第7話「高級ドレスより、丈夫な帳簿をください」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
「……閣下。これは、何の嫌がらせですか?」
目の前に置かれた巨大な箱を前に、私は眉間の皺を揉みほぐした。 箱には、王都で最も格式高いオートクチュール店『シルヴァ・モード』の箔押しロゴが輝いている。 嫌な予感しかしない。
私の「浪費感知センサー」が警報音を鳴り響かせている。
「嫌がらせとは心外だな。これは業務命令に必要な『装備品』だ」
アレクセイ様は優雅に脚を組み、顎で箱をしゃくった。
「今夜、王宮で開かれる建国記念の夜会がある。全貴族が参加する公式行事だ。私の補佐官である君も、当然同伴してもらう」
「同伴……。残業手当は出ますか?」
「出る。深夜割増でな。さあ、開けてみろ」
私は恐る恐る箱のリボンを解いた。
蓋を開ける。薄紙をめくる。
そこには、目がくらむような光景が広がっていた。
深いミッドナイトブルーのシルク。
ふんだんにあしらわれた銀糸の刺繍。
そして、夜空の星のように散りばめられた、本物のダイヤモンドの粒。 美しい。息を呑むほどに美しいドレスだ。 だが、私の視線はドレスの美しさではなく、箱の底に落ちていた「納品書」に釘付けになった。
「いち、じゅう、ひゃく、せん……」
ゼロの数を数える。 数え直す。
何度見ても、桁が変わらない。
「……さんびゃく、まん、ベル?」
三百万ベル。
庶民の年収を超え、我が家の現在の全財産(借金除く)の五百倍にあたる金額。
それが、たった一晩着るだけの布切れの値段?
「うっ……!」
視界が暗転した。
脳内の家計簿が炎上し、計算機が爆発音を上げた。
「おい、リアナ!? どうした!」
アレクセイ様の慌てた声が遠く聞こえる。
私はフラフラとデスクに手をつき、青ざめた顔で彼を睨みつけた。
「か、閣下……正気ですか? このドレス一着で、ジャガイモが何トン買えると思っているんですか!?」
「ジャガイモ換算はやめろ。これは宰相のパートナーとして恥ずかしくない最低限の品格だ」
「品格で腹は膨れません! 即刻返品してください! クーリングオフ期間内なら全額返ってきます!」
「返品などしない。それは君のために仕立てさせた特注品だ」
「特注!? 尚更悪いじゃないですか! ならば布面積を減らしてください! 袖と裾を切り詰めれば、二十万ベルくらいは安くなるはずです!」
「やめろ! 貧乏くさいリメイクをするな!」
アレクセイ様が頭を抱えた。
私はドレスを箱に戻し、蓋を閉めようと必死になる。
「いりません、こんな高価な布! 汚したらクリーニング代だけで破産します! どうしても着ろと言うなら、私が実家から持ってきた『勝負服(母のお下がりの十年前のデザイン)』を着ますから!」
「それが一番駄目だと言っているんだ! ……はぁ、全く。君という女は……」
アレクセイ様は深いため息をつくと、立ち上がって私の手首を掴んだ。
「いいか、これは投資だ。私が連れる女性が貧相な格好をしていれば、国の財政難が噂され、通貨の信用に関わる。国の信用を守るための三百万ベルだと思え」
「ぐっ……通貨の信用……」
経理係として、その理屈には弱い。
国のトップの隣に立つ人間がボロを着ていれば、確かに市場心理に悪影響を与える可能性がある。 私は唇を噛み締め、涙目で箱を抱きしめた。
「……分かりました。着ます。着ますが……このドレスの減価償却が終わるまで、百年くらい着倒しますからね! パジャマにも雑巾にもして、繊維の一本まで使い切りますから!」
「……好きにしろ。ただし、雑巾にするのは私が死んでからにしてくれ」
数時間後。 王宮の更衣室で、私はその「三百万ベルの布」に袖を通した。 専属の侍女たちによって髪を結い上げられ、薄化粧を施される。
鏡の中に映っていたのは、いつもの地味な眼鏡女ではなく──自分でも驚くほど見知らぬ、貴族の令嬢だった。
「……素材が良いと、中身まで補正されるのね。恐るべし資本主義」
眼鏡は外そうとしたが、アレクセイ様の「眼鏡がないと他の男に顔を見られる」という謎の命令により、かけたままだ。 それでも、ドレスの深い青色が私の瞳の色を引き立て、銀糸の刺繍が肌の白さを際立たせていた。
恐る恐る、アレクセイ様の待つ控え室へ向かう。
扉を開けると、正装に身を包んだ彼が窓際に立っていた。 燕尾服を完璧に着こなしたその姿は、絵画から抜け出してきた王子様のようで、直視すると目が潰れそうだ。
「……お待たせしました」
私が声をかけると、彼が振り返った。
その紫の瞳が、私を捉えて大きく見開かれる。
「…………」
無言。 沈黙が痛い。やっぱり眼鏡が変だったか?
それとも「着せられている感」がすごいのか?
「あ、あの、変でしょうか? やはり袖を切って……」
「……いや」
アレクセイ様が、掠れた声で遮った。
彼はゆっくりと近づいてくると、私の手を取り、
熱っぽい視線で頭のてっぺんから爪先までを舐めるように見た。
「……計算外だ」
「え?」
「三百万ベルなど、安すぎた。君の価値に比べれば、タダ同然だ」
「また訳のわからないインフレを起こさないでください」
私が呆れていると、ふと、彼の手首に違和感を覚えた。 彼が身につけている最高級のカフスボタン。
その片方の糸が緩み、今にも取れそうになっていたのだ。
「閣下、ストップ。動かないで」
「ん? どうした」
「カフスが取れかけています。このまま会場に行けば、三秒で紛失しますよ」
「ああ、本当だ。……侍従を呼ぼう」
「待ってください。侍従を呼んで待つ時間がもったいない」
私はドレスの隠しポケット(自分で縫い付けた)から、携帯用ソーイングセットを取り出した。
いつでもどこでも服を直せるよう、常備している貧乏人の嗜みだ。
「私がやります。手を出してください」
「……ここでか?」
「はい。三十秒で終わらせます」
私はアレクセイ様の手首を掴み、慣れた手つきで針に糸を通した。 チク、チク、と素早く針を動かす。
彼の体温が、指先を通じて伝わってくる。
最高級の香水の匂いが、鼻先をくすぐる。
(……近い)
作業のために顔を近づけているせいで、彼の吐息が私の髪にかかる。 ふと見上げると、アレクセイ様が私をじっと見下ろしていた。 その眼差しが、妙に優しくて、熱くて、どうしようもなく甘い。
「……君は、何でもできるんだな」
「貧乏生活が長いですから。自分のことは自分でやらないと、生きていけません」
「私の服を直したのは、君が初めてだ」
「でしょうね。普通は捨てて買い替えるでしょうから」
私は最後の結び目を作り、糸をプチリと切った。
「はい、完了です。強めに縫っておいたので、当分は取れませんよ」
「……ありがとう」
アレクセイ様は、縫い付けられたボタンを指で愛おしそうに撫でた。
「不思議だな。王室御用達の職人が仕立てた時よりも、今のほうが……ずっと価値があるように感じる」
「それは単に、修理費が浮いたからお得に感じているだけです」
「……君は本当に、ロマンがないな」
彼は苦笑したが、その顔はどこか嬉しそうだった。 そして、不意に私の腰に手を回し、ぐいっと引き寄せた。
「きゃっ!?」
身体が密着する。
ドレス越しに、彼の腕の強さが伝わってくる。
「か、閣下! シワになります! クリーニング代が!」
「黙っていろ。これから戦場という名の夜会に行くんだ。私の側から離れるな」
アレクセイ様の腕に力がこもる。
それはエスコートというには強引すぎて、拘束に近い強さだった。 彼の独占欲が、物理的な圧力となって私に降り注ぐ。
「あの、閣下……」
「なんだ」
「腰、締めすぎです。もし私の肋骨が折れたら、労災はおりますか?」
私が真顔で尋ねると、アレクセイ様は一瞬きょとんとして、それから堪えきれないように吹き出した。
「くっ、ははは! 労災だと! ……ああ、もちろんだ。治療費も、休業補償も、慰謝料も、私の全財産で支払ってやる」
「全財産はいりません。規定通りの金額で結構です」
「可愛げのない計算機だ。……だが、悪くない」
彼は楽しそうに笑い、私の腰を抱いたまま歩き出した。 扉が開く。
光と音楽、そして無数の視線が渦巻く夜会へ。
「行くぞ、リアナ。今夜の君は、この会場のどの宝石よりも高くつく私の所有物だ。一瞬たりとも、目を離させてくれるなよ?」
耳元で囁かれたその言葉に、私の心拍数が計算外の数値に跳ね上がったことだけは、帳簿にはつけないでおこうと思った。
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