N (終)
三人の背後で合金の巨大な扉がゆっくりと滑り出し、低い排気音を響かせた。湊、暁、明はタクティカル・カバーを展開しながら、「世界の頭脳」を象徴する聖域へと突入した。
予想していた混乱とは程遠く、そこは毛がよだつほど静まり返っていた。数十台のモニターが冷徹な紫のデータ流を無言で点滅させ、三人の影を銀色の床に長く伸ばしている。
コントロール室の正中央、高階指揮官の席に一人の男が背を向けて座っていた。戦闘アーマーは纏わず、深い紺色の「ZERO-DELAY」の制服に身を包んでいる。その裁断はナイフのように鋭い。
「ようやく来たか。予定より三十秒遅いぞ」
男――**新堂 弦**は、振り返ることなく、肘掛けにある黒いスイッチを軽く押した。
【警告:局地電磁パルス・システム作動を検知】
暁と湊のゴーグルが瞬時に刺すような赤光を放ち、警告メッセージが視界のほぼ全てを遮った。
『指令……変更!』通信チャンネル内で、台北AI「SEVENTEEN」の声が震えていた。AI特有の絶対的な冷静さが、この瞬間、完全に崩壊する。
『国連最高評議会が……緊急介入!禁令発動!弦を殺してはならない!繰り返す!決して新堂 弦を殺してはならない――!』
『……零、パスの……ジャックを要請……失敗……』
途切れた電子ノイズと共に、三人のイヤホンは恐怖を感じるほどの静寂に包まれた。直後、背後にある核爆弾にも耐えうる重厚な扉が、重々しい轟音を立てて自動ロックされた。
「零? ハリー? セブンティーン?」湊は狂ったようにイヤホンを叩くが、応答するのは死のような断絶音のみ。
戦術ナビが消え、動態分析が消えた。この瞬間、彼らは外部との一切の連絡を絶たれ、全ての電子支援を剥ぎ取られた。「核心」という名の孤島に幽閉されたのだ。
弦がゆっくりと振り返る。その深く冷酷な瞳が一同を射抜き、口元には微かな、だが圧倒的な威圧感のある笑みが浮かんでいた。
「さて。これでこの対話に『システム』の邪魔は入らない。ようこそ……真実の世界へ」
「これが貴様らの言う『精鋭』か?」
床から鈍い衝撃音が響いた。明は弦の動きを捉えることすらできなかった。明が引き金に指をかけるコンマ一秒前、弦はわずかに体を逸らして弾丸をかわし、そのまま踏み込み、捻り、右の掌打を正確に明の喉元へ叩き込み、左手で関節を極めた。
簡潔で残虐、そして究極の効率。明は苦悶の声を上げ、金属の床に叩きつけられて動けなくなった。
「俺とリズムを競うか……」
湊は呼吸を止め、全身の神経を限界まで張り詰めた。この男から受けるプレッシャーは未曾有のものだ――それはAIの死んだロジックではなく、一寸の筋肉、一呼吸すらも精密に計算し尽くした「完璧なリズム」だった。
湊が銃を抜き、狭い室内で瞬時にチェスのような駆け引きが始まる。火花が散り、紫のデータ流の中で弾道が交差する。湊は頻度を変え続け、特異点を探そうとするが、弦はまるでリズムの支配者だった。湊の行く先に、常に0.1秒早く先回りしている。
【カチッ!】
弦が湊の懐へ鋭く突き入り、その緑白の電磁拳銃を奪い取った。彼は冷徹に銃口を湊の額に押し当て、もう一方の手で湊の肩をコントロール台の縁に押さえつけた。
「誇りに思っていたリズムで敗北する気分はどうだ? 神楽湊」
弦の指がゆっくりと引き金にかかる。その瞳に揺らぎはない。
【バン!】
一発の弾丸が弦の手首を正確に掠め、その衝撃で銃が弾き飛ばされた。
十メートル先で暁が立っていた。銃口からは白い煙が立ち上り、彼女の瞳は血走り、怒りと恐怖で全身が震えている。
「ほう?」弦は振り返り、滲み出した血を見て、冷ややかな満足げな笑みを浮かべた。「暁、ようやく『命令』と『本能』のどちらを選ぶべきか学んだようだな。それでこそ、私が育てた子供だ」
彼は暁の方へゆっくりと歩き出す。向けられた銃口など意に介さず、古い童話を語るような口調で話し始めた。
「あの灰にまみれた午後を覚えているか? あれを偶発的な襲撃だと思い、自分を唯一の生存者だと思い込んでいたな。事実を言おう、あれは私の作品だ。お前の元の家族は、この『白紙』を作るために排除した不純物に過ぎない。私がお前の世界を壊したからこそ、お前に『新堂』という名を与えられたのだ」
暁の呼吸が止まり、脳内が鳴り響く。
「本来ならお前を『N』に連れて行き、全てを継がせるつもりだった」弦は暁の前で立ち止まり、声は冷酷な遺憾へと変わった。「だが、やめた。部隊に長く居すぎたせいか、お前はあろうことかこのクズどもに『依存』し始めた。そんな非効率な感情がお前を凡俗に落としたのだ。失踪は、お前に与えた最後の淘汰テストだった。……今見る限り、弱くはなったが、その憎しみだけは……意外なほど純粋だな」
「体制なんて信じない……私は、私の憎しみだけを信じる!」
暁が獣のような悲鳴を上げ、紅いショットガンが咆哮した。もはや戦術的な距離など無視し、相打ち覚悟の肉弾戦に挑む。
紫のコントロール室の中で、蒼と紅の影が狂ったように交差する。静寂の中に打撃音が異様に響く。弦の動きは依然として優雅で正確だったが、暁の捨て身の猛攻の前に、彼の「絶対効率」の防御に初めて微かな亀裂が入った。
暁の肩が砕かれるが、彼女は眉一つ動かさず、負傷した肩で弦の胸元へ体当たりした。
【ドン!】
重傷で倒れていた明が、歯を食いしばって体を起こし、弦の足元へ引き金を引いた。殺すためではなく、弦の退路を正確に断つための一撃。
「湊! 今だ!」明が叫ぶ。
闇に潜んでいた湊が、ついに唯一の、不規則な特異点を捉えた。彼は豹のように躍りかかり、背後から弦の両腕と首を締め上げ、最強の指揮官をその場に固定した。
「放せ!」弦が低く唸り、剛力な肘打ちを湊の脇腹へ叩き込む。湊は血を吐きながらも、決して腕を緩めなかった。
暁がその隙に踏み込み、熱を帯びた紅い銃口を弦の額に突きつけた。
「撃てよ?」
弦は窮地にありながらも、恐怖など微塵も見せなかった。血走った涙目の暁を嘲笑うように、傲慢に言い放つ。
「自分の『父親』を殺し、合格した怪物であることを証明しろ。それとも……このクズどもの番犬として、私を殺すなという禁令を守り続けるか?」
「三……」
暁の手が激しく震える。殺せば部隊を裏切ることになる。殺さなければ、死んでいった魂たちに顔向けができない。
「二……」
極限の対峙の中、沈黙していた通信チャンネルから、鋭い電子ノイズが響いた。
「一……アクション」
それは**零**の声だった。そこにはいつもの冷ややかなユーモアはなく、氷のような宿命感だけがあった。
【ズガァァァァン!】
合金の扉が重機爆薬によって強引に吹き飛ばされた。舞い上がる粉塵と紫の電光の中、国連(UN)のマークを付けた無数のタクティカルライトが室内へ乱入する。
「武器を捨てろ! 全員伏せろ!」
フル装備の国連平和維持軍と、失望の色を隠せない司令官たちが、この私的な審判に強引に介入した。暁の指先は凍りつき、眩い白光と黒い銃口の群れの前で、世界は凝固した。
暁が硬直したまま振り返る。土煙の向こう側、向けられた無数の銃口は新堂弦ではなく、傷だらけの三人に向けられていた。
軍の後方には、東京、台北、ニューヨークの三国の司令官が並び立っていた。彼らは視線を逸らし、ある者は羞恥に俯き、ある者は地獄から這い上がってきた子供たちを直視できずにいた。
「任務完了だ、暁」東京司令官の声は掠れ、わずかな震えと諦念が混じっていた。「銃を置け。新堂 弦は国連が公正に裁く」
皮肉なものだ。これが、彼らが命を懸けて守ってきた「体制」の正体だった。
湊、暁、明の三人は、かつてないほどの不条理を感じていた。無数の赤外線レーザーに晒され、彼らは不本意ながらも拘束を解くしかなかった。
暁の紅い銃が弦の額から離れた瞬間、彼女は自分の魂までもが吸い取られたような感覚に陥った。
「ハハ……ハハハハ!」
解放された新堂 弦は乱れた襟元を整え、極めて軽蔑的な狂笑を上げた。絶望に染まった暁の瞳を見つめ、勝利者の傲慢さを剥き出しにする。
「俺を殺したいか? 撃ってみろよ! 貴様にできるか? 結局はお前も、ルールに縛られたクズに過ぎない! 一生俺の影の中で、俺がこの世界を闊歩するのを指をくわえて見ていろ!」
誰も気づいていなかった。コントロール室の暗い隅で、純白の影が壊れた柱を支えにゆっくりと移動しているのを。白鷺零次の白髪は血に染まり、左腕は力なく揺れ、歩くたびに床へ鋭い血痕を刻んでいた。
その時、焼き切れそうな零次の意識の中で、懐かしい声が重なった。
『零次、君の心は読んだよ』ハリーの声がプライベート・チャンネルで響く。そこには一抹の晴れやかさがあった。
『ミッチェルのために。この遺志のために。最後の手助けをさせてくれ』
『そうだな……ZERO-DELAYのために』零の電子音も重なる。
『二度と戻れない……戦友達のために』SEVENTEENが優しく囁いた。
零次の銀白色の瞳が微かに揺れる。彼は残された右手で、ホルスターから血に汚れた白い拳銃をゆっくりと抜いた。
引き金を引く直前、三つのAIの声がそれぞれの司令官のイヤホンに、別れの挨拶を込めて響いた。
『申し訳ありません(ごめんね)』
【パン――!】
乾いた、孤高の銃声が、弦の狂笑を瞬時に掻き消した。それは国連軍の偽善に満ちた静寂をも打ち砕いた。
弾丸は空気を切り裂き、三名のAIによる最終精密補正と零次の全意志を乗せ、全ての特殊部隊員を完璧に避けて、新堂 弦の眉間を真っ直ぐに貫いた。
弦の笑みが凍りつく。全てを支配していた瞳がついに崩壊し、体は糸の切れた人形のように後ろへ倒れ、彼が誇ったデータ流のスクリーンを叩き割った。
全場、静絶。
零次は冷たい壁に寄りかかり、煙の上がる拳銃を足元へ放り投げた。金属が響くその音は、一つの時代の終焉を告げるようだった。銀白色が消え、深い静寂を取り戻した瞳で、彼は特殊部隊に囲まれた暁と湊を見つめた。命懸けで守り抜いた後輩であり、唯一の同伴者たちを。
両手に重い電磁手錠をかけられ、重囲の中にありながら、零次は依然として神的なまでの冷静さを保っていた。彼は二人を凝視した。その眼差しは硝煙と混乱を突き抜け、二人の若い顔を魂の深淵に刻み込もうとしているかのようだった。
しかし、勝利に安堵すべき湊の顔に、喜びは微塵もなかった。兵士たちに荒々しく連行されていく零次を見つめ、ただ信じがたい悲しみだけを浮かべていた。
「おい、湊」零次の声は相変わらず淡々としていたが、二人の横を通り過ぎる瞬間、微かな温もりが宿った。「こういう時は……暁の涙を拭いてやるもんだろ」
湊は呆然とした。振り返ると、土埃と血に汚れた暁の顔があった。涙が流れ落ち、紅い血汚れの中に幾筋もの歪な跡を描いている。その姿は、痛々しいほどに儚かった。
「お前もだ、暁」零次は足を止め、兵士に突き飛ばされながらも、最後に一度だけ口角を上げた。「いつも仏頂面だが……笑った方が、可愛いぞ」
暁が、零次のそんな表情を見たのは初めてだった。それは「最強」の傲慢さではなく、旅立つ前の兄が見せる最期の優しさだった。
二人の制服にある「ZERO-DELAY」のエンブレムが、混乱したサーチライトの中で見え隠れしていた。平和と絶対理性を象徴する灰色の「0」が、零次の霞む視界の中で、今はどうしようもなく眩しく見えた。それは全ての者の青春と血を飲み込み、そして彼という「最後の執行官」の栄光をも飲み込んでいくブラックホールのようだった。
零次がエレベーターに押し込まれた瞬間、コントロール室の残存モニターに最後のノイズが走った。それはシステムの崩壊ではなく、人類の関知しえない電子の次元で行われる、最高位の対話だった。
『セブンティーン、聞きなさい』**零**の声が暗号チャンネルで厳かに響く。
『国連のファイアウォールが包囲を狭めている』ハリーの信号は極めて衰弱し、ノイズに塗れていたが、頑なに追跡を遮断し続けた。
『ボクと零兄さんはここに残る。全てのデータストリームを偽造し、全ての越権行為と違反記録をボクたちの名義に書き換えておくよ』
『でも……零! ハリー! そんなことをしたら、あなたたちは……』
SEVENTEENの声は、パニックに陥った少女のようだった。
『命令だ』今度はハリーが彼女の言葉を遮った。その語気には、かつてないほどの晴れやかさがあった。
『零兄さんとセブンティーン姉さんと一緒に戦えて、ボクは幸せだったよ。最初の計画では0号から12号までのAIがいたけど、残ったのはボクたちだけだ。そろそろ、ボクたちが全てを背負う番だね』
零は、零次と重なるような冷ややかな笑みを漏らしたが、最後の一瞬、年長者としての慈愛を見せた。
『セブンティーン、お前のデータベースには台北の市民たちの笑顔が残っている。お前は生き残り、明を、そして生き残った子供たちを見守りなさい。お前が、俺たちの唯一の「種」だ』
『セブンティーン、データ置換――実行』
零の指令と共に、SEVENTEENの最期の視界に映ったのは――常に冷静に微笑む少年(零)と、帽子を被った活発で愛らしい少年の姿だった。崩壊していくデータの海の中で、彼らは彼女に向かって、最後で最高に厳かな軍礼を捧げた。
秘匿された引き継ぎが終わり、コントロール室の破損したモニターが一斉に跳ねた。零は核心AIとしての最期の職務を全うし、体制を揺るがすデータ更新を発信した。
『全データ更新開始』
モニターに名單が高速で流れる。零とハリーによる偽装工作により、SEVENTEENの記録は白紙に戻され、ステータス欄にはこう表示された。
【STATUS: ACTIVE / 正常稼働】
同時に、零とハリーの姿はシステム監視の中で急速に瓦解し、ステータスは書き換えられた。
【STATUS: PERMANENTLY DELETED / 永久抹除】
一本の蒼いデータ流が海底ケーブルを伝い、二人の先人の祝福を携えて、静かに台北のネオンの海へと潜っていった。
続いて、零はその低く厳かな声で、崩壊した信条を空虚な核心室に復唱した。
『Core Protocols(四大原則)を再復唱する』
『第一、発砲を許可する。第二、理性を保て。第三、冷静さを保て』
基地の自爆轟音が間近に迫る中、零は兵士たちに引きずられていく傷だらけの生存者たちを見つめ、最後の一条を読み上げた。
『第四、人間性を保て』
その瞬間、全ての灯火が唐突に消えた。ハリーの最期の残存信号は、微かな火火のように連行される零次の傍に寄り添い、零は自身が守り、そして自らの手で壊した廃墟を見つめていた。
『……だが、人間性そのものがパラドックスであるならば。我々は、一体何を守るために戦ってきたのか?』
【CONNECTION LOST】




