第73話「賢者のベビーシッター、報酬は日替わり定食で」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
「……よし。離乳食のストック作り、完了。アレクの着替え、セット完了。……私の戦闘服、着用完了」
月曜日の朝。 私は鏡の前で、久しぶりに袖を通した紺色のスーツの襟を正した。
産休・育休を経て、今日はいよいよ私の「職場復帰」の日だ。予算委員会の局長補佐として、国の財布の紐を締め直さなければならない。
「リアナ。……本当に連れて行くのか?」
背後から、アレクセイさんがこの世の終わりのような顔で声をかけてきた。
その腕の中には、まだ眠そうな目をこすっている息子のアレク一歳がいる。
右目が紫、左目が黄金色のオッドアイ。
天使のような顔をしているが、その中身は──。
「当然です。普通のシッターでは持ちませんから」
「だが、アレクは『歩く魔法災害』だぞ? 昨日もくしゃみ一つでリビングを花畑に変えたばかりだ」
アレクセイさんの懸念はもっともだ。 我が子アレクサンダーは、規格外の魔力を持っている。
感情が高ぶれば物が浮き、泣けば涙がダイヤモンドになり、笑えば謎の光が溢れる。
先週、試しに雇ったベテラン乳母は、アレクが積み木を空中に浮遊させて「ドミノ倒し」をしたのを見て、「お化け屋敷ですわ!」と悲鳴を上げて逃げ帰ってしまった。
「大丈夫です。……今日は『特別措置』として、アレクも会議室に入れます」
「正気か!? 国家機密のど真ん中に幼児を!?」
「アレクセイさん、貴方も協力してくださいね。防御結界で、彼のイタズラを未然に防ぐのです」
「む……。アレクと一日中いられるのは嬉しいが……胃が痛くなりそうだ」
不安そうな夫と、何も知らずに「きゃっきゃ!」と笑う息子を連れ、私たちは王宮へと向かった。
「──以上が、来年度の防衛費の概算要求です」
王宮の大会議室。 張り詰めた空気の中、私は演台に立ち、冷徹に数字を読み上げていた。 久しぶりの仕事。 数字の羅列を見るだけで、脳内物質が分泌されるのを感じる。 やはり、私は根っからの「計算機」なのだ。
「……異議あり。アインスワース夫人」
軍務大臣が手を挙げた。 彼は私の復帰を快く思っていない「浪費派」の筆頭だ。
「北方の警備強化費が削減されているようだが? これでは我が国の安全が……」
「削減ではありません。効率化です。……魔導監視システムを導入すれば、人件費は三割カットできます。浮いた予算は兵士の食料改善に回すべきかと」
私が淡々と反論していた、その時だった。
「あーう!」
静寂な会議室に、場違いに可愛い声が響いた。
視線が一斉に集まる。 会議室の隅。 アレクセイさんの膝の上に座らされていたアレクが、退屈そうに足をバタつかせている。
「しーっ。アレク、今は大事な会議中だ。静かにしていなさい」
「ぶー!」
アレクはパパの注意が不服だったのか、頬を膨らませた。
そして、目の前にあった「重要機密書類」の山に、小さな手を伸ばした。
パチンッ。
アレクが指を鳴らす真似をする。 その瞬間。
バササササッ……!!
「なっ!?」
「書類が!?」
山積みになっていた書類が、一斉に宙に舞い上がった。 それだけではない。
アレクの無邪気な魔力が作用し、数百枚の書類が次々と白い鳥──折り鶴のような形に変形し、会議室内を飛び回り始めたのだ。
「うわぁっ! 予算案が飛んでいく!」
「捕まえろ! それは極秘の軍事データだ!」
「キャッキャッ!」
アレクは大喜びで手を叩く。 彼が笑うたびに、
キラキラとした宝石の粒子が舞い散り、厳粛な会議室は「予算審議」どころか「ファンタジー映画のクライマックス」のような惨状と化した。
「あ、アレク! ダメだ! 元に戻しなさい!」
アレクセイさんが慌てて魔法を解除しようとするが、アレクの魔力は純度が高すぎて、大人の制御をすり抜けてしまう。
「……はぁ」
私は演台の上で、額を押さえた。 計算ミスだ。
一歳児の「退屈」という変数と、夫の「親バカによる甘さ」を甘く見積もっていた。
「……休憩にします! 総員、書類の捕獲を優先してください! 一羽たりとも逃がすな!」
私の号令で、威厳ある大臣たちが虫取り網を持って書類を追いかけ回すという、前代未聞の光景が展開された。
夕方。 公邸に戻った私たちは、ソファーにぐったりと倒れ込んでいた。
「……疲れた」
「……面目ない。私の結界を突き破るとは……」
私のスーツは鳥になった書類を追いかけたせいでヨレヨレになり、アレクセイさんはアレクを抱っこし続けて腕がプルプルしている。 当のアレクだけは、たっぷり遊んで満足したのか、ベビーベッドでスヤスヤと寝息を立てていた。
「……結論が出ました」
私は天井を見上げたまま言った。
「職場に連れて行くのは、生産性を著しく低下させます。……やはり、専任のシッターが必要です」
「だが、誰がやる? アレクの魔力に耐え、私の結界以上の防御力を持ち、かつ君の教育方針を理解できる人物など……」
「……いるかのう?」
突然、第三者の声がした。 ビクッとして起き上がると、いつの間にか開いていたテラスの窓枠に、
一人の小柄な影が腰掛けていた。
樫の木の杖。フードの下から覗く、歯の抜けたニカッとした笑顔。
「ゼ、ゼノンさん!?」
そこにいたのは、伝説の大賢者にして、定食屋のツケ踏み倒し常連客・ゼノンさんだった。
「フォッフォッフォ。風の噂を聞いて見に来たぞ。……なんでも、『面白い赤ん坊』が生まれたそうじゃな」
ゼノンさんは杖で床をトンと突き、ベビーベッドで眠るアレクを覗き込んだ。
「ほう……。オッドアイに、物質変換魔法か。こりゃあ、わしの若い頃そっくりな『悪戯の才能』じゃ」
「……不吉なことを言わないでください」
「どうじゃ、リアナ。わしが暇つぶしに、この子の『家庭教師』をしてやろうか?」
「え?」
私とアレクセイさんは顔を見合わせた。
伝説の大賢者が、ベビーシッター?
魔力の制御、知識の教育、そして何より──。
「……条件があります」
私は眼鏡をキラリと光らせ、即座に交渉に入った。
「定食屋の未払いツケと、今後発生する『日替わり定食』代。これを給与と相殺します。……現金支給はありません」
「フォッフォッフォ! 望むところじゃ! 毎日タダ飯が食えて、面白い赤子の相手ができるなら安いもんじゃ!」
「交渉成立ですね」
アレクセイさんが呆気にとられる横で、私とゼノンさんはガッチリと握手を交わした。 最強の魔力を持ちながら、コストパフォーマンスも最強の「賢者シッター」が誕生した瞬間だった。
一方その頃。 隣国ガレリア帝国の首都。 豪奢な執務室で、一人の男がワイングラスを傾けていた。
「……ほう。リアナ・アインスワースが職場復帰したか」
外交官、ヴィクトル・バレンタイン。 かつてアインスワース家への介入に失敗し、追い返された男だ。 だが、彼のエメラルドのような冷たい瞳は、まだ諦めの色を浮かべてはいなかった。
「個人の力で落とせないなら、国ごと締め上げるまでだ」
ヴィクトルは、デスクの上の地図にピンを突き立てた。
場所は──アインスワース家が治める、北方の領地。
「発動せよ。『対アインスワース領・経済封鎖』」
彼は薄く笑った。
「物流を止めろ。関税を上げろ。……ミルクの一滴も入らぬように干上がらせてやれ。さあ、どう出る? 稀代の計算機よ」
アインスワース家に、平穏な日常はまだ遠い。
賢者の助けを得て育児問題を解決した矢先、今度は国家規模の「経済戦争」が、静かに幕を開けようとしていた。
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