第54話「初夜の計算式、確率は変動する」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
カチャリ。 重厚なマホガニーの扉に、鍵がかけられる音がした。 その小さな金属音が、外界との遮断を告げる合図のように響き、私の心臓を大きく跳ねさせた。
「……静かですね」
「ああ。祭りの後だからな」
アレクセイさんが、ジャケットを脱ぎながら振り返る。 暖色の魔法灯が灯る寝室。 柔らかい光が、天蓋付きの大きなベッドや、部屋の調度品をあたたかく照らし出している。 そこは、私たちが幾度となく「看病」や「仕事」で過ごした場所だ。
けれど今夜、この場所が持つ意味は、これまでとは決定的に違っていた。
「……リアナ」
「は、はい!」
名前を呼ばれただけで、声が裏返る。 アレクセイさんが近づいてくる。 明かりの下で見ると、憎らしいほど完璧な立ち居振る舞いを見せる彼が、今夜はどこかぎこちないのがよく分かった。
ネクタイを緩める指先が、微かに震えているのが見えた。
(……緊張してる?)
あの氷の宰相が。 国一番の権力者が、私ごときとの初夜に緊張している? そう気づいた瞬間、私の緊張も限界点に達した。 沈黙が怖い。何か喋らないと、空気に圧殺されそうだ。
「あ、あの! アレクセイさん!」
「な、なんだ」
「このベッドのことなんですが!」
私はベッドのマットをバンバンと叩いた。
「スプリングの反発係数から推測するに、かなり高品質なコイルスプリングが使用されていますね。耐荷重はおそらく五百キログラム。衝撃吸収率は九〇%を超えていると思われます!」
「……そうか」
「つまり、物理学的に見て、激しい運動エネルギーが加わっても破損のリスクは極めて低く、振動による騒音も最小限に抑えられる計算になります! したがって、構造力学上の安全性は保証されており……」
私が早口でまくし立てていると、不意に視界が暗転した。
アレクセイさんの手が、私の眼鏡をそっと外したのだ。
「……そこまでだ」
眼鏡がサイドテーブルに置かれるカタリという音。
ぼやけた視界の中で、彼の顔が近づいてくる。
「今夜は、数字は禁止だ」
「で、でも、計算していないと……心拍数がオーバーフローして……」
「私の心臓も同じだ。……触ってみろ」
彼は私の手を取り、自分の左胸に押し当てた。
薄いシャツ越しに伝わる、熱と鼓動。 ドクン、ドクン、ドクン。 早くて、強くて、痛いほどのリズム。 私の鼓動と同じだ。
「……ほら。計算できないほど、速いだろう?」
「……はい」
「リアナ。……私は、怖いんだ」
彼は私の腰に腕を回し、すがりつくように抱きしめた。耳元で、吐息交じりの弱音が漏れる。
「君を壊してしまわないか。君に幻滅されないか。……私が、君を愛しすぎて、理性を保てなくなるのが怖い」
「アレクセイさん……」
「宰相としての私は、どんな難局も論理で乗り越えてきた。だが……一人の男としての私は、君の前では無力だ。計算などできない、ただの臆病者だ」
彼の震えが、私の体に伝わってくる。 その弱さが、たまらなく愛おしかった。 完璧な彼も好きだけれど、私の前でだけ見せてくれる、この人間臭い不器用さが、何よりも好きだ。
「……大丈夫ですよ」
私は背中に回された腕に、自分の手を重ねた。
「私も同じです。経験値ゼロですから、失敗する確率は高いです。でも……」
私は背伸びをして、彼の首に腕を回した。
「二人で解けば、怖くないはずです。……教えてください。貴方の答えを」
私の言葉が合図だった。
アレクセイさんの瞳から、迷いの色が消える。
代わりに宿ったのは、溶けるような甘さと、全てを飲み込むような深い情熱。
「……愛している」
唇が重なる。 誓いのキスよりも深く、長く、熱い口づけ。 甘い痺れが脳天を突き抜け、思考回路がショートする。もう、耐荷重も、確率も、損得もどうでもいい。
彼の手が、私のドレスの背中に這う。
ファスナーが下ろされる音。
肌が空気に触れ、すぐに彼の熱い掌に覆われる。
「……リアナ。灯りを消してもいいか?」
「……はい。……でも、少しだけ、月明かりは残してください」
「なぜ?」
「貴方の顔を……見ていたいから」
私が恥ずかしさを堪えて言うと、彼は嬉しそうに微笑み、指を鳴らした。
室内の魔法灯が消え、窓からの青白い月光だけが二人を照らす。
私たちはベッドに倒れ込んだ。 シーツの擦れる音。互いの吐息。 彼が私を見下ろしている。
その瞳は、宝石のアメジストよりも美しく、私だけを映していた。
「……綺麗だ」
彼の指が、私の頬を、鎖骨を、そしてその下へと滑り落ちていく。
触れられるたびに、火花が散るような感覚が走る。
「痛かったら、すぐに言え。……計算違いでも構わない。今夜は、君のペースに私が合わせる」
「……そんな高度な計算、私には無理です」
私は彼の髪に指を通し、引き寄せた。
「……全部、貴方に委ねます。私の全てを……管理してください」
それが、私のできる精一杯の誘い文句だった。
アレクセイさんは、喉の奥で低く唸り、私に口づけながら、その身を重ねた。
痛みと、それを上回る充溢感。
一つになる瞬間、私は思った。
ああ、これは計算できない。
1+1が2になるなんて単純な話じゃない。
二つの魂が溶け合って、無限大になる奇跡だ。
夜は長く、そして甘く更けていった。 私たちは何度も愛を囁き合い、確かめ合い、二人の間にあった「見えない契約書」を、熱情で焼き尽くしていった。
翌朝。 小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚めた。 全身が気怠い。筋肉痛のような痛みがある。 でも、それは不快なものではなく、昨夜の愛の証のような心地よい痛みだった。
「……んぅ」
寝返りを打つと、すぐ目の前にアレクセイさんの顔があった。 彼は既に起きていて、肘をついて私の寝顔をじっと見つめていたらしい。 銀髪は寝癖で少し乱れ、はだけた胸元には、私がつけてしまった爪の跡が赤く残っている。
「……おはよう、私の妻」
朝特有の、低くて少し掠れた声。 それだけで心臓が跳ねる。
「お、おはようございます……アレクセイさん」
「よく眠れたか?」
「……気絶するように眠りました」
私が布団を引き上げて顔を隠すと、彼はくつくつと笑い、布団の上から私を抱きしめた。
「計算してみてくれ、リアナ」
「え? 何をですか?」
「私が今、どれほど幸せか。……数値化できるか?」
彼は私の額にキスをし、とろけるような笑顔で言った。
「昨夜の私は、世界中の富を集めても釣り合わないほどの『黒字』を手に入れた。……君という、最高の宝物をな」
キザだ。 朝から胃もたれしそうなほど甘い。
でも、不思議と嫌じゃない。
「……計算不能です」
私は布団から顔を出し、彼の鼻先にキスを返した。
「測定限界を超えています。……私の方も、同じくらい幸せですから」
アレクセイさんは満足げに目を細め、再び私を抱き寄せた。 二度寝の誘惑。 新婚初日の朝くらい、もう少しだけ、この温もりに溺れていてもバチは当たらないだろう。 私は彼の腕の中で、幸せな計算放棄を決め込んだ。
だが、甘い時間はそこまでだ。 今日から私たちは、新婚旅行という名の「新たな戦場」へ向かわなければならないのだから。
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