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第8話「嫉妬の炎は氷より冷たい」

「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」



王宮の大広間は、光の洪水だった。天井には数千本の蝋燭を灯した巨大なシャンデリア。床は磨き抜かれた大理石。

そして、色とりどりのドレスを纏った貴族たちが、さざめく波のように揺れている。


(……電気代ならぬ蝋燭代だけで、一晩二十万ベル。あのキャビアの山は五十万ベル。給仕の人件費を含めると……)


私はアレクセイ様の腕に手を添えながら、会場の総資産価値を目算していた。 目が回るような金額だ。この一晩の予算で、スラム街の子供たち全員に靴を買ってあげられるだろう。やはり貴族社会というのは、効率の悪いシステムだ。


「リアナ。顔が怖いぞ。経費削減のことばかり考えているだろう」


「バレましたか。あのシャンデリア、蝋燭を一本間引いても照度は変わらないはずです」


「……今夜は仕事けいさんを忘れろと言ったはずだ。挨拶回りに行くぞ」


アレクセイ様は苦笑しつつ、私をエスコートして人混みの中へ進んでいく。 彼の登場に、会場の空気が華やいだのが分かった。 氷の宰相。若き最高権力者。そして、絶世の美男子。 令嬢たちの熱っぽい視線が、矢のように彼に突き刺さる。そしてその隣にいる「地味な眼鏡女」には、値踏みするような冷ややかな視線が向けられる。


「あら、あれが宰相閣下の新しい補佐官?」


「地味ねぇ。ドレスに着られているわ」


「でも、あのドレス……『シルヴァ・モード』の特注品よ。一体おいくらなのかしら」


ひそひそ話が聞こえるが、私は痛くも痒くもない。 私の価値は数字で決まる。他人の評価など、資産価値には影響しない。


「閣下、少し失礼します。あちらに財務大臣がいらしたので、先日の予算案の修正について詰めてきます」


「おい待て、今は……」


アレクセイ様が止める間もなく、私は彼の手を離し、人混みを縫って移動した。

仕事の話ができるなら、ダンスより有意義だ。


そう思って歩いていると、不意に声をかけられた。


「おや。美しい数式のようなステップで歩くお嬢さんだね」


振り返ると、エメラルド色の瞳をした優男が立っていた。 仕立ての良い燕尾服に、異国の言葉訛り。


「……数式のようなステップ、ですか?」


「ああ。君の歩き方には無駄がない。最短距離を、最小のエネルギーで移動している。実に合理的で美しい」


男はにっこりと笑い、大袈裟に一礼した。


「お初にお目にかかる。私は隣国ラ・メールの外交官、フェルディナンドだ。君のような聡明な女性が、壁の花になっているのは国家的損失だと思うのだが」


外交官。 その肩書きを聞いた瞬間、私の脳内電卓が弾かれた。 ラ・メール国は、我が国の主要な貿易相手国だ。特に海産物の輸入関税については、来月から再交渉が予定されている。 ここで外交官に良い印象を与えておけば、交渉のカードとして有利に働くかもしれない。 期待値メリットは大きい。


「初めまして、フェルディナンド様。宰相補佐官のリアナ・フォレストです」


「なんと、あのアインスワース公爵の補佐官か! どうりで知性を感じるわけだ。……どうだろう、

リアナ嬢。私と一曲、踊っていただけないかな? 貿易摩擦の解消について、ステップを踏みながら語り合いたい」


男が恭しく手を差し出す。 ダンス=外交交渉。

悪くない取引だ。 私はスカートの裾を掴み、お辞儀で応えようとした。


「喜んで──」


その手を、彼の手のひらに乗せようとした瞬間だった。


ゴオォッ……


風が吹いたわけではない。 なのに、会場の空気が一瞬にして「冬」になった。 肌を刺すような冷気。シャンデリアの炎が小さく揺れ、近くにいた令嬢が「きゃっ、寒い?」と肩を抱く。


私の目の前にいたフェルディナンド様の顔が引きつった。 彼が差し出した手の数センチ先、私の手との間に、見えない氷の壁が出現したかのように、彼は手を引っ込めた。


「……私の補佐官が、何か?」


背後から響いた声は、地獄の底から響いてくるように低く、そして甘美だった。 振り返るまでもない。 アレクセイ様だ。 でも、いつもの「営業スマイル」ではない。 能面のように表情を削ぎ落とし、ただ瞳だけが妖しく紫色に発光している。


「あ、アインスワース宰相閣下……」


「フェルディナンド殿。我が国の重要な『機密情報リアナ』に、許可なくアクセスするのは控えていただきたい」


アレクセイ様が私の腰に手を回し、ごく自然に、しかし強引に自分の方へ引き寄せた。 彼の身体から発せられる冷気が、ドレス越しに伝わってくる。


「き、機密情報? いえ、私はただ、彼女とダンスを……」


「彼女は多忙だ。脳内のリソースは全て、私のために使われている。君とのダンスに割くメモリの空き容量はない」


「は、はあ……?」


「それに、彼女のステップは君には難解すぎる。……彼女をリードできるのは、この世でオーナーだけだ」


アレクセイ様が外交官を睨みつける。

その視線の先で、可哀想な外交官の持つグラスの中のワインが、音を立てて凍りついた。

パキキッ。グラスに亀裂が入る。


「ヒッ……! し、失礼しましたァ!」


外交官は青ざめ、壊れたグラスを持って逃げ去っていった。 せっかくの外交チャンスが、物理的な氷結によって粉砕された。


「……閣下。あの方は重要な貿易相手です。無礼な態度は国益を損ないます」


「あの程度の男になびくほうが国益の損失だ。……行くぞ」


「どこへ?」


「ダンスだ。私の機嫌を損ねたペナルティとして、足が棒になるまで付き合ってもらう」


アレクセイ様は有無を言わせず、私をホールの中央へと連れ出した。 音楽が変わる。優雅なワルツ。 彼は私の手を取り、もう片方の手を腰に添える。その手つきは、先ほどの威圧感とは裏腹に、驚くほど繊細だった。


「……私を見ていろ」


ステップを踏み出しながら、彼が耳元で囁く。


「周りを見るな。他の男の値を踏むな。君の瞳のレンズには、私だけを映しておけばいい」


「視界が狭くなると、障害物にぶつかるリスクが高まります」


「私が誘導リードする。君は何も考えず、私に身を預ければいいんだ」


アレクセイ様のリードは完璧だった。 私の歩幅、体重移動、呼吸のタイミングまで全て計算し尽くされているかのように、私の身体が勝手に動く。 まるで、私と彼が一つの数式で繋がれているような感覚。


(……悔しいけれど、踊りやすい)


私は彼の胸元を見上げた。 至近距離にあるアメジストの瞳が、熱っぽく揺れている。 その瞳に見つめられると、得意の暗算ができなくなる。 心臓の鼓動がリズムを無視して早鐘を打ち、思考回路にノイズが走る。


「……閣下。心拍数が異常です。不整脈かもしれません」


「正常だ。私も同じだからな」


「え?」


「君が他の男の手を取ろうとした時……私の心臓は止まるかと思った。怒りでな」


彼は私の腰を引き寄せ、身体を密着させる。


「リアナ。君は私の管理下にある。……契約書に『独占権』の条項を追加しておけばよかったな」


「そんな独占禁止法に違反するような契約、無効です」


「いいや、有効にする。私が法だ」


滅茶苦茶な理屈だ。 でも、その強引な言葉が、

なぜか嫌ではない。 むしろ、胸の奥が甘く疼くような、奇妙な感覚に襲われる。 これは計算外だ。私の人生の家計簿に、こんな感情の項目はないはずなのに。


私たちは音楽が終わるまで、誰の目も気にせず踊り続けた――もっとも、実際には全会場の視線が集まっていたのだが。

「氷の宰相」が、ただ一人の女性を溶かすような熱情で見つめていたその光景は、翌日の社交界新聞の一面を飾ることになる。


だが、光が強ければ、影もまた濃くなる。


会場の隅、柱の陰から、その様子をじっと見つめる視線があった。 グリーブス子爵の失脚により、利権を脅かされた派閥の貴族たちだ。


「……見たか。あのアインスワースが、あの女に骨抜きだ」


「ふん、ただの経理係かと思っていたが……。どうやら、宰相の『アキレス腱』はあそこにあるようだな」


「女を潰せば、宰相も崩れるか」


「ああ。……借金持ちの貧乏令嬢など、消す方法はいくらでもある」


男たちは濁ったワインを飲み干し、下卑た笑みを浮かべた。 華やかなワルツの旋律の裏で、私の運命を脅かす「負の計算式」が、静かに組み上がり始めていた。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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