第6話「その丸眼鏡の下には、美貌と計算高い瞳」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
カチ、カチ、カチ……パチッ。
静寂に包まれた宰相執務室に、規則正しい音が響いている。 私がそろばんを弾く音と、アレクセイ様が書類にサインをする万年筆の音。 この二つの音は、まるで精密な二重奏のようにリズムを刻んでいた。
「……ふぅ」
私は小さく息を吐き、手元にあった熱い紅茶に口をつけた。 時刻は午後三時。集中力が途切れかける時間帯だ。 連日の激務に加え、昨夜の「節約弁当」作りで睡眠時間を削ったツケが回ってきたらしい。目がシパシパする。
(眼精疲労は作業効率を三〇%低下させるわ。一分間の休憩を入れて、パフォーマンスを回復させないと)
私はカップを置き、鼻すじに食い込んでいた重たい丸眼鏡を外した。 テープで補強されたツルが、カチャリと机に置かれる。 世界が一気に輪郭を失い、ぼんやりとした光の粒になる。
私は両手で目頭をぐりぐりと揉みほぐし、大きく瞬きをした。 そして、無防備に顔を上げ、ぼやけた視界の先──アレクセイ様がいるであろう方向へと顔を向けた。
「閣下。この『王立図書館・蔵書廃棄リスト』ですが、古紙回収業者への売却益が見積もりに含まれていません。紙資源のリサイクル相場は、先週から二ポイント上昇しているのですが」
問いかけるが、返事がない。
万年筆の走る音も止まっている。
「……閣下? 聞こえていますか?」
私は目を細めた。 ぼやけた視界の中で、銀色の光が微動だにせず、こちらを凝視しているのが分かった。 仕事に没頭しすぎて、私の声が届いていないのだろうか?
「もしもし、宰相閣下? 休憩中ですか? それともフリーズしましたか?」
私は椅子から立ち上がり、デスク越しに身を乗り出した。 眼鏡がないので距離感が掴めない。
彼の顔があるであろう位置まで、無遠慮に顔を近づける。
「……ッ」
鋭く息を呑む音が聞こえた。
「な、……なんだ、その顔は」
アレクセイ様の声が、いつになく上擦っている。 何か変な顔をしていただろうか?
目を揉んだから充血しているのかもしれない。
「すみません、目が疲れたので眼鏡を外していました。お見苦しいものをお見せして申し訳ありま……」
「動くな」
強い語調で制止された。 私はピタリと動きを止める。 至近距離。彼の吐息がかかるほどの距離だ。 視界はぼやけているけれど、彼が私を──いいえ、私の「瞳」を、穴が開くほど見つめている気配だけは肌で感じ取れた。
「……知らなかったな」
アレクセイ様が、独り言のように呟く。
「君のその眼鏡の下に、こんな凶器が隠されていたとは」
「凶器? 目つきが悪いということですか? よく言われます。金貨を見ると猛獣の目になると」
「違う。……宝石だ」
彼の指先が、恐る恐る私の頬に触れた。
冷たい指先。でも、触れた場所から火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。
「トパーズ……いや、もっと深い、蜂蜜を溶かしたような黄金色だ。それに、その長い睫毛も、白い肌も……」
アレクセイ様の指が、頬から目尻へ、そして髪へと滑る。 その手つきは、まるで壊れ物を扱うように慎重で、そして酷く艶かしかった。
私は身動きが取れなかった。 蛇に睨まれた蛙?
いいえ、値踏みされる商品のような気分だ。
(な、なによ……。私のパーツを換金しようとしてるの? 眼球移植でもさせる気?)
「……眼鏡をかけろ」
不意に、アレクセイ様がバッと手を引っ込めた。 そして、私から顔を背けるようにして、乱暴に椅子に座り直した。
「は?」
「今すぐだ。その……分厚い、ダサい眼鏡をかけろと言っている」
「ダサいとは心外な。これは機能美です」
「いいからかけろ! 私の精神衛生上、よろしくない!」
怒鳴られた。 意味が分からない。
私は慌てて机の上の眼鏡を手に取り、装着した。 カチャリ。世界がクリアになる。
視界が戻ると、そこには眉間に深い皺を寄せ、
口元を手で覆っているアレクセイ様の姿があった。 耳が、ほんのりと赤い。
(精神衛生上よろしくない……? ああ、そうか)
私はピンと来た。 仕事中に眼鏡を外してボサッとしている部下の顔など、上司からすれば「たるんでいる」以外の何物でもない。 彼の美意識と完璧主義に、私の無防備な休憩姿が抵触したのだ。
「申し訳ありません、閣下。気が緩んでいました」
「……そういう意味ではないが」
「いいえ、私の過失です。作業効率を上げるつもりが、閣下に不快感を与えては本末転倒です。二度と仕事中に眼鏡は外しません」
私は姿勢を正し、反省の意を示した。
すると、アレクセイ様はさらに不機嫌そうに、
しかしどこか焦ったように早口で言った。
「……いや、外すなとは言っていない。ただ、場所を選べ」
「場所?」
「私の許可がある時と、この部屋で私と二人きりの時以外は外すな。特に、廊下や他の文官の前では絶対に禁止だ」
「はあ……。人前でサボるなということですね? 承知しました」
私が納得して頷くと、アレクセイ様は「全く分かっていない……」と深くため息をつき、頭を抱えてしまった。 何か間違った解釈をしただろうか?
まあいい。今は機嫌を直してもらうのが先決だ。
「遅れを取り戻します。先ほどの図書館の件、売却益の試算を出し直しますね。今の市場価格なら、三万ベルの上乗せが可能です」
「……ああ、頼む」
私は再びそろばんを構えた。 パチパチパチパチッ! 先ほどよりも三割増しの速度で指を動かす。 「仕事が遅い」と思われないように、必死のアピールだ。
そんな私の様子を、アレクセイ様が書類の陰からチラチラと見ていることに、私は気づかなかった。
(……危なかった)
アレクセイは、自身の高鳴る心臓を抑えるのに必死だった。 今まで「便利な計算機」「面白いペット」程度にしか思っていなかった女が、眼鏡を外した瞬間、国一番の美女と呼ばれる令嬢たちすら霞むほどの「美貌」を持っていたことに気づいてしまったのだ。 あの黄金色の瞳に見つめられた瞬間、彼の脳内で何かがショートした。
(あんな無防備な顔を、他の男に見せたらどうなる? ……虫が湧く。絶対に湧く)
彼の脳裏に、リアナに群がる男たちの図が浮かび、瞬時にどす黒い殺意が湧き上がった。
独占欲。 今まで感じたことのない、強烈な「所有したい」という欲求。
「……リアナ」
「はいっ! 計算終了しました! こちらです!」
リアナが元気よく書類を差し出す。
いつもの分厚い眼鏡、ひっつめた髪、地味な服。 先ほどの美貌は見る影もない。 だが、アレクセイは安堵すると同時に、優越感を覚えていた。
(あの中身を知っているのは、世界で私だけだ)
彼は書類を受け取りながら、口元を歪めた。
「リアナ。給料の前借りをしてやろうか?」
「えっ!? 本当ですか!?」
「ああ。ただし条件がある。その金で新しい服を買うな。化粧品も買うな。今のままの、その……地味で、飾り気のない格好を維持しろ」
「もちろんです! 服飾費なんて一番の無駄ですから! ありがとうございます、閣下はなんて理解のある上司なんですか!」
リアナが目を輝かせて喜ぶ。 その「計算高い」はずの瞳が、自分の策略にまんまと嵌まっているのを見て、アレクセイは暗い満足感を覚えた。
「ああ、私は理解があるとも。……君を、誰にも渡さないためならな」
最後の言葉は、そろばんの音にかき消されて、彼女の耳には届かなかった。 氷の宰相の中で、恋という名の「計算外のエラー」が、静かに、しかし確実に暴走を始めていた。
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