第57話「値切り交渉の天使、商業都市に降臨す」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
「──あ、あの。離していただけますか? 手首が折れそうです」
私のポシェットに手を伸ばしていた男──
スリの青年は、脂汗を流して呻いた。
私が掴んでいる手首が、ミシミシと悲鳴を上げているからだ。 毎日重い帳簿とそろばんを持ち歩き、時には物理攻撃にも使用する私の握力を甘く見てもらっては困る。
「離してほしければ、計算してください」
「あ、あぁ?」
「貴方が今、私から盗もうとした財布の中身は約二万ベル。対して、この街でスリの現行犯で捕まった場合の刑期は平均三年。……時給換算すると、貴方は今後三年間、時給マイナス一ベル以下で労働することになります。リスクとリターンが見合っていませんね?」
私が早口でまくし立てると、男は目を白黒させた。
「な、なんだこの女……計算機かよ……!」
「いいえ、経理係です」
男が逆上して、反対の手でナイフを取り出そうとした、その時だった。
ピキッ……
男の足元が、真夏だというのに一瞬で凍りついた。 背後から、底冷えするような殺気が降り注ぐ。
「……私の妻の手を、その汚い手でいつまで触っているつもりだ?」
アレクセイさんが、変装用の伊達眼鏡の奥から、絶対零度の視線を放っていた。
手には私の戦利品である大量の買い物袋を提げているが、その威圧感は魔王そのものだ。
「ひっ、ひぃぃッ!?」
「失せろ。……氷像になりたくなければな」
私が手を離すと、男は脱兎のごとく逃げ出した。 人混みに紛れて消えていく背中を見送り、私はふぅと息を吐いた。
「ありがとうございます、あなた。でも、威圧しすぎですよ。周りの観光客まで凍えていました」
「君に触れた罰だ。……指の一本くらい、へし折っておけばよかった」
アレクセイさんは不満げに鼻を鳴らしたが、
すぐに私の腰に手を回し、甘い顔に戻った。
「怪我はないか? 怖くなかったか?」
「平気ですよ。財布も無事です」
「そうか。……頼もしい妻を持ったものだ」
私たちは気を取り直して、市場の奥へと進んだ。 ここからが本番だ。 メルカトル名物、「絨毯通り」。 最高級の織物が集まるこのエリアで、私は「あるもの」を探していた。
「いらっしゃい、いらっしゃい! 東方の絹、北方の羊毛、なんでもあるよ!」
「そこの美男美女! このカーペットを見ていきな!」
活気ある声が飛び交う中、私は一軒の老舗に入った。
壁一面に飾られた、幾何学模様の美しい絨毯たち。
「お目が高い! お客さん、これは『王家の祈り』と呼ばれる最高級品だよ! お値段、特別に三十万ベル!」
恰幅の良い店主が、揉み手をしながら近寄ってきた。 観光客価格だ。明らかに吹っかけている。
「……三十万ベル、ですか」
私は眼鏡を光らせ、絨毯の端を指で摘んだ。
手触りを確認する。裏返す。
結び目の密度を数える。
「確かに、良い品です。染料は天然の茜、素材はメリノ種の羊毛。……ですが」
私は店主に向き直り、ニッコリと微笑んだ。
「この結び目の数、一平方センチあたり四十五個ですね。最高級品と呼ぶには密度が足りません。それに、この文様……北部の山岳地帯で作られたものですが、あそこは昨年、羊毛の価格が大暴落しましたよね?」
「えっ……?」
「輸送ルートも、先月開通した『大陸鉄道』を使えばコストは三割減のはず。……関税の撤廃分と、現在の為替レートを考慮して再計算すると……」
パチパチパチッ! 私はポケットからそろばんを取り出し、高速で弾いた。
「適正価格は、十一万五千ベル。……違いますか?」
「なっ……!?」
店主が絶句した。 額から滝のような汗が流れる。 原価、輸送費、相場。
すべての裏事情を言い当てられ、反論の余地がないのだ。
「あ、あんた……何者だ? ギルドの監査官か?」
「いいえ、ただの通りすがりの主婦です」
「主婦がなんで為替レートまで知ってるんだよ!」
「家計を預かる身として当然の嗜みです。……さあ、どうしますか? 十一万五千ベルなら、即金で二枚買いますよ」
私は財布から、新札の束をチラリと見せた。
店主は唸り、悩み、そして最後にガクリと肩を落とした。
「……参った。負けだ、負けだよ奥さん! 持ってけ泥棒!」
「交渉成立ですね。ありがとうございます」
私は勝利の握手を交わし、二枚の絨毯を包ませた。 三十万ベルが、十一万五千ベルに。 二枚買ってもお釣りが来る。 この浮いたお金で、美味しいものも食べられる。
「……すごいな」
店の外に出ると、アレクセイさんが感嘆のため息をついた。 両手に大きな絨毯を抱えているが、その顔はなぜか誇らしげだ。
「あの強欲そうな店主が、泣きそうな顔で頭を下げていたぞ。……君は、値切りの天才だな」
「天才じゃありません。適正価格に戻しただけです」
「ふふ。その『一円も損をしたくない』という気迫……戦場での私よりも勇ましかった」
アレクセイさんは、荷物で手が塞がっているため、私の頬に自分の頬をスリスリと押し付けた。
「私の妻は、頼もしくて、賢くて、可愛い。……世界一だ」
「人前でやめてください! 恥ずかしい!」
「事実だ。……ああ、早くこの絨毯を公邸に敷いて、君とゴロゴロしたいな」
耳元で囁かれ、顔が赤くなる。 新婚旅行の解放感のせいか、彼の愛情表現が止まらない。 周囲の観光客が「アツアツだねぇ」と生温かい目で見ているのが痛い。
「さ、さあ次に行きましょう! まだスパイスとお茶も買わないと!」
私は照れ隠しに早足で歩き出した。 市場の喧騒、スパイスの香り、そして隣にいる愛しい人。
計算通りにいかないトラブルもあったけれど、
この旅は間違いなく「最高益」だ。
そう思っていた、矢先だった。
「……おや、そこのお二人さん」
路地の薄暗い一角から、しわがれた声が掛かった。
「幸せそうだねえ。……でも、何か『足りないもの』はないかい?」
足を止めて振り返ると、そこには黒い布を頭から被った、怪しげな老人が座り込んでいた。 彼の前には、古びた風呂敷の上に、一つだけ商品が置かれている。埃を被った、薄汚い壺だ。
「……何ですか、これ」
「『願いが叶う壺』だよ」
老人は、歯の抜けた口でニタリと笑った。
「愛、富、健康……。持ち主が一番強く願うものを、中から生み出してくれる魔法の壺さ。……どうだい? 今なら安くしておくよ」
「……」
私は即座に踵を返そうとした。 典型的な詐欺だ。
「願いが叶う」なんて、原価ゼロの詐欺商材の常套句だ。
「行きましょう、アレクセイさん。時間の無駄です」
「まあ待て、リアナ」
アレクセイさんが、珍しく足を止めた。
彼はその壺をじっと見つめている。
「……この壺から、微かだが魔力を感じる」
「えっ?」
「ただのゴミではないようだ。……おい、爺さん。いくらだ?」
「へへっ……旦那さんはお目が高い。一万ベルでどうだい?」
一万ベル。 お土産としては高いが、骨董品としては安い。
アレクセイさんは財布を取り出そうとした。
「買おう。旅の記念だ」
「ちょっと! 無駄遣いは禁止です!」
「いいじゃないか。もし本当に願いが叶うなら、安い投資だ」
彼は私の制止を聞かず、銀貨を渡して壺を受け取ってしまった。
老人は銀貨を噛んで確かめると、ヒヒヒと笑って闇の中へ消えていった。
「……買っちゃいましたね」
「ああ。君が喜ぶかと思ってな」
アレクセイ様は、薄汚い壺を私に手渡した。
「リアナ。君なら何を願う?」
「……『この壺の返品』です」
「夢がないな」
私は壺を受け取り、まじまじと見つめた。
ただの汚い壺にしか見えない。
でも、アレクセイ様が「魔力を感じる」と言ったのが気になる。
私の「不正感知」スキルは反応しないけれど……。
(……まあいいか。一万ベルなら、勉強代として計上しておきましょう)
私は壺を抱え、ホテルへの帰路についた。
まさかこの壺が、今夜のホテルでとんでもない騒動を引き起こすことになるとは、この時の私は──そして「世界最強の魔法使い」である夫でさえも、予測していなかったのだ。
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