第91話「宰相の決断、そして花咲く命の誕生」
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深夜二時。 王都の公邸、リビングルーム。
私は大きくなったお腹を抱えながら、ソファでハーブティーを飲んで夫の帰りを待っていた。
出産予定日まであと二週間。
本来なら妊婦は眠っているべき時間だが、今夜はどうしても胸騒ぎがして、ベッドに入ることができなかったのだ。
ガチャリ……。
重厚なマホガニーの扉が開き、この世の終わりのような足取りで、夫が帰ってきた。
「……ただいま、リアナ」
そこに立っていたのは、いつものキラキラした美貌を誇る「氷の宰相」ではなかった。 目の下には濃いクマができ、自慢の銀髪は乱れ、美しい顔色は土気色に染まっている。 まるで、三日間徹夜で決算処理をした後の経理担当者のような疲弊ぶりだ。
「おかえりなさい、アレクセイさん。……大丈夫ですか? 顔色が真っ青ですよ」
「ああ……問題ない。……ただ、少し、働きすぎただけだ」
アレクセイさんはよろめきながら私に近づき、愛おしそうにお腹を撫でた後、ドサリとソファに沈み込んだ。 そして、深く、重い溜息をついた。
「……リアナ。相談がある」
「はい? 明日の朝食のメニューですか? それとも、またマリーが変な事業提案をしてきましたか?」
「いや。……これを見てくれ」
彼が懐から取り出し、テーブルに叩きつけたのは、一枚の白い封筒だった。
表書きには、力強い筆跡でこう書かれている。
『辞表』
「……はい?」
私の思考が一瞬停止した。 辞表? 誰の? 私の夫、アレクセイ・アインスワース公爵は、この王国の宰相だ。 彼の上司は、国王陛下ただ一人。
つまり、これは──。
「……辞めるのですか? 宰相を?」
「そうだ。……もう限界だ」
アレクセイさんは天井を仰ぎ、悲痛な声で叫んだ。
「この一ヶ月、私は家に帰っても、君が寝ている顔しか見られていない! アレクと遊ぶ時間も、お腹の子に話しかける時間もない! ……こんな生活は間違っている!」
彼はガバッと起き上がり、私の手を取った。
その手は冷たかったが、想いは熱かった。
「リアナ! 君の出産は命懸けだ。産後の肥立ちも大事だ。……なのに、私は国会で予算案の審議? 隣国との通商条約? 知ったことか! 私にとっての『国家』は、この家の中にしかないんだ! 私はもう、仕事なんて投げ出して、君と子供たちのためだけに生きたい!」
彼の主張は、感情的には百点満点だ。
夫として、父親として、これほど愛に溢れた言葉はない。 だが。
「……却下します」
私は冷徹に封筒を突き返した。
「な、なぜだ!? 君も私が家にいた方がいいだろう!?」
「感情論で言えばイエスです。ですが、家計簿と社会的信用の観点からはノーです」
私は眼鏡の位置を直し、冷静に計算式を並べ立てた。
「第一に、宰相の給与は我が家の収入の三割を占めています。これを失うのは痛手です。第二に、貴方が突然辞めれば、国政は大混乱し、通貨価値が暴落します。それは巡り巡って、我が家の資産価値を下げることになります」
「金か!? 愛よりも金なのか!?」
「愛を守るために金が必要なのです。……それに」
私は諭すように言った。
「貴方が完全に無職になったら、アレクが真似しますよ? 『お父様が働かないなら、僕もアカデミーに行きません』って」
「うっ……」
アレクセイさんは言葉に詰まった。
そこへ、騒ぎを聞きつけたのか、二階から小さな影が降りてきた。 五歳のアレクだ。クマのパジャマ姿で、眠そうに目を擦っている。
「……深夜の家族会議ですか? 議題は?」
「お父様が『会社を辞める』と言い出しました」
「……リスク評価が必要です」
アレクは瞬時に覚醒し、トコトコと歩いてきて辞表を覗き込んだ。
「お父様。……早期退職にはまだ早すぎます。退職金の割り増し条件なども確認していませんよね?」
「アレク、お前まで……! パパはお前たちと一緒にいたいだけなんだ!」
「お気持ちは理解しますが、ゼロか百かで考えるのは非効率です」
アレクは小さな指を立て、大人びた口調で提案した。
「辞めるのではなく、『労働条件の再交渉』を行うべきです。……お母様、僕の提案は『育児休業』の取得と『在宅勤務』の導入です」
「採用です、アレク」
我が息子ながら、完璧なソリューションだ。
私は立ち上がり、呆然とする夫の手を引いた。
「行きますよ、アレクセイさん」
「ど、どこへ?」
「王宮です。国王陛下を叩き……いえ、説得しに行きます。今すぐに」
「今からか!? 深夜だぞ!?」
「善は急げ、時は金なりです。……アレク、貴方も来なさい。交渉の証人になりなさい」
「承知しました。……深夜残業手当として、明日のオヤツは倍額を要求します」
深夜の王宮、国王の寝室。 近衛兵たちが慌てふためく中、私たちは強引に押し入った。 パジャマ姿で飛び起きたフレデリック国王陛下は、ナイトキャップを被ったまま、青ざめた顔で私たち夫婦と眠そうなアレクを迎えた。
「や、夜襲か!? 謀反か!? アインスワース、ついに国を乗っ取る気か!?」
「いえ、労使交渉です」
私は単刀直入に切り出した。
アレクセイさんが辞表を叩きつけると、陛下は「ひぃっ!」と悲鳴を上げた。
「ま、待ってくれアレクセイ! 辞めないでくれ! 君がいなくなったら、誰があの古狸のような貴族たちを黙らせるんだ!? 隣国の使者と誰が睨み合うんだ!?」
「知ったことではありません。……私は妻の出産に立ち会い、産後のケアをし、娘(予定)のオムツを替えたいのです!」
アレクセイさんが殺気立った目で迫る。
陛下は涙目で私に助けを求めた。
交渉のテーブルは整った。
「陛下。……夫も鬼ではありません。以下の条件を呑んでいただければ、辞表は撤回すると申しております」
私は懐から、馬車の中で即席で作成した『アインスワース宰相・働き方改革案』を提示した。
一、出産予定日の前後二ヶ月間、宰相の「完全育児休業」を認めること。
二、休業期間中の決済権限は、アレクセイが指名した代理人に委譲すること。
三、復帰後も、週三日は「遠隔魔法通信」による在宅勤務を認めること。
「い、育児休業……? 宰相がか?」
「前例がないなら、作ればいいのです。……これからの時代、男も育児をするのが『王国のスタンダード』になります。陛下がそれを推奨すれば、国民からの支持率も上がりますよ?」
「むむ……確かに」
「もし認められないなら……」
アレクセイさんが、スッと右手を上げた。
寝室の温度が一気に下がり、陛下の飲みかけの水がカチンと音を立てて凍りついた。 窓ガラスに霜が走り、陛下の吐く息が白くなる。
「……王城ごと凍結させて、強制的に『冬休み』にして差し上げますが?」
「わ、分かった! 分かったから氷をしまえ! 全面的に認める!! サインだ! サインすればいいんだろう!!」
陛下は震える手で、私の出した改革案にサインをした。 契約成立。
これでアレクセイさんは、王国史上初となる「育休を取る宰相」となったのだ。
「……勝ったな」
帰りの馬車の中。 アレクセイさんは満足げに呟き、私の肩を抱いた。 窓の外では、空が白み始めている。長い夜だった。
「これで、心置きなく君と子供のそばにいられる。……ありがとう、リアナ。君のおかげだ」
「ふふ。貴方の熱意があったからこそですよ」
「お父様、僕への報酬も忘れないでください。
交渉のサポート料として、キャンディ一袋です」
「分かった分かった。お前は本当にちゃっかりしているな」
平和な夜明け。 馬車が公邸に到着し、私たちは安堵の息を吐きながら玄関をくぐった。
「さあ、まずはゆっくり寝ましょう。……明日は休みですから」
「ああ。……リアナ、お腹は大丈夫か? 無理をさせたな」
「ええ、少し張っていますが、大丈……」
ズキリ。
言葉の途中で、鋭い痛みが下腹部を走り抜けた。
それは、今までの「お腹の張り」とは明らかに違う。 重く、鋭く、そして定期的な波となって押し寄せる痛み。
「……っ!」
私が思わずお腹を押さえてうずくまると、アレクセイさんが色を失って支えてくれた。
「リ、リアナ!? どうした!?」
「……アレクセイさん。……アレク」
私は脂汗を拭いながら、冷静に努めて告げた。
私の体内時計と、痛みの間隔を計算する。
五分間隔。 これは、もう始まっている。
「……予定より二週間早いですが。……どうやら、こちらの『業務』が開始されたようです」
私の足元に、温かい液体が広がる。 破水だ。
「は、はすい!? 生まれるのか!? い、今!?」
「落ち着いてください。……まずはセバスチャンを起こして、産婆さんを呼んで。……それとお湯を」
「わ、分かった! お湯だな! よし、お湯を凍らせればいいのか!?」
「凍らせてどうするんですか! 沸かすんです!」
パニックになる氷の宰相。
一方で、アレクは冷静に廊下を走り出していた。
「セバスチャン! 緊急事態です! 出産準備マニュアル、プランBへ移行! ……マリー叔母様にも至急連絡を!」
それからの数時間は、まさに戦場だった。
主寝室に運び込まれた私は、襲い来る痛みの波と戦っていた。
「んぐっ……! ううぅ……!」
「が、頑張れリアナ! ……そうだ、呼吸だ! 酸素を取り込むんだ!」
ベッドの脇で私の手を握りしめているのは、夫のアレクセイさんだ。 彼は私以上に汗だくで、顔面は蒼白。 私が痛みに顔を歪めるたびに、彼の周りの空気がピキピキと凍りつき、室温が急激に下がっていく。
「……アレクセイさん。……寒いです」
「ああっ!? す、すまん! 無意識に冷却魔法が……!」
「お父様、落ち着いてください。お母様の体温低下は出産のリスク要因です」
部屋の隅で腕組みをしているアレクが、冷静に室内の魔力濃度を監視していた。
彼の指示で、セバスチャンやメイドたちが的確に動いている。
「セバスチャン、お湯の追加を。産婆さん、タオルの準備は?」
「は、はい! アレク坊ちゃん!」
大人たちが右往左往する中、一番頼りになるのが五歳児という異常事態。
けれど、そのおかしさが、私の緊張を少しだけ和らげてくれた。
(……この子たちのためにも、負けるわけにはいかないわね)
私は奥歯を噛み締め、痛みの波に立ち向かった。
私の役目は、新しい命をこの世界へ無事に「送り出す」こと。
これはアインスワース家にとって最大のプロジェクトだ。絶対に失敗は許されない。
「奥様! 頭が見えてきましたよ! 次の波でいきんでください!」
ベテランの産婆さんの声が響く。
「リアナ! 手を! 私の手を握り潰すつもりで力を込めろ!」
「……ええ、遠慮なく……!」
私はアレクセイさんの手を、万力のような力で握りしめた。彼の骨がミシミシと鳴った気がしたが、今は気にしてはいられない。
(……出てらっしゃい! アインスワース家の新しい家族!)
全身の力を一点に集中させる。
視界が白く弾けるような感覚。 そして──。
オギャァァァァァァ──ッ!!
力強い産声が、部屋中に響き渡った。 と同時に。
ドォォォォォッ……!!
赤ちゃんの体から、爆発的な「何か」が溢れ出した。
それはアレクセイさんのような冷たい氷でも、
アレクのような鋭い光でもない。
もっと根源的で、圧倒的な──「生命」の奔流。
「な、なんだ!?」
アレクセイさんが叫んだ次の瞬間、信じられない光景が広がった。
ボッ! ボボボボッ!!
部屋の壁紙から、床の板目から、そして天井の梁から。 無数の「芽」が吹き出し、一瞬にして成長し、色とりどりの花を咲かせたのだ。
ピンクの薔薇、黄色の向日葵、紫のラベンダー。
本来ならあり得ない季節外れの花々が、寝室をジャングルのように埋め尽くしていく。
「……花? 部屋の中に花畑が!?」
「すごい……! なんて生命力だ……!」
アレクが目を輝かせて呟く中、産婆さんが震える手でその子を抱き上げた。
「お、おめでとうございます……! 咲き誇るような、元気な女の子ですよ!」
産婆さんが産湯を使い、タオルで包んだその子を、私の胸元へと連れてきてくれた。 私は震える手で、我が子を受け取った。
「……はじめまして」
腕の中のその子は、まだ赤くてくしゃくしゃな顔をしていたけれど。
その頭には、アレクセイさん譲りの美しい銀髪が濡れて張り付いている。
そして、ゆっくりと開かれた瞳は──。
「……蜂蜜色のトパーズ。私と同じ……」
私が呟くと、その子はふにゃりと笑った気がした。
その瞬間、私の枕元に咲いていた白い百合が、ポンッと音を立てて開花した。
「……間違いない。この子の魔力特性は『生命』と『開花』です」
アレクが近づいてきて、興味津々に妹を覗き込んだ。
「彼女の感情とリンクして、周囲の植物が活性化しています。……お父様の氷とは正反対の、温かくて重い魔力です」
「生命の魔力、か……」
アレクセイさんが恐る恐る手を伸ばし、赤ちゃんの小さな指に触れた。
「……可愛い。なんて可愛いんだ……」
彼の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
氷の宰相が、娘の前ではただの泣き虫な父親になっている。
「よくやった、リアナ。……ありがとう。本当に、ありがとう」
「ふふ。……貴方の予言通り、女の子でしたね」
私は疲れ切った体で、けれど満ち足りた気持ちで微笑んだ。
「名前は……決めてありますね?」
「ああ。……この光景を見れば、迷うことはない」
アレクセイさんは、花に埋め尽くされた部屋を見渡し、そして愛娘の額にキスをした。
「エレナ。……光り輝く者。そして、花のように愛される子だ」
「エレナ……。素敵な名前です」
「ふむ。エレナ・アインスワース。……語感も悪くありません」
アレクも納得したように頷き、そっと妹の頬をつついた。
「よろしく、エレナ。僕がお兄様ですよ。……早く大きくなって、僕の実験……いえ、遊び相手になってくださいね」
エレナは兄の声に反応し、小さな手を伸ばしてアレクの指をギュッと握り返した。
その握力は、新生児とは思えないほど強かった。
こうして、アインスワース家に新しい「大物」が誕生した。 母の瞳と父の髪を持ち、感情が高ぶると周囲を花畑に変えてしまう、愛らしくも恐ろしいプリンセス。
ひとしきり感動を分かち合った後。
私はふと、冷静さを取り戻して部屋を見渡した。
壁を突き破って生えた蔦。 床板を持ち上げて咲いた向日葵。
花粉が舞い散る高級絨毯。
「……さて」
私は眼鏡をかけ直し、そろばんを取り寄せた。
「アレクセイさん。この部屋の修繕費と、クリーニング代。……そして私の出産特別手当。すべて合わせて、来年度の予算に計上しておいてくださいね?」
「……えっ、今その話?」
「当然です。……子育てにはお金がかかるのですから」
アインスワース家の新しい朝は、満開の花と、母の逞しい計算音と共に始まった。 窓の外では、王都の空に美しい虹がかかっていた。 育休を獲得し、新しい家族も増えた。 この規格外の家族の未来は、どこまでも明るく、そしてカオスに満ちている。
読んでくださってありがとうございます。
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