第70話「胎動は計算できない、命の神秘」
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妊娠四ヶ月目の夜。
公邸の執務室には、ペンを走らせる音と、暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いていた。
「リアナ。もう二十二時だ。そろそろ業務を終了しなさい」
ソファーで魔法関連の書物を読んでいたアレクセイさんが、心配そうに声をかけてきた。
「あと少しです。来年度の『王立保育園』の予算案だけチェックさせてください」
「君は働きすぎだ。医師からも『安定期に入ったとはいえ無理は禁物』と言われているだろう」
「分かっています。でも、この子が生まれる前に、保育士の給与ベースを上げておかないと……。優秀な人材を確保するための先行投資です」
私は大きくなったお腹をさすりながら、そろばんを弾いた。
お腹の膨らみは、服の上からでもはっきりと分かるようになってきた。
つわりも落ち着き、食欲も戻ってきたが、身体の重さは日に日に増している。
「……ふぅ。よし、計算完了」
私は最後の数字を記入し、ペンを置いた。
伸びをしようと背筋を伸ばした──その時だった。
……ポコッ。
「……ん?」
お腹の奥で、何かが弾けたような感覚があった。
痛みではない。
炭酸の泡が弾けるような、あるいは小さな魚が跳ねたような、微かな衝撃。
(ガスかしら? 今日は豆料理を食べたし)
私は冷静に分析した。 医学書によれば、初産婦が胎動を感じるのは妊娠五ヶ月以降が一般的だ。
今はまだ四ヶ月。 時期尚早だ。これは腸の蠕動運動か、子宮が大きくなることによる筋肉の痙攣である可能性が高い。
「どうした、リアナ? お腹が痛むのか?」
私が固まっているのを見て、アレクセイさんが飛んできた。
「いえ、痛みはありません。ただ、今変な感覚が……」
言いかけた時。
……ポコッ、グニュ。
今度は、はっきりと分かった。 内側から、誰かが「ここだよ」とノックしたのだ。 私の意思とは無関係に。 私の計算とは違うリズムで。
「……動いた」
「えっ?」
「アレクセイさん、手を。……早く!」
私は彼の手を掴み、自分のお腹に押し当てた。
アレクセイさんは驚いたように目を丸くし、息を止めて集中する。
シン……と静まり返る部屋。 数秒が、永遠のように長く感じられた。
気のせいだったのだろうか。やっぱりただのガスだったのか。そう思いかけた瞬間。
ドンッ!
「──ッ!?」
アレクセイさんの手が、ビクリと跳ねた。
今度は「ポコッ」なんて可愛いものじゃない。
元気なキックが、パパの手のひらを直撃したのだ。
「……あ、ああ……」
アレクセイさんが、信じられないものを見るような目で、私のお腹を見つめた。
「蹴った……。今、確かに……私を蹴ったぞ」
「はい。……やっぱり、そうですよね」
「痛くないか!?」
「いいえ。……くすぐったくて、変な感じです」
私はお腹に手を重ねた。 涙が、自然と溢れてきた。 妊娠が分かった時も嬉しかったけれど、それは「検査結果」というデータに対する喜びだった。
でも、これは違う。ここに「命」があるという、圧倒的な質量を持った事実だ。
「……計算できませんね」
私が涙声で呟くと、アレクセイさんは震える声で尋ねた。
「計算?」
「はい。……まだ四ヶ月ですよ? こんなに早く、こんなに力強く動くなんて。医学書の平均値からも、私の予測からも外れています」
私は涙を拭い、微笑んだ。
「この子は、私の計算機では測れない『規格外』みたいです」
「……ああ。そうだな」
アレクセイさんは、慈しむように私のお腹に頬を寄せた。
「私の魔力と、君の生命力……そして何より、私たちに早く会いたいという『意志』が、この子を動かしているんだろう」
彼は優しく語りかけた。
「聞こえるか、我が子よ。パパだぞ。いいキックだった。将来は騎士団長か? 」
お腹の赤ちゃんが、返事をするように ポコン と動く。
「ふふ。……元気すぎて、夜も眠れなくなりそうです」
「構わないさ。君が眠れない夜は、私がずっと話しかけてなだめてやる」
アレクセイさんは私を抱き寄せ、お腹ごと包み込んだ。 二人の体温と、その間で脈打つ小さな命。
それは、どんなに高価な宝石よりも温かく、どんなに複雑な数式よりも美しい「神秘」だった。
ああ、幸せだ。 この瞬間が、永遠に続けばいいのに。
そう思った、その時だった。
ガタガタガタガタッ……!!
突然、執務室の本棚や、机の上のペン立てが小刻みに震え出した。
「……地震?」
「いや、違う!」
アレクセイさんが鋭い目つきで周囲を見回す。
地震のような地鳴りはない。 震えているのは、
部屋の中にある「小物」だけだ。 まるで、見えない力が部屋全体を揺さぶっているような──。
フワッ……
「えっ!?」
私の目の前で、机の上に置いてあった「そろばん」が、ふわりと宙に浮いた。
それだけではない。 アレクセイさんが読んでいた本も、インク瓶も、重力を無視して空中に浮かび上がっている。
「ポルターガイスト……!?」
「まさか、幽霊!?」
「違う、リアナ! お腹だ!」
アレクセイさんが叫んだ。 見ると、私のお腹が淡い光を放ち、そこから微弱な、しかし奔放な魔力の波紋が広がっていた。
「……胎動に合わせて、魔力が漏れ出しているんだ!」
「ええっ!? お腹の中から魔法を使っているんですか!?」
「なんてことだ……。まだ生まれてもいないのに、無意識魔法を使うとは……」
ガシャン!!
浮いていた花瓶が落ちて割れた。 そろばんは天井でカチャカチャと鳴り響いている。 感動的な胎動のシーンから一転、執務室はパニック映画のような惨状になりつつあった。
「あ、アレクセイさん! 止めてください!」
「無理だ! 外部からの干渉は赤ちゃんに負担がかかる! ……あの子自身が落ち着くのを待つしかない!」
「そんな! このままじゃ部屋がめちゃくちゃに……!」
その時、お腹の中で グルル…… という音が聞こえた気がした。
そして、宙に浮いたインク瓶や羽ペンが、ある一点に向かって飛んでいく。
それは──キッチンの方角だった。
「……まさか」
私は嫌な予感がして、呟いた。
「この子……お腹が空いているんじゃ……?」
計算外の胎動。 そして、計算外の魔力暴走。
どうやら私たちのアインスワース家には、想像を遥かに超える「大物」が生まれようとしているらしい。
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