第85話「賢者の隠居、新しい管理人」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
「……本気、なのですか?」
出発の朝。 アインスワース温泉郷のエントランスで、私は改めてゼノンさんに問いかけた。 彼は荷物をまとめるどころか、湯上がりの浴衣姿で、朝から冷えた牛乳を腰に手を当てて飲んでいる。
「うむ。本気も本気、大マジじゃよ」
ゼノンさんは牛乳の白い髭を拭い、満足げに息を吐いた。
「王都は人が多くて騒がしい。それに比べてここは良い。空気は美味いし、飯も美味い。何より、この『ドーム』の魔力調整は、並大抵の魔術師には務まらんじゃろ?」
彼は、頭上を覆う巨大な氷の天井を見上げた。
確かにその通りだ。 アレクセイさんが作ったこのドームは、常に一定の魔力を供給し、微調整しなければ維持できない。 ゼノンさんが「管理人」として常駐してくれるなら、技術的な不安はゼロになる。
「ですが……寂しくなります」
私が本音を漏らすと、ゼノンさんはニカッと笑った。
「何を言うか。今生の別れじゃあるまいし。それにリアナ、計算してみろ。わしの『ツケ』はもう残っとらんじゃろ?」
「あ……」
私は手帳を開いた。
定食屋での未払い金、五百八十ベル。
それに対し、ベビーシッターとしての労働、
リゾート建設時の魔力提供、そして今回の騒動での護衛任務。 私の厳密な査定に基づいても──。
「……はい。完済どころか、大幅な『払いすぎ』です。本来なら、私たちが貴方に高額な報酬をお支払いしなければならない状態です」
「フォッフォッフォ! ならば、その報酬の代わりに、ここの『永年無料利用権』と『酒の飲み放題』をもらうとしよう。……それで手打ちでいいか?」
彼は金貨を受け取ろうとはしなかった。
どこまでも、欲のない──いや、自分の好きなものだけに正直な人だ。
「……分かりました。契約成立です、ゼノンさん」
私たちは固く握手を交わした。
これで彼は、アインスワース家の居候から、アインスワース温泉郷の「名誉管理人」へと昇格したのだ。
「じっじ! じっじ!」
馬車に乗り込む直前。 状況を理解したのか、していないのか、アレクがゼノンさんの足元にまとわりついた。 小さな手を伸ばし、彼のローブの裾を握りしめている。
「……これこれ、アレク。泣くでない」
ゼノンさんはしゃがみ込み、シワだらけの手でアレクの頭を撫でた。
「わしがいなくても、お主には最強のパパと、もっと強いママがおる。それに、お主自身もすぐに大きくなる」
「あーう……」
「いい子にしておれよ。次に会う時までに、新しい魔法の一つでも覚えておくのじゃぞ」
ゼノンさんは懐から、小さな木彫りの人形を取り出した。 彼が暇つぶしに彫っていた、下手くそだけど温かみのある、熊の人形だ。
「餞別じゃ。……達者でな」
「……!」
アレクは人形を大事そうに抱きしめ、コクンと頷いた。
「ゼノン殿。息子を守ってくれて、本当にありがとう」
「ふん。礼には及ばん。酒を送るのを忘れるなよ、宰相閣下」
アレクセイさんとゼノンさんは、男同士の短い視線を交わした。言葉以上の信頼が、そこにはあった。
「では、行きます! ……マリー、レオ、乗って!」
「うん! バイバイ、おじいちゃん!」
「ゼノンさん、また魔法の稽古つけてくださいね!」
子供たちが手を振り、馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外。湯煙の向こうで、杖をついて手を振る小柄な老人の姿が、雪景色の中に小さくなっていった。
数日後。王都。 長い旅を終え、私たちは懐かしい公邸へと帰り着いた。
「ただいまー!」
「……ふぅ。やっぱり我が家が一番だな」
アレクセイさんが荷物を置き、大きく伸びをする。 部屋の中は、出発した時のまま。
しかし、いつもソファの隅で昼寝をしていたり、勝手にお菓子を食べていたゼノンさんの姿はない。
シーンと静まり返ったリビング。
ほんの少し前まで、あんなに騒がしかったのが嘘のようだ。
「……少し、広くなりましたね」
私がポツリと言うと、アレクセイさんが後ろから肩を抱いた。
「ああ。……だが、すぐにまた騒がしくなるさ」
「え?」
「アレクが成長する。それに、マリーもレオもよく遊びに来る。……静寂など、束の間のことだ」
「あーう! (まんま!)」
その時、アレクがお腹を空かせて声を上げた。
感傷に浸る暇はないらしい。
私は眼鏡を押し上げ、母親の顔に戻った。
「そうですね。……さあ、日常の再開です。まずはアレクのご飯と、溜まっている予算委員会の書類を片付けないと!」
「おいおい、帰宅早々仕事か? まあ、君らしいが」
私たちは顔を見合わせて笑った。
リゾート開発というお祭りは終わった。
けれど、家族の物語は続いていく。
そして。 この何気ない日常の中で、アレクが「驚くべき成長」を見せる日が、もう目の前まで迫っていた。
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