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第86話「日常への帰還、アレクのお喋り」

「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」



王都に戻ってから、一週間が過ぎた。 北の領地での「温泉リゾート開発」という大冒険を経て、私たちアインスワース家は、再び元の生活リズムを取り戻しつつあった。


朝の光が差し込むダイニング。 湯気が立つコーヒーの香りと、焼きたてのパンの匂い。

窓の外からは、王都の賑やかな喧騒が微かに聞こえてくる。


「……平和だな」


アレクセイさんがコーヒーカップを置き、しみじみと呟いた。

彼は今、宰相としての激務に向かう前の、束の間のリラックスタイムを過ごしている。

ただし、その膝の上には、相変わらず元気いっぱいのアレク(二歳)が乗っかっているのだが。


「あう! あーう!(パン!)」


「はいはい、アレク。パンだな。ほら、アーン」


アレクセイさんは慣れた手つきでパンをちぎり、息子の口に運んでいる。

かつて「氷の宰相」と呼ばれ、触れるもの全てを凍らせると恐れられた男の姿は、そこにはない。

あるのは、デレデレに甘やかされた「親バカの宰相」の姿だけだ。


「……アレクセイさん。ネクタイが曲がっていますよ」


「おっと。……アレクが暴れるものでな」


私は苦笑しながら、彼のもとへ歩み寄り、シルクのネクタイを整えた。

ゼノンさんが領地に残ったことで、朝の育児戦争における戦力は一名減ってしまった。

けれど、私たちは以前よりも連携が取れるようになっている。

夫がアレクにご飯を食べさせ、その間に私が身支度を整え、出勤前の最終チェックをする。

完璧な役割分担オペレーションだ。


「リアナ。……君も今日から委員会か?」


「ええ。留守中に溜まった決裁書類が山積みですので。残業はしませんが、定時までは戦場です」


「無理はするなよ。君が倒れたら、我が家の国家予算が崩壊する」


アレクセイさんは私の頬に軽くキスをした。

その何気ない仕草に、まだ少しだけドキッとしてしまう自分がいるのは、計算外の変数だ。


「行ってらっしゃい、あなた」


「行ってくる」


その日の夕方。

仕事を終え、私はアレクを迎えにいくために、王宮内に新設させた職員用託児所へと向かった。


「あら、アインスワース様。アレクちゃんなら、先ほど宰相閣下がお迎えにいらっしゃいましたよ?」


「……え? 夫が?」


「はい。『今日は会議が早く終わったから、私が連れて帰る!』と、スキップしそうな勢いで……」


保母さんが微笑ましそうと若干の引き気味に教えてくれた。 なるほど。

あの仕事人間だった氷の宰相が、息子のために定時ダッシュを決めたらしい。


私は苦笑しながら公邸へと戻った。


「ただいまー」


リビングのドアを開けると、そこには予想通りの光景が広がっていた。

スーツの上着を脱ぎ捨てたアレクセイさんが、

床に這いつくばり、積み木で作ったお城の前に寝転がって、アレクと同じ目線で遊んでいたのだ。


「おお、おかえりリアナ。……見てくれ。アレクが『城壁』を作ったぞ」


「あら。……また一段と高く積めましたね」


「私が教えた防衛ラインの基礎通りだ。才能がある」


アレクセイさんは誇らしげだ。 アレクは最近、魔法だけでなく、手先も器用になってきた。

積み木をただ積むだけでなく、バランスを考え、構造物を作ろうとする意志が見える。


そして何より──。


「マンマ!」


帰ってきた私を見つけたアレクが、積み木を放り出して駆け寄ってきた。

よちよち歩きではなく、しっかりとした足取りだ。 私は膝をつき、愛しい息子を抱き止めた。


「ただいま、アレク。……いい子にしていましたか?」


「マンマ! マンマ!」


「ふふ。ご飯のことか、私のことか、まだ判別がつきませんね」


アレクは一歳半を過ぎた頃から、喃語なんごではない、意味のある単語を発するようになっていた。 とはいえ、まだ「マンマ」や「ブーブ(馬車)」といった幼児語が中心だ。

しかし、その発音は日増しに明瞭になり、意思疎通ができるようになりつつある。


「……羨ましいな」


アレクセイさんが、しょぼんとした顔で起き上がった。


「私にはまだ『パパ』と言ってくれない。『ダダ』とか『パ』とか、惜しいところまでは行くのだが……」


「焦らなくても、そのうち言いますよ。貴方がそんなに甘やかしているのですから、最初の一言はきっと貴方への愛の言葉です」


「そうだろうか? よし、アレク。特訓だ」


アレクセイさんはアレクを抱き上げ、真剣な顔で見つめ合った。


「いいか、アレク。私の口元を見てみろ。……パ、パ」


「……ぱ?」


「そうだ! その調子だ! ……パ、パ!」


「……ぱ、ぷ!」


アレクはキャッキャと笑い、アレクセイさんの鼻を掴んだ。 微笑ましい光景だ。

私はキッチンへ向かい、夕食の準備を始めた。

今日のメニューは、領地から送られてきた新鮮な野菜を使ったシチューだ。


しばらくして、キッチンからリビングの様子を覗くと、二人はまだ特訓を続けていた。


「パパ。……さあ、言ってみろ。パパだ」


「……あーう」


「違う。パパは、君に一番高いおもちゃを買ってくれる人だぞ?」


「……?」


「パパと言えば、空も飛べるし、雪も降らせるぞ?」


物で釣ろうとしている。 教育上よろしくないが、必死な夫の姿が可笑しくて、私は黙って見守ることにした。


その時だった。


「……パ……」


アレクの口から、微かな音が漏れた。 アレクセイさんが息を飲む。


「……言ったか? 今、言おうとしたか!?」


「パ……パ……」


「そうだ! あと少しだ! リアナ、来てくれ! 記録用魔道具ビデオの準備を!」


アレクセイさんが大慌てで私を呼ぶ。

私も手を拭きながら、リビングへと急いだ。

ついにその瞬間が来るのか。 初めて呼ぶ、父親の名前。

それは親子の絆を証明する、記念すべき一瞬──。


アレクは大きく息を吸い込み、アレクセイさんの顔をじっと見つめ、そしてハッキリと言った。


「……パ……ペイ!」


「…………はい?」


時が止まった。 アレクセイさんの笑顔が凍りついた。 私も耳を疑った。

今、この子はなんと言った? パパ? いいえ、違う。確かに「ペイ」と聞こえた。


「……ペイ? ……Pay(支払い)?」


私が恐る恐る翻訳すると、アレクはニカッと笑い、小さな手を差し出した。


「おかね! ペイ!」


「……っ!?」


衝撃が走った。 アレクは父親を呼んだのではない。


「支払い(Pay)」あるいは「お金」を要求したのだ。 それも、満面の笑みで。


「な、なぜだ……!? なぜ『パパ』より先に『支払い』なんだ!?」


アレクセイさんが膝から崩れ落ちた。

私は……正直に言おう。

少し心当たりがあった。


「あー……。もしかして、私が仕事中に『決裁ペイメント』の話をしていたのを、聞いていたのかもしれません」


「職場環境か!?」


「あるいは……マリーが『お姉ちゃん、これ経費でペイできる?』と聞いていたのを真似したのかも……」


「マリーの英才教育か!?」


アレクセイさんは頭を抱えた。感動の「パパ」呼びイベントは、まさかの「金銭要求」というオチで幕を閉じた。 アインスワース家の長男として、あまりにも相応しすぎる初語?である。


「あう……?」


アレクが心配そうに、うなだれるアレクセイさんの顔を覗き込んだ。

父親が落ち込んでいるのを察したのだろうか。

彼は小さな手を伸ばし、夫の頭をペチペチと叩いた。


「……いー、いー(よしよし)」


「……!」


言葉にはなっていない。 けれど、その仕草は明らかに私がいつも彼にしてあげている「慰め」の模倣だった。 その優しさに、アレクセイさんは瞬時に復活した。


「ああ、泣いてないぞ! アレク! ……今、頭を撫でてくれたのか!? パパを慰めてくれたのか!?」


「あう!(うん!)」


「天才か! 優しさの天才か!!」


アレクセイさんはアレクを抱きしめ、頬ずりをした。 「パパ」とは呼んでもらえなかったが、息子の愛は伝わったようだ。


「……単純ですね」


私は呆れつつも、安堵の息を吐いた。 言葉の意味はともかく、この子は確実に成長している。

親の背中を見て、周りの大人の言葉を聞いて、少しずつ世界を理解しようとしているのだ。

たとえその第一歩が「お金」だったとしても、それは彼がこの家の子である証拠だ。


「よし、アレク。……次は『ママ』と『愛してる』を練習しよう。……『お金』はその後でいいからな」


「ペイ! ペイ!」


「将来が楽しみなような、恐ろしいような」


私はシチューの鍋をかき混ぜながら、苦笑した。

窓の外には星が瞬いている。

領地での冒険のような派手さはないけれど、この騒がしくも温かい日常こそが、私たちが守り抜いた「宝物」なのだ。


アレクはこれからも、たくさんの言葉を覚え、たくさんの魔法を使い、私たちを驚かせてくれるだろう。

そして、いつか本当に「お金」の意味を理解し、それを正しく使える大人になってほしい。


「さあ、ご飯ですよ。手を洗って」


「はーい!」


「あーい!」


二人の声が重なった。 幸せの音がした。


時計の針が進む。 季節が巡る。

アインスワース家の物語は、次の章へと進んでいく。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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