第9話「カーテンの裏は秘密の聖域」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
昨夜の喧騒が嘘のように、王宮の朝は静まり返っていた。 だが、その静寂は平和なものではない。嵐の前の、あるいは嵐が過ぎ去った後のような、重苦しい淀みを含んでいた。
「……閣下。ペンの動きが止まっています」
私が指摘すると、アレクセイ様はハッと顔を上げた。 いつもの完璧な宰相の仮面は、今日は少しだけ剥がれ落ちている。 顔色は白磁のように蒼白で、目の下の隈は昨日よりも濃い。夜会での社交という名の、私に近づく男たちの排除活動にエネルギーを使い果たしたのだろう。
「……五分だ」
「はい?」
「五分だけ休憩する。……リアナ、こっちへ来い」
アレクセイ様はふらりと立ち上がると、執務室の窓際にかかる、重厚なベルベットのカーテンの方へと歩いていった。 私が慌てて追いかけると、彼はカーテンを少しだけめくり、その裏側へと私を招き入れた。
「え……?」
そこには、驚くべき空間が広がっていた。
窓とカーテンの間の、わずか一メートルほどの隙間。そこに、人が一人寝そべられるだけの長椅子と、小さなサイドテーブルが隠されていたのだ。 窓からは柔らかな陽光が差し込んでいるが、分厚いカーテンが部屋からの視線を完全に遮断している。 まるで、子供が作った秘密基地のような、外界から隔絶された狭い空間。
「ここは……?」
「私の避難所だ。文官どもに見つからずに仮眠を取るためのな」
アレクセイ様は長椅子に倒れ込むように横たわると、長い手足を投げ出した。
そして、自分の隣のわずかな隙間──床のカーペットをポンポンと叩いた。
「座れ」
「は? ここにですか? 狭いですが」
「いいから座れ。……君がいないと、充電効率が悪い」
駄々っ子のような理屈だ。 私は仕方なく、彼の顔のすぐ横、床の上に膝を抱えて座った。
膝の上に、計算途中の帳簿とペンを乗せる。
「私はここで仕事を続けますよ。ペンの音がうるさくても文句を言わないでくださいね」
「ああ……その音が、いいんだ……」
アレクセイ様は目を閉じ、深く息を吐いた。
カーテンで仕切られたこの空間は、執務室の空気とは違う匂いがした。 日向の匂いと、古い紙の匂い。そして、アレクセイ様から香る、甘く冷ややかな移り香。
(……静かだわ)
カツ、カツ、カツ。 私がペンを走らせる音だけが、狭い空間に響く。 普段は「氷の宰相」として国を背負い、何万人もの人間の生活を左右している彼が、今は無防備な一人の青年として、私のすぐ隣で寝息を立てている。
その顔を見て、私はふと手を止めた。 長い睫毛が頬に影を落としている。眉間の皺は消え、子供のように安らかな表情だ。
「……あんなに高い給料をもらっているのに、寝る時間もないなんて。コストパフォーマンスが悪すぎますよ、宰相という仕事は」
独り言のように呟く。 もし彼が倒れたら、国はどうなるのだろう。 そして──私の借金返済計画はどうなるのだろう。 そんな打算的な計算をしているはずなのに、私の胸の奥がチクリと痛んだ。
「う……ん……」
不意に、アレクセイ様が呻いた。 安らかだった表情が歪む。 眉間に深い縦皺が刻まれ、呼吸が荒くなる。
「やめろ……来るな……っ」
悪夢だ。 普段の彼からは想像もできない、怯えたような声。 何を見ているのだろう。過去の政敵か、それとも幼い頃のトラウマか。 彼の手が空を切り、何かを掴もうとして彷徨っている。
(計算外だわ。こんな姿、契約書には含まれていない)
見て見ぬふりをして仕事を続けるべきだ。私は経理係であり、カウンセラーではない。 そう頭では分かっているのに。 私の手は、論理よりも先に動いてしまった。
そっと、彼のおでこに触れる。冷たい汗をかいている。 私は彼の手を握りしめ、もう片方の手で、銀色の髪をゆっくりと撫でた。
「……大丈夫です。ここには誰もいません」
子供の頃、雷を怖がる弟にしてあげたように。
一定のリズムで、優しく、繰り返し。
「私がいます。ここの計算は合っています。貴方は安全圏にいますよ」
意味のわからない慰め言葉だ。 でも、私の声と手の温もりが届いたのか、アレクセイ様の呼吸が次第に落ち着いていく。 歪んでいた表情が解け、再び穏やかな寝顔に戻る。 握りしめた手が、私の手を強く握り返してくる。
「……リアナ……」
寝言で名前を呼ばれた。 ドキリとして、心臓が跳ねる。 ただの夢だろう。でも、その声があまりにも切実で、愛おしそうに響いたから。
(……参ったな。これじゃあ、仕事にならない)
私は赤くなりそうな顔を伏せ、捕まえられた片手はそのままで、もう片方の手だけで不器用に帳簿のページをめくった。 この「手当」の時間は、私の時給には含まれない。完全なサービス残業だ。 でも、不思議と損をした気分にはならなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に、握られていた手に力がこもった。
「……起きているなら、手を離してください」
「嫌だ」
即答だった。 見ると、アレクセイ様が目を開けていた。 そのアメジストの瞳は、寝起き特有の潤みを帯びていて、私をじっと見上げていた。
「……悪夢を見ていた」
「そうみたいですね。随分とうなされていました」
「暗くて、寒い場所で……誰もいない夢だ。だが」
彼は私の手を自分の頬に押し当て、猫のように目を細めた。
「君が呼ぶ声が聞こえた。君の手が、私を連れ戻してくれた」
「ただ髪を撫でていただけです。子供騙しの民間療法ですよ」
「効能は抜群だった。……君は魔法使いか、やはり」
アレクセイ様は身を起こすと、カーテンの隙間から漏れる光の中で、私を眩しそうに見つめた。
その眼差しは、昨夜のダンスの時よりもさらに深く、重い熱を帯びていた。
「リアナ」
「はい」
「ここは私の聖域だ。誰にも教えたことはない」
「でしょうね。こんな狭い場所、誰も好んで入りません」
「……ここを、君との『共有資産』にしよう」
彼は私の手首に口づけを落とした。 脈打つ血管の上。生命の音が響く場所に、誓いの印を刻むように。
「私が辛い時、苦しい時……また、ここで私を撫でてくれるか? 報酬は言い値で払う」
「……」
ずるい。 そんな弱々しい顔で、そんな契約を持ちかけられたら、断れるはずがない。 私は大きなため息をつき、眼鏡の位置を直した。
「……一回につき、特別手当千ベル。それと、私の肩もみ権一回分でどうですか?」
「安いな。……契約成立だ」
アレクセイ様がくしゃりと笑った。
その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも人間らしくて、私の胸を不覚にも高鳴らせた。
「さて、仕事に戻るか。……充電は完了した」
彼がカーテンを開け放つ。 眩しい光が差し込み、秘密の時間は終わりを告げた。
私たちは「上司と部下」の顔に戻り、執務室という戦場へ戻っていく。
だが、この時の私はまだ知らなかった。
このカーテンの裏で育んだささやかな温もりが、間もなく訪れる冷酷な事件に立ち向かうための、唯一の武器になることを。
私がデスクに戻り、先ほどの帳簿──初出勤の日に樹海の底から見つけたあの「黒い裏帳簿」を開いた時。 私の「不正感知」スキルが、強烈な違和感を訴えた。
「……あれ?」
ページの隅。 昨日まではなかったはずの、極小のインクの染み。 そして、書類の並び順が、わずか一ミリだけズレている。
(誰か……触った?)
私とアレクセイ様しか知らないはずのこの帳簿に、第三者が触れた痕跡。 背筋に冷たいものが走る。 聖域の外には、見えない悪意がすぐそこまで迫っていた。
読んでくださってありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
感想や評価・ブックマーク、とても励みになります。




