THE CLOCK STILL TICKING
陽光が窓から差し込み、ミッチェルはスーツケースを引きながら、廊下で湊、暁、そして零次と出くわした。
「さて、諸君。ニューヨークじゃ山のような報告書が俺を待ってるんだ」
ミッチェルは湊の肩を叩き、親しみやすいおじさんのような快活な笑みを浮かべた。
「神楽、暁のことを頼んだぞ。あいつは意地っ張りだが、それは体制を信じすぎているからだ。それと、零次の野郎をあまりこき使うなよ。あれは『天井(天板)』だが、天井だっていつかは割れるもんだ」
ミッチェルの背後ではハリーが飛び回り、零と接続してプライベートな暗号通信コードを交換していた。二つのAIは、誰にも分からない冷笑的な冗談を交わし合っているようだった。
その瞬間、空気は軽やかだった。湊は、この跨国的な任務がついに句読点を打つのだとさえ感じていた。
空港の放送が機械的にフライト情報を繰り返している。ミッチェルはスーツケースを引きながら出発ロビーを歩き、ケースの中のハリーが微かな駆動音を立てていた。夕日の残光が巨大な窓から差し込み、ロビー全体を血のような赤に染め上げている。
ミッチェルの鋭い職業的直感に違和感が走った。周囲を見渡すと、新聞を読む背広の男、清掃員、ベビーカーを押す女……彼らの瞳には旅人の焦燥はなく、ただ死のように静まり返った冷徹な集中だけがあった。彼らの「リズム」は統一され、凍りついている。まるで命のない巨大な機械が緩やかに起動していくようだった。
「これほどの手勢を出してくるとはな……」
ミッチェルは低く独り言を漏らし、口元に苦笑を浮かべた。これが単なる暗殺ではなく、「N」組織が ZERO-DELAY 世界各支部に見せつけるための警告であることを、彼は悟っていた。
——パァン!
前触れのない銃声が、空港の静寂を切り裂いた。
地上勤務員に化けていた殺し屋が、カウンターの下から突撃銃を引き抜き、ミッチェルのいるエリアを猛射した。それを合図に、四方八方から殺し屋たちが変装を解き、カフェや免税店、トイレの個室からさえも飛び出してきた。重火器を手にした彼らによって、ロビーは一瞬にして修羅場と化した。
ミッチェルの反応は速かった。傍らで立ち尽くす旅客を安全な場所へ突き飛ばすと同時に、スーツの内側からヘビーデューティーな拳銃を引き抜き、流れるような動作で鋼鉄の柱の陰へ転がり込み、応戦を開始した。彼の銃弾は正確無比で、一発ごとに殺し屋の眉間や関節を撃ち抜いていく。
空港内で激しい交火が爆発した。
しかし、敵の数はあまりに多く、火力の装備も予想を遥かに超えていた。黒いタクティカルウェアに身を包んだ十数名の強化兵士が防弾盾とアサルトライフルを構え、移動する鋼鉄の壁となってミッチェルを追い詰めていく。
空港に潜伏していた ZERO-DELAY 東京支部のエージェントたちも、この時ばかりは身を挺して飛び出し、ミッチェルのために時間を稼ごうとした。彼らの行動は精鋭そのものだったが、圧倒的な物量差の前では無力だった。わずか数分で、彼らは一人、また一人と倒れ、磨き上げられた大理石の床に血の花が咲いた。
ミッチェルの動きが次第に鈍くなっていく。絶え間ない高速移動で体力を激しく消耗し、腹部には流弾による裂傷を負っていた。
——グサッ!
一発の弾丸がミッチェルの左肩を貫通した。彼は苦痛に呻き、身体を大きく震わせた。弾丸は窓ガラスを突き破り、そこに不気味な亀裂を残す。彼は窓際に滑り落ち、左腕を力なく垂らした。雪のように白いシャツが、鮮血で赤く染まっていく。
リーダー格の殺し屋が、ナイトビジョン越しにライフルを彼へ向け、勝利を確信した冷笑を浮かべた。
「終わりだ。ニューヨークのレジェンド」
意識が遠のき始めた時、ミッチェルの記憶は今日の午前中、出発前の司令室での会話へと戻っていた……。あの時、司令は彼に背を向け、冷めきったコーヒーカップを握りしめ、肩を微かに震わせていた。
「ミッチェル、お前も……分かっているんだろう? 『奴ら』が本当にお前を、生きて帰すとでも思っているのか!」司令が激昂して振り返る。
ミッチェルはあの時、振り返らなかった。ただドアの前に立ち、他人の物語でも語るような平穏な声でこう言った。
「分かっているさ。だが、覚悟はできている。Section New York に入ったあの日……いや、警察を辞めて ZERO-DELAY に足を踏み入れたあの日から、平和のために犠牲になる覚悟はできているんだ」
彼はゆっくりと手を上げ、司令に最後のリスペクトを込めた敬礼を送った。
回想が終わる。ミッチェルは一口の血を吐き出し、スーツケースから飛び出し、宙に浮遊するハリーを見上げた。
ハリーもまた数発の流弾を受け、球体の外装は無惨に破損していたが、そのコア・インジケーターは今なお力強く青い光を点滅させていた。
「あばよ……相棒。戦場を掃除してくれ」
ミッチェルは最後の力を振り絞り、ハリーに最終指令を下した。
ハリーの電子眼が一瞬で青から赤へと変わり、凄まじい電子の叫びを上げた。
『コマンド受理。最高レベル権限:【焦土プロトコル】を起動します』
その瞬間、ハリーは悪魔へと変貌した。
空港内のすべてのモニターが赤く点滅し、絶え間なく流れる乱数と警告表示に切り替わった。自動改札のゲートが断頭台のように「ドォォン」と激しく落下し、数十名の殺し屋と後続の支援部隊を搭乗ブリッジのエリアに強制封鎖した。
「何が起きてるんだ!?」殺し屋たちがパニックに陥り、ゲートを銃撃したが、特殊防護された扉は微動だにしない。
ハリーは空港の管制システムを掌握しただけでなく、間一髪のところで、2キロ先で着陸体制に入っていた無人貨物機の制御権を強引に奪い取った。
殺し屋たちが恐怖に目を見開く中、巨大なボーイング貨物機が夕日の下で眩いライトを放ち、制御を失った巨獣となって鋭い咆哮を上げ、ターミナルビルへと直撃した。翼が建物を引き裂き、数万リットルの航空燃料を伴って、ハリーによってロックされたゲートエリアへと不可避の勢いで突っ込んだ。
——ドォォォォォォォン!!!!!
凄まじい爆発の火柱が天を突き、鼓膜を震わせる轟音が空港全体を揺らした。立ち上る濃煙と衝撃波が、搭乗エリアを一瞬で火の海へと変える。ハリーの精密な誘導によって逃げ場を失った殺し屋たちは、衝突の最核心部で一人残らず消滅した。
煙に包まれた瓦礫の中で、ハリーの残骸が微かな青い光を放っていた。それは火光と石礫の中で、ミッチェルの冷たくなった遺体を最後にスキャンし、あらかじめ設定されていた長距離ネットワーク跳躍を実行した。ハリーは自身のコアコードと共に、一筋のデータ流となって、遥か遠いニューヨーク支部へと帰還した。
【ZERO-DELAY 東京本部・メインロビー】
仕事終わりの疲労がロビーを包み込んでいた。湊は暁のために温かい飲み物を買おうと自動販売機へ向かっていた。その時、ロビー中央の巨大なホログラムスクリーンが鮮紅色の「EMERGENCY」に切り替わった。
ニュース画面では、成田空港の出発ロビーが火の海に飲み込まれ、残骸となった機翼が建物に突き刺さり、煙が天を覆っていた。
『速報:成田空港で大規模な爆発が発生。テロ攻撃の疑い……現場から複数の外国籍政府高官の遺体を発見……』
湊の手から硬貨がこぼれ落ち、静まり返ったロビーに刺さるような高い音を立てた。心臓を氷のような手に掴まれた感覚。スクリーンの隅に映し出された、白い布を被せられた遺体の断片に釘付けになった——それは見間違えるはずのない、あの仕立てのスーツだった。
零の声が冷たく響く。
「確認した。ミッチェル執行官は殉職だ」
「ミッチェル……」
湊は狂ったように背を向け、驚く同僚たちを突き飛ばして自室へと駆け戻った。ドアを荒々しく閉め、背中でドアを押さえたまま、その場に力なく座り込んだ。
暗い部屋の中で、いつも煙草をくわえ、コーヒーカップを揺らしながら笑っていたミッチェルの顔が離れない。
初めて会った時の、あのニューヨーク訛りの軽口が蘇る。
『神楽、リズムは悪くないが、東京の空気は窮屈すぎる。暇ができたらマンハッタンに来い。本物のジャズってやつを聴かせてやるよ』
今朝の別れ際、肩に置かれたあの分厚い手のひらの重みが蘇る。
『ここをしっかり守れよ、湊。人間性ってやつを、冷たい機械に食い殺させるな』
湊は苦痛に髪を掻きむしり、涙と自責の念が同時に溢れ出した。ようやく、あの不自然なほど優しい細部の意味を理解した。
なぜ、遥々やってきたニューヨークの高官が、見知らぬ部下たちにあれほど温かく言い含めたのか。
なぜ、司令はミッチェルを見る時、あんなにも悲しげな決別の眼差しを向けていたのか。
なぜ、ミッチェルはまるで自分の後継者を育てるかのように、すべてを伝授してくれたのか。
これは、跨国任務の締めくくりなどではなかった。
今回が、彼にとって最後の「休暇」だったのだ。
ミッチェルは、自分が帰れないことを最初から知っていた。彼は自らの命を囮にして「N」組織の暗殺部隊をすべて引きつけ、湊や暁、零次が平穏に過ごせる一日を買い取ったのだ。
湊は懐から、ミッチェルが去り際に押し付けてきた古びた紙切れを取り出した。そこには殴り書きの英文で一文が刻まれていた。
『ニューヨークの時計は、いつだって進むのが早い』 (The clock in New York is always fast.)
湊は誰もいない部屋で声を詰まらせながら、暗号の後半を低く呟いた。
「……だが東京の鼓動(脈動)は、決して止まらない」 (But the pulse in Tokyo never stops.)
それはスパイ同士の連絡コードではない。一人の老警官から、次世代の執行官へと託された最後の伝承だった。
湊は暗い部屋の隅で、ミッチェルの残した紙切れを握りしめ、蹲っていた。通信機の赤いランプだけが点滅し、それはまるでミッチェルの乾かぬ血のようだった。
——トントン。
重苦しいノックの音が静寂を破った。ドアが自動で開くと、そこには暁が立っていた。彼女はあのトレードマークのバイザーを外しており、剥き出しの瞳にはかつてないほどの優しさと決意が宿っていた。
彼女は何も言わず、真っ直ぐに部屋へ入り、湊の冷たいシングルベッドに腰を下ろした。
「おいで」彼女は優しく呼んだ。その声はいつもの冷徹さではなく、微かに震えていた。
湊は魂を失った人形のようにふらふらと立ち上がり、彼女の隣に座った。暁は、いつも雅派な笑みを浮かべていたこの男が、今は涙に汚れ、自責に押し潰されている姿を見て、胸の奥を激しく締め付けられた。
彼女は初めて、自ら手を伸ばした。
暁は湊をそのまま自分の胸の中へと引き寄せた。湊の頬が冷たいプロテクターに触れる。しかし、その奥にある激しい鼓動のリズムが伝わってきた。そのリズムは彼の混乱した知覚と次第に同期し、久方ぶりの温もりを与えてくれた。
「一人で背負わないで、湊」暁は彼の髪を撫でながら、毅然と言った。「ミッチェルさんはあなたを選んだ。それは、私たちが持っていない『生きたリズム』をあなたが持っているからよ。ここであなたが崩れたら、彼の犠牲は本当に無意味になってしまうわ」
湊は顔を上げ、暁の深く澄んだ瞳を見つめた。
その瞬間、窓の外で雷鳴が轟き、室内を一瞬だけ照らし出した。暁は微かに身を乗り出し、目を閉じて、湊の乾いた唇に深い口づけを交わした。
それは涙と硝煙の味がするキスであり、二人が過去の弱さと決別する儀式でもあった。
暁は優しく湊をベッドに押し倒した。そしてそのまま彼の上に跨り、両手を彼の耳元についた。今の彼女の瞳に、ツンデレな迷いや戸惑いはない。そこにあるのは、守護者としての威厳だった。
「ミッチェルさんは言ったわ。東京の脈動は、止まらないって」
暁は顔を伏せ、湊の額に自分の額を合わせた。低く、そして力強い声で告げる。
「これからは、私に任せて」
暁は湊の上に跨り、彼の耳元に両手をついた。部屋の中の唯一の光は、窓の外の稲妻が残した残影と、二人の装甲の上で消えかけのセンサーライトだけだった。
暁が作戦服の最上部にあるマグネットバックルを外すと、金属と皮革が擦れ合う微かな音が、静まり返った部屋の中で異様なほど大きく響いた。
「暁……」湊の声は掠れていた。彼は手を伸ばそうとしたが、指先が震えていることに気づいた。それは恐怖ではなく、極限の絶望の後に「温もり」を捉えた本能的な反応だった。
「喋らないで。私の鼓動を聴いて」暁は身を屈め、湊の頬を、激しく上下する自分の胸元へと押し当てた。
その瞬間、湊は感じた。
それは、AIである零が刻むミリ秒単位の正確な機械的律動ではない。混乱し、狂熱し、それでいて生命力に満ち溢れた「頻度」だった。暁の身体は熱く、その体温は薄いアンダーウェアを突き抜け、湊の冷え切った顔を焼き焦がすようだった。
暁の指が湊の後首を探り、自分の方へと引き寄せた。今回のキスはもはや単なる試行ではない。それは、掠奪に近い渇望を孕んでいた。湊は、暁が自分の唇を噛み切ったのを微かに感じた。二人の歯の間で淡い血の味が広がる――それは彼らにとって、最も馴染み深い味だった。
暗闇の中で、タクティカルギアが一つ、また一つと剥ぎ取られ、金属のパーツが床に落ちては硬く乱雑な音を立てた。
暁が完全に武装を脱ぎ捨てたとき、彼女の肌は微かな赤光の下で、透明に近いほどの蒼白さと繊細さを見せた。それは湊の身体に刻まれた古い銃創や傷跡と、鮮やかな対比をなしていた。彼女は湊の腕の中へと完全に自分を沈め、両手で彼の肩を強く掴んだ。指甲が深く、彼の筋肉に食い込む。
「私を連れて行って……湊」彼女は彼の耳元で喘ぎながら、泣き声に近い決絶を込めて囁いた。「体制しかない、こんな世界から私を連れ出して……」
湊は彼女を組み敷き、理性を失った野性的な動作で応えた。彼の「リズム感」はこの瞬間に完全に崩壊したが、暁の迎合の中で再び組み替えられていく。二人の体温が混ざり合い、汗がシーツを濡らした。重なり合うたびに、この冷酷な世界に対する最も激しい反逆を刻みつけるようだった。
あの夜、指令はなかった。クリーンアップもなかった。あの永遠に止まることのない黒い列車さえも。
あの狭いシングルベッドの上で、彼らはもはや ZERO-DELAY の殺人兵器ではなく、末世の中で互いの傷口を舐め合う二頭の野獣だった。暁が絶頂に達したその瞬間、彼女の瞳は焦点を失い、虚空を見つめた。その口から漏れたのは、どんなタクティカルコードでもなく、湊の名だった。
やがて、長い沈黙が訪れた。
暁は湊の胸に寄り添い、長い髪が海藻のように二人の身体を覆った。湊は彼女の髪から漂う、硝煙とボディーソープが混ざり合った淡い香りを感じながら、自責と苦痛が体温の洗礼によって、一時的に深海へと沈んでいくのを感じていた。
窓の外で次第に明るくなっていく微光を見つめながら、彼はこの温もりが「借り物」であることを知っていた。
だが、この死地へと続く休暇が終わる前、この熱さこそが、彼が生き抜くための唯一の理由だった。




