DAY ONE
新宿の雨は、いつも安っぽいネオンの匂いがする。
巨大な電子看板にはバーチャルアイドルの作り笑顔が映し出され、その下を蟻の群れのような群衆が通り過ぎていく。無数の足音、話し声、そして遠くの車流音。それらが混ざり合い、混沌としながらも安定した「都市のリズム」を刻んでいた。
地下鉄の出口、その陰に一人の男が立っていた。ぶかぶかなレインコートに身を包んだその男は、宣戦布告の一言もなく、ただ懐から違法改造された自動小銃を取り出した。
――銃声。
最初の一発は、平穏という名のキャンバスを無残に引き裂いた。
返信を打とうとスマートフォンを眺めていたサラリーマンが、糸の切れた人形のように倒れ込む。群衆はコンマ数秒だけ硬直し、直後、鼓膜を突き刺すような悲鳴が爆発した。男は無表情に引き金を弾き続け、暗い雨幕の中で火花が激しく散る。
「全員伏せろ! 遮蔽物に隠れろ!」
パトロール中の民警二人が即座に応戦する。ベテランの老警官が親子を庇いながら応援を呼ぶが、身を乗り出した瞬間、弾丸が彼の脇腹を正確に貫いた。
「先輩……!」
若い警官が悲鳴を上げる。老警官は雨の中に滑り落ち、その深い紺色の制服は、みるみるうちに鮮血に染まっていった。
犯人は故障した電化製品のような乾いた笑い声を漏らし、乱射を続けながら十字路の中央へと歩を進める。
その時だった。
すべての警察無線のチャンネルが、鋭い電子ノイズに切り替わった。そして、感情の欠落した——どこか機械的なユーアを湛えた男の声が割り込む。
『――親愛なる同僚の諸君。ここからは「零」が戦局を引き継ぐ。「空間プロトコル」を発動せよ』
救出に向かおうとした警官たちが、その声を聞いた瞬間、一斉に動きを止めた。その顔に浮かんだのは安堵ではない。恐怖に近い畏怖だった。
「引け! 早く引け!」
負傷した老警官が傷口を抑え、顔を青ざめさせて叫ぶ。
「一般人を連れてこの場を空けろ……! あいつらが来るぞ!」
警察は狂ったように群衆を押し戻し、イエローテープを張り巡らせる。犯人を包囲するためではない。繁華街の中心に、物理的な「真空地帯」を無理やり作り出したのだ。
犯人が異変に気付く。人波が消えるのが早すぎる。目の前の警官たちは自分を見ようともせず、ただ足元のアスファルトを凝視している。
地底深くから、微かな振動が伝わってきた。
それは地震ではない。数百トンの質量が、時速数百キロから一瞬でゼロへと急停止した際の物理的なフィードバックだ。
「――ッ!」
案発地点からほど近い駅。建物の陰に隠された廃線跡の入り口から、大量の冷却煙が噴き出した。
光を飲み込むほどに黒く、流線型の列車が、音もなく姿を現す。窓はなく、鏡のように滑らかな表面が、ネオンの光を危うく反射していた。
新宿三丁目の地下深く。地図上では「変電所」と記された、決して電車が通ることのない秘密の軌道に、黒い列車が猛烈な減速で滑り込む。
ハッチが開くと同時に、二つの影が弾け飛んだ。
彼らはエレベーターには向かわない。行き止まりに見える通風孔の壁へと直走る。
先頭を行く女、その腕には血のような赤色のラインが発光している。彼女は垂直の壁を駆け上がり、流線型のプロテクターから噴射される加圧ガスを利用して、重力を無視した軌道を描く。
続く男は、肩と腰に雪のような白銀の合金を光らせていた。細身でありながら豹よりも鋭く、梁を片手で掴み、一回転して上層の通路へと躍り出る。
二人の流光が地下から突き抜け、わずか十秒で地上へと飛び出した。
【目標地点到達:新宿三丁目 13番出口】
犯人は狂ったように外囲の警察へ銃弾をバラ撒いている。
「退避しろ! 全員下がれ!」
老警官の絶叫が響いた瞬間、空から赤い影が舞い降りた。
赤いラインを刻んだ女が、隕石のような勢いで犯人の目前に着地する。衝撃で新聞スタンドの破片が舞い散る中、彼女は回転の勢いそのままに、漆黒の装甲脚で犯人の銃身を叩き折った。
バキィッ、という硬質な破壊音が響く。
犯人が恐怖に顔を歪めて後退する。だが、その背後の影には、もう一つの白い影が音もなく立ちふさがっていた。
雪白の装備を纏った男が、銃のグリップに手をかけ、氷の鏡のような冷徹な瞳で犯人を見つめる。彼はすぐには撃たず、わずかに首を傾けた。混迷する殺意のリズムを感じ取るようにして、一言だけ呟く。
「――クリーニング(処理)」
鈍い銃声。
雨音は止まない。犯人の額に刻まれた孔から力が抜け、その体は泥水の中へと崩れ落ちた。
女は立ち上がり、腕の赤い光が静まるのを待つ。白衣の男は優雅に銃を収めると、遠くで立ち尽くす民警たちを一度だけ見やった。
負傷した老警官の箇所で、彼の視線がわずかに止まる。冷淡さの中に潜む微かな温もりが過ったが、すぐに彼はインカムを起動した。
「零、清掃員の手配を」
二人は再び残像となり、闇の中へと消えていった。
一間、静まり返ったオフィス。
テレビには新宿の事件が映っている。
「……満足か?」
デスクの向こう側で、疲れ果てた老人がテレビを消した。
神楽 湊はソファに座り、両手を廉価なスーツのポケットに突っ込んでいた。暗くなった画面を見つめるその指先は、彼にしか聞こえない律動に合わせて膝の上を叩いている。
「神楽、君は私が知る中で最高の警官だ」
長官がデスクに一通の書類を押し出した。更職届。
「だが、君のその『リズム』……体制は君のような異類を許さない。警察に必要なのは天才ではなく、部品なのだよ」
湊は笑った。雅痞な気質を漂わせる、どこか孤独な微笑。
「部品は替えが効きますが、リズムが狂えば命は終わりですよ」
長官は沈黙の後、引き出しから一通の白い封筒を取り出した。
「もう一度引き金を引きたいなら、ここへ行け。……奇妙な場所だが、君の周波数には合っているかもしれん」
差し出されたのは、セラミックと金属の中間のような質感を持つ純黒のカード。磁条もなく、文字もない。ただ光の加減で地下鉄の路線図のような環状のエンボス加工と、灰色の『0』が浮かび上がる。
「これは『切符』だ。発車時刻はない。場所は奥多摩の奥地、廃棄されたトンネルの入り口だ。そこへ行けば、自ずと理解できるだろう」
湊は冷たいカードを指先で弄んだ。その動きには、生まれ持ったような律動感がある。
「奥多摩か……。引退後の静養には良さそうな場所だ」
彼は立ち上がり、長官に軽く会釈した。更職された身でありながら、オフィスを去るその背中は、どんな時よりも軽やかだった。
【奥多摩深山・廃棄0号トンネル】
深夜の山。雨は都市部よりも暴虐だった。
湊は簡素なバッグを手に、苔と砕石に覆われた旧いレールを踏みしめる。ここは数十年前に廃止された支線のはずだ。
トンネルの入り口で、彼は黒いカードを取り出した。
カードがセンサーに近づいた瞬間、周囲の混沌とした雨音が「変わった」。
雨粒の打撃音、木の葉の摩擦音。それらがまるで強大な力によって強制的に校正されたかのように整う。レールの深部から、彼が最も愛する機械の拍動が伝わってきた。
トンネル内から気圧が押し出される低い唸りが響き、暗闇の奥から鋭い白光が放たれる。
黒い列車が猛烈な速度で突き進み、湊のわずか一メートル前で、目に見えない重力に捕らえられたかのように静止した。
ハッチが開く。冷気と共に溢れ出した白霧の向こうに、流線型の鋼鉄の獣が横たわっている。
湊は深く息を吸い込み、その瞳を鋭く尖らせた。
足を踏み入れた先は、未来感の漂う空間だった。壁面には深青色のデータ流が走り、人間工学に基づいたサポートスタンドが並んでいる。
そこには、先ほどの二人がいた。
「こいつが例の『リズムマスター』? 笑わせるわね」
赤いラインを刻んだ女――新堂 曉が冷笑を浮かべる。
「決めつけるのは早いよ、曉」
白い装備の男――白鷺 零次が短刀を収め、湊の呼吸頻度を観察するように見つめた。
その時、拡音器から軽快で生真面目な声が響く。
『ZERO-DELAYへようこそ、神楽湊様。私はシステムAI「零」。任務開始前に警告を。初乗車で吐き気を催すことがあれば、それは本列車の加速度が、お客様の羞恥心を超えているせいです。……これはジョークです。笑ってください』
湊は一瞬呆然としたが、殺気立った同僚たちを前に、少し気まずそうに告げた。
「神楽湊だ。よろしく頼むよ」
「白鷺零次。彼女は新堂曉だ」
零次が湊の手を握り返す。
「出すよ。掴まってて」
列車は三秒で音速に達した。壁面のスクリーンに、世界各地の犯罪率が歴史的新低を記録したデータが映し出される。
『零延遲(ZERO-DELAY)プロトコル発動から十八ヶ月。東京、台北、ニューヨーク、ソウル……。世界中の首都圏における犯罪損害率は、歴史的最低水準に達しています。我々の仕事は、犯罪を死という絶対的な等式で解決すること。それだけです』
「完璧なユートピアだな」
湊が淡々と返すと、曉がヘルメットを脱ぎ捨てた。清廉で、しかし頑なな面容。
「ユートピアじゃない、効率よ。警察の『交渉と手順』なんて無意味な傷亡を増やすだけ。あんたのリズムが邪魔になるなら、私がこの手で叩き出すわ」
一傍の零次も、細い指先を刃に滑らせる。
「長官が推薦するからには、それなりの理由があるんだろう。この数値を壊さないでくれよ、新人」
湊は目を閉じ、深く息を吸った。
再び目を開けた瞬間、散漫だった気場は消え、その瞳は列車の脈動と完全に同調していた。
「データがこれほど綺麗なら、維持してやらないとな」
湊は不敵に微笑み、AIコアを見上げた。
「なあ、零。本部はまだか?」
『終着駅まで、あと六分です』




