第99話「そして日常へ、お小遣いは月五万ベル」
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チュン、チュン……。 小鳥のさえずりと共に、カーテンの隙間から朝日が差し込む。
私はベッドの中で大きく伸びをして、隣を見た。
そこには、銀色の髪を無造作に広げ、穏やかな寝息を立てている夫──アレクセイさんの姿があった。
「……ふふ。口が開いていますよ、宰相閣下」
私は彼の頬を指でつついた。
昨夜のパーティーの熱狂が、まるで遠い夢のようだ。 煌びやかなシャンデリアも、鳴り止まない拍手も、
ここにはない。
あるのは、いつもの寝室と、少し寝癖のついた夫だけ。
「……ん……リアナ……?」
アレクセイさんがゆっくりと目を開けた。
アメジストの瞳が、ぼんやりと私を映す。
「おはよう。……まだ夢を見ているようだ。君が女神に見える」
「おはようございます。まだ寝ぼけているようですね。……さあ、起きてください。日常が始まりますよ」
私はカーテンを開け放った。
窓の外には、今日も今日とて王都の青空が広がっている。 特別な日の翌日も、世界は変わらず回り続け、アインスワース家の朝もまた、変わらずに始まるのだ。
「ママー! エレナのくつした、かたっぽないー!」
「お母様、僕の通学カバンの中に、昨日の残りのローストビーフを詰めないでください。実験器具が入らなくなります」
「あら、栄養補給は大事ですよ、アレク」
一階のダイニングキッチン。
そこは戦場のような騒がしさだった。
私はエプロン姿でフライパンを振りながら、子供たちの支度を監督する。
公爵家の夫人でありながら、朝食作りだけは私の聖域だ。
「はい、エレナ。靴下は洗濯カゴの裏に落ちていましたよ。……アレク、トーストが焦げますよ」
「計算通りです。炭化率五%の焦げ目が、最も脳を活性化させるというデータがあります」
「偏屈なデータですね……」
そこへ、着替えを済ませたアレクセイさんが入ってきた。
昨日のタキシード姿とは違い、パリッとした執務用のスーツに身を包んでいる。
だが、その表情はどこか真剣で、手には一枚の封筒と、一枚の紙が握りしめられていた。
「……おはよう、みんな」
「おはようございます、あなた。……朝食の前に、例の件は?」
私はコーヒーを淹れながら、昨夜の約束について水を向けた。
アレクセイさんは頷き、持っていた封筒をテーブルに置いた。
「ああ。昨夜の約束通り……子供たちの衣装代で予算オーバーした分だ。私のポケットマネーから補填しておいた」
「ありがとうございます。助かります、スポンサー様」
私は封筒を受け取り、中身を確認して微笑んだ。
これで家計簿の赤字は解消だ。 一件落着……と思った、その時だった。
「……ところで、リアナ」
アレクセイさんが、ニヤリと意味ありげな笑みを浮かべた。
その手には、まだもう一枚の紙が残されている。
「私は約束を守った。君の『お小遣い(補填)』を気前よく出したわけだ」
「ええ、感謝しています」
「ならば……この流れで、私の要求も通ると思っていいな?」
彼が勢いよくテーブルに叩きつけたのは、手書きの申請書だった。
そこには震える文字で、こう書かれている。
『当主小遣い増額申請書』
『希望額:月額 八万ベル』
「……」
私はコーヒーカップを置き、眼鏡の位置を直した。 なるほど。
昨夜、私の要求をすんなり飲んだのは、このカウンター攻撃のためだったのか。
「アレクセイさん。……これはどういう冗談ですか?」
「冗談ではない! 本気だ!」
アレクセイさんは優しくテーブルをバンと叩いた。
「いいか、リアナ。現在の私の小遣いは『月額五万ベル』だ。一国の宰相が! 公爵家の当主が! 五万ベルだぞ!? 部下とランチに行っても、私だけ水で我慢することもあるんだ!」
「お弁当を持たせているではありませんか。栄養バランス満点の愛妻弁当を」
「そ、それはそうだが……! たまには部下に奢ってやって、上司の威厳を見せたい時もあるんだ! それに、君の赤字は補填したんだ。私の赤字も救済されるべきだろう!?」
五歳のエレナが、口の周りにジャムをつけながら首を傾げた。
「パパ、お金ないの?」
「うっ……! パ、パパはお金持ちだぞ! ただ、ママ銀行の審査が厳しいだけなんだ!」
「お父様。……資産運用における流動性の確保は重要です。僕の研究予算から少し融通しましょうか?」
「アレク、お前……! なんて親孝行な息子なんだ……!」
息子に同情される父親。 私はため息をつき、電卓を取り出した。
パチパチパチ……。
軽快な打鍵音が、ダイニングに響く。
それは、彼にとっての「判決」の音だ。
「……審議の結果を発表します」
私は電卓の画面を彼に見せた。
「却下です」
「なっ……!? な、なぜだ!?」
「理由は明確です。……私が請求したのは『必要経費(子供の衣装代)』の補填です。対して、貴方が請求しているのは『浪費(無駄遣い)』のための増額だからです」
私は冷静に、しかし諭すように説明した。
「アレクセイさん。貴方はお金を持つと、すぐに変な魔導具を買ったり、骨董品を掴まされたりするでしょう? カトリーヌお義母様の『買い物下手』な遺伝子は、貴方の中にも確実に受け継がれているのです」
「ぐぬぬ……」
「それに、貴方が部下に奢る費用は『交際費』として別途経費計上しています。 必要なものは私が買います。……貴方の財布に現金を入れすぎるのは、子供に火薬を持たせるのと同じくらい危険なのです」
完璧な論破。 昨夜の気前の良さを盾に取れば勝てると思ったのだろうが、元・敏腕経理係の私には通用しない。
アレクセイさんはガックリと項垂れた。
その背中からは、「宰相の威厳」が完全に消失していた。
「……わかった。……五万ベルで我慢するよ」
いじける夫。 その姿を見て、私はクスリと笑った。 この人は、外では「氷の宰相」として国を動かしているのに、家では私の一言に一喜一憂する。 それが愛おしくて、たまらない。
私は席を立ち、彼の背中に後ろから抱きついた。
「……そんなに落ち込まないでください」
「……でも、三万ベルが……」
「現金での増額はできませんが……その代わり」
私は彼の耳元に唇を寄せ、甘く囁いた。
「差額分は、私の『愛』でお支払いしますから。……プライスレスの、特別ボーナスですよ?」
「……っ!」
アレクセイさんの耳が、みるみる赤く染まっていく。
彼はバッと振り返り、私を見た。
「……本当に?」
「ええ。……毎朝の『行ってらっしゃいのキス』を、三割増しにしてあげます」
「……」
彼は一瞬、真剣に何かを計算するような顔をして、
それからデレデレに破顔した。
「……交渉成立だ。現金などいらん。愛があればそれでいい」
「パパ、かんたん!」
「単純構造です」
子供たちの冷静なツッコミも、今の彼には届かないようだ。
アレクセイさんは私を引き寄せ、子供たちの目も憚らずに、熱い口づけを落とした。
「行ってきます、私の最高の財務大臣」
「行ってらっしゃい、私の一番大きな子供さん」
「行ってきまーす!」
「行ってきます。……今日の実験は爆発させないよう善処します」
子供たちが元気よく学校とアカデミーへ向かい、
アレクセイさんも馬車に乗り込んで出勤していった。 嵐のような朝が過ぎ去り、公邸には静寂が戻る。
「……ふぅ」
私は玄関ホールに立ち、彼らの背中が見えなくなるまで見送った。 昨日、あんなに華やかなパーティーがあったなんて信じられないくらい、いつも通りの日常。 五万ベルのお小遣いで揉めて、朝ごはんで笑い合って、キスをして送り出す。
何も変わらない。 でも、その「変わらなさ」こそが、私たちが十年間かけて積み上げてきた結晶なのだ。
「奥様。……お茶をお淹れしましょうか」
セバスチャンが静かに声をかけてきた。
「ええ、お願いします。……今日は少し、ゆっくりしましょうか」
私はリビングへ戻り、いつものソファに座った。 窓の外では、エレナが植えた花々が、春の風に揺れている。 この穏やかな時間が、ずっと続けばいい。
お婆ちゃんになっても、アレクセイさんと五万ベルの攻防を繰り広げていたい。
そう願いながら、私はふと、サイドテーブルに置かれた写真立てを手に取った。
昨夜、家族四人で撮った写真だ。 みんな、いい顔をしている。
「……契約更新、しましたものね」
私は写真の中の夫に向かって、小さく呟いた。
『ずっと、私の側で笑っていてください』 その約束は、きっと守られる。
でも。 ふと、不思議な予感が胸をよぎった。
これからの十年。二十年。
子供たちは成長し、いつか巣立っていく。
アレクセイさんも私も、白髪が増え、シワが増えていく。
「変わらない日常」は、少しずつ形を変えていく。
「……どんな未来が待っているんでしょうね」
私は写真の隣に、カレンダーを置いた。
そこには、十年後の日付なんて書いていない。
未来は白紙だ。 だからこそ、私たちがこれから書き込んでいく「計算式」は、無限の可能性を秘めている。
「奥様、紅茶が入りました」
「ありがとう」
温かい紅茶の香りに包まれながら、私は目を閉じた。 瞼の裏に浮かぶのは、数十年後の私たち。
腰が曲がっても、手をつないで歩く二人の姿。
「……楽しみですね」
アインスワース家の物語は、まだ終わらない。
けれど、今日という日は、ここで一区切り。
さあ、家計簿をつけよう。 今日の支出はゼロ。
でも、幸福の収支は──今日もやっぱり、黒字だ。
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