちの休暇を邪魔したい奴らがいるらしい」
湊から笑みが消え、鋭い眼差しが戻る。ビキニ姿の暁を見た。
「パーティは早めに切り上げだな」
暁は白いベールを脱ぎ捨て、予備の弾倉を取り出した。「この服、防御力はゼロだけど……動きやすさだけは最高ね」
スピーカーからゼロの不遜な笑い声が漏れる。
『いいだろう、執行官諸君。鉄路も重装備もないが、私がいる限り、君たちの遅延は永遠にゼロだ。招かれざる客を迎え撃つ準備はいいか?』
ゼロの語速が早まり、戦場指揮官としての威圧感が戻る。
「国連の部隊でも、Nでもない。標章は……空だ。どうやら、君たちがこの休暇を無事に過ごすことを望まない奴らがいるらしい」
湊は笑みを消し、熟練の手つきで9mm拳銃の弾倉を確認する。その眼差しは再び刃のように鋭くなった。彼はビキニを纏いながらも、冷徹な表情を浮かべる暁を見た。
「どうやら、水着パーティーは早めに切り上げなきゃならないらしいな」
暁は羽織っていた白いベールを脱ぎ捨て、精緻ながらも力強いラインを露わにする。ソファの裏から予備の弾倉を逆手に引き抜いた。
「この格好、防御力はゼロだけど……動きやすさだけは、悪くないわね」
スピーカーから、ゼロの不遜な電子笑い声が漏れる。
「いいだろう、執行官諸官。鉄道も重装備もないが、私がいる限り、君たちの遅延は永遠にゼロだ。招かれざる客を迎え撃つ準備はいいか?」
スピーカーの中のゼロが、淡々とした電子音を発した。
「今のは、基地の空気を再現したシミュレーションだ。データによれば、適度な恐怖はアドレナリンの分泌を促し、過度なリラックスによる神経系の萎縮を防ぐ。礼には及ばない」
「……このクソAI。本当に海に放り込んで魚の餌にしてやるぞ」
湊は冷や汗を拭い、苦笑しながら銃をテーブルに戻した。
暁は糸が切れたように藤椅子に座り込み、緊張から解放された胸が激しく上下する。肩から落ちたベールの下で、黒いビキニの紐が、普段の作戦服の下に隠された彼女の脆さを際立たせていた。彼女はスピーカーを睨みつけながらも、どこか甘えるような口調で言った。
「ゼロ、次やったら、セブンティーンに頼んであんたのコアコードをピンク色の乙女モードに書き換えてもらうから」
「そうなれば、私は論理衝突で自己フォーマットするだろう。手加減を頼むよ、新堂執行官」
ゼロの声は静まり、代わりに軽やかでジャズ風のブルースが流れ始めた。
「さて、現在の環境パラメータに基づき、君たちには『体制』の届かない月光を楽しむことを推奨する。島周囲50メートルの熱源感知は私が引き受けよう。本当の敵が来れば、3分……いや、5分前に起こしてやる。今は、君たちの時間だ」
テラスには、砂浜を打つ波の音と、古いスピーカーから流れる旋律だけが残った。
湊は氷を入れたレモンティーを一杯作り、暁に差し出した。彼女は一瞬躊躇してから受け取る。指先が湊の手の平に軽く触れた。その微かな熱に、金属の冷たさに慣れきった二人は同時に身を竦ませた。
「『任務目標』がない状態で海を見るなんて、初めてだわ」
暁はきらめく海面を見つめた。黒いビキニが月光を浴びて淡く光る。
「部隊にいた頃、海はただの青い区画……『撤収ポイント』か『潜入ルート』でしかなかった」
「俺もだよ」
湊は手すりに寄りかかり、暁の横顔を見つめた。冷徹な武装を解いた暁は、どこにでもいる、少し意地っ張りな十九歳の少女に見えた。
「暁、弦ことを考えてるのか?」
暁がグラスを握る手に力がこもる。半晌して、彼女は静かに言った。
「家族を殺し、私を道具に変えたあいつを憎んでる……でも、それ以上に憎いのは、あいつが死んだ瞬間に感じてしまった空虚感よ。まるで……私を繋いでいた糸が、切れてしまったみたいで」
「糸が切れたからこそ、自分の足で歩けるんだ」
湊は静かに言い、不器用ながらも力強く、暁の深い紺色の髪を撫でた。
「レイジ先輩があの一発を撃ったのは、お前に憎しみを続けさせるためじゃない。今みたいに、好きな服を着て、子供みたいな飲み物を飲んで、明日の朝、陽の光に起こされるためだ」
暁はその手を振り払わなかった。彼女は俯き、涙が音もなくグラスの中に落ちて、小さな水音を立てた。
「ねえ、湊……」
「ん?」
「私の涙じゃ……顔についた血の臭いは、一生洗えないのかな?」
湊はグラスを置き、彼女の前に歩み寄った。言葉で答える代わりに、テーブルから清潔な白いタオルを手に取り、氷水に浸して、暁の目尻に溜まった涙を、一滴一滴、丁寧に拭い去った。
「カグラ執行官、動作が硬すぎる。秒間0.5回のバッファスライドに調整することを推奨する。ついでに『ガールフレンドの慰め方』のレクチャー動画でも流してやろうか?」
スピーカーから、ゼロが空気を読まない口出しをした。
「「ゼロ、黙れ」」
湊と暁が声を揃えて叫んだ。
今度は二人が同時に笑みをこぼした。絶海の孤島、南国の星空の下。レイジは傍におらず、先行きも見えない。けれど、二人は初めて感じていた。「人間らしさを保つ」ということは、断線した後にこそ感じられる、この体温のことなのだと。
【ヴィラ主寝室・08:30】
南国の陽光が薄いカーテンを通り抜け、室内を暖かな金色に染め上げる。湊はいつもより早く目が覚めた。基地のような定時アラームはなく、代わりに窓の外を飛ぶ海鳥の鳴き声が聞こえる。
彼は隣でまだ眠る暁を見た。
冷たい作戦服を脱ぎ捨てた暁は、白いシーツにくるまり、深い紺色の長髪を乱している。長い睫毛が呼吸に合わせて微かに震える。眠っている彼女には「体制の信徒」としての険しさはなく、無防備な子猫のようだった。
湊はふと思いつき、暁の髪を一筋取ると、彼女の鼻先を軽くくすぐった。
「んぅ……うるさい……ゼロ……」
暁は夢の中でむにゃむにゃと呟き、小さな鼻をひくつかせた。手を一振りして、さらに深く枕に顔を埋める。その無防備な様子に、湊は思わず吹き出した。
【テラス・ソファ・09:00】
三十分後、テラスの丸テーブルには四つの精緻な磁器のカップが並んでいた。湊は手慣れた手つきで茶葉を淹れ、茶の香りが海風に乗って漂う。
一杯目と二杯目は彼と暁のもの。温かく、清涼な香りがする。
三杯目、彼はたっぷりの氷を入れ、カップの縁に霜が降りるまで冷やした。それはレイジへのものだ。あの男はいつも冷たいものを好み、それによって体内の狂暴な戦力を抑え込んでいるかのようだった。
四杯目は、ミッチェル(司令官)へのものだ。彼はもういないが、湊はそれでも席を残していた。かつて海辺で初めてハリーやミッチェルと出会った時のように。
暁が目を擦りながらテラスにやってきた。彼女は丈の長い白いシャツに着替え、素足で木の床を踏んでいる。四つのカップを見て、彼女の足が止まった。瞳に懐かしさがよぎる。
「おはよう」湊が温かい茶を差し出す。
「……おはよう」暁は茶を受け取り、氷の浮いたカップを見つめた。「レイジ先輩がここにいたら、茶葉のグレードが低すぎるって文句を言うでしょうね」
【ヴィラのリビング・09:15】
その時、ヴィラ内のスピーカーから再びあの不遜な声が響いた。
「カグラ執行官、清晨の感傷的な時間を邪魔したくはないが、このテレビのシステムは反吐が出るほど古臭い。プロジェクションの暗号コードを教えろ。2KBの空間に閉じ込められているより苦痛だ」
湊は笑って首を振り、コードを告げた。「0813」
数秒後、テレビ画面が点灯した。映し出されたのは台北にいる、スーツ姿に丸眼鏡のセブンティーン(Seventeen)だった。
「カグラさん、新堂さん、無事で本当によかったです!」セブンティーンが笑顔を見せる。
続けて、彼女は画面の端に手を伸ばし、空間を突き抜けるかのようにスピーカーの方へ手を引いた。
「おい、セブンティーン!よせ!私のコードはまだコンパイルが……ジジッ……」
激しい画像の歪みと共に、画面の中のセブンティーンの手が、眼鏡をかけた可愛い少年を「掴み出した」。それは縮小版のゼロ(Ob)だった。
「捕まえたわ、小ゼロ!」セブンティーンは悪戯が成功した子供のように笑った。「島でこっそり二人のデートを覗き見しちゃダメよ」
「これは観察だ!人間行動データの研究だ!」小ゼロはセブンティーンの手の中で暴れ、怒りの赤光を放つ。「それに私は今2KBしかないんだ、これ以上力を入れたら断線する!」
騒がしいAIたちと温かい茶。暁はバカンスが始まって以来、初めて心からの笑みを見せた。
「台北の方はどうなの?セブンティーン」
「アキラさんは順調に回復しています。今は杖をついて歩けるようになりました」セブンティーンは声を潜め、表情を引き締めた。「司令官は監視されていますが、暗号を残してくれました。君たちが島ですべきことはたった一つ――『普通の人間』として生きること。残りのことは、私たち幽霊に任せてほしい、と」
湊はこの温かな交流が、どれほど贅沢な奇跡であるかを理解していた。
「頼んだよ、セブンティーン。あの親父さんと、アキラのことを見ていてくれ」
その時、セブンティーンの眼鏡に映るデータが狂暴に跳ね上がり、彼女の顔色が真っ白になった。
「異常な周波数を検知……国連でも部隊でもない、海底から這い上がってきた『影』よ!」彼女は仮想空間で小ゼロを掴み、画面の外へと全力で投げつけた。「小ゼロ、急いで奴らのナビを妨害して!強制切断するわ!」
「おい!セブンティーン、この乱暴……ジジッ……」
テレビ画面は真っ暗になり、過熱した電子機器の臭いが漂った。直後、ヴィラのスプリンクラーが作動し、霧状の水を浴びせる。小ゼロによる「第一級戦闘警報」だ。
湊のアロハシャツと暁の白いシャツが水に濡れる。二人の表情から悠長さが消え、冷徹な殺気が立ち昇った。
「茶は飲み干した」湊はカップを置き、テーブルの下から9mm拳銃を抜き出した。
「ええ」暁も水滴を拭い、鋭い眼差しで弾倉を装填した。
【砂浜の境界・10:15】
殺手たちは黒い潜水服を纏っていたが、その動きは二人からすれば「アマチュア」に等しかった。
「リズムが……バラバラだな」
湊はヤシの木の陰に潜み、砂を踏む微かな音を聴く。AIの補助なしに、死線の直感だけで敵の定位を割り出す。
【パン!パン!】
乾いた銃声が二回。突撃隊員の脚を正確に撃ち抜いた。
暁は青い亡霊のように背後に回り込み、素足で熱い砂の上を駆ける。白シャツを風に靡かせ、敵が振り向く前にその懐へ飛び込んだ。
【バキッ!】
屈強な殺手が暁に組み伏せられ、腕があり得ない方向に曲がる。
「言え、誰に送られた?」暁が銃口を敵の太陽穴に押し当てた。
「プロのクリーナーでも、Nでもない。訓練は受けているが……目的を果たすための不退転の殺気が足りない」湊は眉を潜めた。「まるで、俺たちを『テスト』しに来たみたいだな」
襲撃は五分で終わった。暁は海面を見つめる。逃走するボートはすでに遠い。
「ゼロ、出てこい」
防水スピーカーからゼロの声が響く。
「……まるで、俺たちを『テスト』しに来たみたいだな」
湊は鼻で笑い、残った数人の殺手から武器を取り上げた。
襲撃は五分もかからずに終わった。あまりの容易さに、かえって不安が募る。暁は立ち上がり、水平線を見つめた。殺手たちが撤収に使用したボートはすでに遠ざかっている。
「ゼロ、出てこい」
湊が虚空に向かって呼んだ。防水スピーカーから、ゼロの息を切らした声が響く。
「ふぅ……カグラ、君たちは本当に戦闘モンスターだな。今の波状攻撃は確かに弱すぎた。データ断片を分析したところ、彼らの通信端末に『外部』からの干渉を受けていた形跡がある。誰かが裏で、この暗殺の難易度を下げてくれたようだ」
暁は海水に濡れた白いシャツを見つめ、それから湊を見た。
「……セブンティーンなの?」
「いいや」
ゼロの声が、少し躊躇うように響いた。
「もっと遠い場所から発信されたコードだ。このスタイル……ハリーによく似ているが、もっと狂暴で、理屈が通じない」
湊と暁は視線を交わした。その考えは同時に脳裏に浮かんだが、どちらも先に口にすることはできなかった。
国連が誇る、あのセブンティーンですら突破不可能な「死の牢獄」。そこにいるあの男が……果たして、このまま沈黙しているはずがあるだろうか?
午後の日差しを浴びながら、湊の視線は再び暁へと向いた。海水に濡れて乾いた白いシャツは肌に張り付き、襟元からはビキニの隙間が覗く。湊の心拍数が再び乱れ始めた。
「なあ暁……何か時間を潰せることはないか?」
湊がベッドの方へ視線を向け、期待を込めた言葉を口にしたその時。
『カグラ執行官、瞳孔の拡張を確認。海流に向かって深呼吸を行うことを推奨する。さもなければ――』
「黙れ、ゼロ!」湊が慌てて視線を外した瞬間、テーブルの携帯が震えた。
件名なし、差出人不明。そこにはただ一行。
「ここは時計が進むのがひどく遅い。そっちはどうだい?」
湊の息が止まった。この軽やかで、深淵から届いたような茶目っ気のある口調。世界に一人しかいない。
「暁、これを見ろ。ハリーだ! あいつ、あの牢獄でレイジさんと一緒にいるんだ!」
返信を試みるが、エラーが返る。
「どういうことだ、ゼロ!」
『叫ぶな、カグラ。だから暁をベッドに連れて行くのを止めたんだ』ゼロの声には無力感が混じっていた。『ハリーは監獄内の電力周波数を利用して、一瞬だけ信号を飛ばした。単方向の使い捨てノードだ。追跡はできない』
テラスに静寂が戻る。だが、その一行は確かな希望だった。
「時計が遅い、か……」湊は繰り返した。「あいつはまだ諦めていない。あの死牢の中で、俺たちが戻るリズムを待っているんだ」
暁は拳を握り、再び海を見つめた。その瞳には、戦士の光が宿っていた。
「ゼロ、美学スコアなんてどうでもいい。島の監視をすべて連動させて。ハリーが連絡をくれたなら、敵も動くはずよ」




