表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/33

第9話「カーテンの裏は秘密の聖域」

「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」



昨夜の喧騒が嘘のように、王宮の朝は静まり返っていた。 だが、その静寂は平和なものではない。嵐の前の、あるいは嵐が過ぎ去った後のような、重苦しい淀みを含んでいた。


「……閣下。ペンの動きが止まっています」


私が指摘すると、アレクセイ様はハッと顔を上げた。 いつもの完璧な宰相の仮面は、今日は少しだけ剥がれ落ちている。 顔色は白磁のように蒼白で、目の下の隈は昨日よりも濃い。夜会での社交という名の、私に近づく男たちの排除活動にエネルギーを使い果たしたのだろう。


「……五分だ」


「はい?」


「五分だけ休憩する。……リアナ、こっちへ来い」


アレクセイ様はふらりと立ち上がると、執務室の窓際にかかる、重厚なベルベットのカーテンの方へと歩いていった。 私が慌てて追いかけると、彼はカーテンを少しだけめくり、その裏側へと私を招き入れた。


「え……?」


そこには、驚くべき空間が広がっていた。

窓とカーテンの間の、わずか一メートルほどの隙間。そこに、人が一人寝そべられるだけの長椅子シェーズロングと、小さなサイドテーブルが隠されていたのだ。 窓からは柔らかな陽光が差し込んでいるが、分厚いカーテンが部屋からの視線を完全に遮断している。 まるで、子供が作った秘密基地のような、外界から隔絶された狭い空間。


「ここは……?」


「私の避難所シェルターだ。文官どもに見つからずに仮眠を取るためのな」


アレクセイ様は長椅子に倒れ込むように横たわると、長い手足を投げ出した。

そして、自分の隣のわずかな隙間──床のカーペットをポンポンと叩いた。


「座れ」


「は? ここにですか? 狭いですが」


「いいから座れ。……君がいないと、充電効率が悪い」


駄々っ子のような理屈だ。 私は仕方なく、彼の顔のすぐ横、床の上に膝を抱えて座った。

膝の上に、計算途中の帳簿とペンを乗せる。


「私はここで仕事を続けますよ。ペンの音がうるさくても文句を言わないでくださいね」


「ああ……その音が、いいんだ……」


アレクセイ様は目を閉じ、深く息を吐いた。

カーテンで仕切られたこの空間は、執務室の空気とは違う匂いがした。 日向の匂いと、古い紙の匂い。そして、アレクセイ様から香る、甘く冷ややかな移り香。


(……静かだわ)


カツ、カツ、カツ。 私がペンを走らせる音だけが、狭い空間に響く。 普段は「氷の宰相」として国を背負い、何万人もの人間の生活を左右している彼が、今は無防備な一人の青年として、私のすぐ隣で寝息を立てている。


その顔を見て、私はふと手を止めた。 長い睫毛が頬に影を落としている。眉間の皺は消え、子供のように安らかな表情だ。


「……あんなに高い給料をもらっているのに、寝る時間もないなんて。コストパフォーマンスが悪すぎますよ、宰相という仕事は」


独り言のように呟く。 もし彼が倒れたら、国はどうなるのだろう。 そして──私の借金返済計画はどうなるのだろう。 そんな打算的な計算をしているはずなのに、私の胸の奥がチクリと痛んだ。


「う……ん……」


不意に、アレクセイ様が呻いた。 安らかだった表情が歪む。 眉間に深い縦皺が刻まれ、呼吸が荒くなる。


「やめろ……来るな……っ」


悪夢だ。 普段の彼からは想像もできない、怯えたような声。 何を見ているのだろう。過去の政敵か、それとも幼い頃のトラウマか。 彼の手が空を切り、何かを掴もうとして彷徨っている。


(計算外だわ。こんな姿、契約書には含まれていない)


見て見ぬふりをして仕事を続けるべきだ。私は経理係であり、カウンセラーではない。 そう頭では分かっているのに。 私の手は、論理よりも先に動いてしまった。


そっと、彼のおでこに触れる。冷たい汗をかいている。 私は彼の手を握りしめ、もう片方の手で、銀色の髪をゆっくりと撫でた。


「……大丈夫です。ここには誰もいません」


子供の頃、雷を怖がる弟にしてあげたように。

一定のリズムで、優しく、繰り返し。


「私がいます。ここの計算は合っています。貴方は安全圏にいますよ」


意味のわからない慰め言葉だ。 でも、私の声と手の温もりが届いたのか、アレクセイ様の呼吸が次第に落ち着いていく。 歪んでいた表情が解け、再び穏やかな寝顔に戻る。 握りしめた手が、私の手を強く握り返してくる。


「……リアナ……」


寝言で名前を呼ばれた。 ドキリとして、心臓が跳ねる。 ただの夢だろう。でも、その声があまりにも切実で、愛おしそうに響いたから。


(……参ったな。これじゃあ、仕事にならない)


私は赤くなりそうな顔を伏せ、捕まえられた片手はそのままで、もう片方の手だけで不器用に帳簿のページをめくった。 この「手当」の時間は、私の時給には含まれない。完全なサービス残業だ。 でも、不思議と損をした気分にはならなかった。


どれくらいの時間が経っただろうか。

不意に、握られていた手に力がこもった。


「……起きているなら、手を離してください」


「嫌だ」


即答だった。 見ると、アレクセイ様が目を開けていた。 そのアメジストの瞳は、寝起き特有の潤みを帯びていて、私をじっと見上げていた。


「……悪夢を見ていた」


「そうみたいですね。随分とうなされていました」


「暗くて、寒い場所で……誰もいない夢だ。だが」


彼は私の手を自分の頬に押し当て、猫のように目を細めた。


「君が呼ぶ声が聞こえた。君の手が、私を連れ戻してくれた」


「ただ髪を撫でていただけです。子供騙しの民間療法ですよ」


「効能は抜群だった。……君は魔法使いか、やはり」


アレクセイ様は身を起こすと、カーテンの隙間から漏れる光の中で、私を眩しそうに見つめた。

その眼差しは、昨夜のダンスの時よりもさらに深く、重い熱を帯びていた。


「リアナ」


「はい」


「ここは私の聖域だ。誰にも教えたことはない」


「でしょうね。こんな狭い場所、誰も好んで入りません」


「……ここを、君との『共有資産』にしよう」


彼は私の手首に口づけを落とした。 脈打つ血管の上。生命の音が響く場所に、誓いの印を刻むように。


「私が辛い時、苦しい時……また、ここで私を撫でてくれるか? 報酬は言い値で払う」


「……」


ずるい。 そんな弱々しい顔で、そんな契約を持ちかけられたら、断れるはずがない。 私は大きなため息をつき、眼鏡の位置を直した。


「……一回につき、特別手当千ベル。それと、私の肩もみ権一回分でどうですか?」


「安いな。……契約成立だ」


アレクセイ様がくしゃりと笑った。

その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも人間らしくて、私の胸を不覚にも高鳴らせた。


「さて、仕事に戻るか。……充電は完了した」


彼がカーテンを開け放つ。 眩しい光が差し込み、秘密の時間は終わりを告げた。

私たちは「上司と部下」の顔に戻り、執務室という戦場へ戻っていく。


だが、この時の私はまだ知らなかった。

このカーテンの裏で育んだささやかな温もりが、間もなく訪れる冷酷な事件に立ち向かうための、唯一の武器になることを。


私がデスクに戻り、先ほどの帳簿──初出勤の日に樹海の底から見つけたあの「黒い裏帳簿」を開いた時。 私の「不正感知」スキルが、強烈な違和感を訴えた。


「……あれ?」


ページの隅。 昨日まではなかったはずの、極小のインクの染み。 そして、書類の並び順が、わずか一ミリだけズレている。


(誰か……触った?)


私とアレクセイ様しか知らないはずのこの帳簿に、第三者が触れた痕跡。 背筋に冷たいものが走る。 聖域の外には、見えない悪意がすぐそこまで迫っていた。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

感想や評価・ブックマーク、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ