第50話「新たなる契約、新たなる命の予兆?」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
「……うっぷ」
不吉な音が、更衣室の静寂を破った。 結婚式まであと一週間。 今日は、最終的なウェディングドレスの寸法合わせの日だった。 カトリーヌお義母様とアレクセイ様が厳選した、総レースと真珠のドレス。 その締め上げられたコルセットの苦しさに耐えていた時、急激な吐き気が込み上げてきたのだ。
「……ごめんなさい。少し、酔ったみたい…」
世界がぐるぐると回る。 ただの貧血? それとも、連日の予算委員会でのストレス? 立っていられない。私はその場にしゃがみ込んだ。
「リアナッ!!」
更衣室のカーテンが乱暴に開かれた。 アレクセイ様は顔面蒼白で飛び込んでくると、侍女たちを押しのけて私を抱き上げた。
「どうした! 何があった! 誰かが毒を盛ったのか!?」
「ち、違います……ただの目眩です……」
「顔色が紙のように白いぞ! すぐに医師を呼べ! 王宮医師団長だ!」
彼の怒号が響き渡る。 私は彼の腕の中で、「ああ、また大ごとになってしまった」と薄れゆく意識の中で反省していた。
公邸のベッドに運ばれ、数十分後。 部屋には重苦しい沈黙が流れていた。
ベッドの横には、王宮医師団長である老賢者が、厳かな顔で私の手首の脈を取っている。 その背後には、アレクセイ様が仁王立ちしていた。
「……先生。妻の容態は」
「閣下、落ち着いてください。処刑の必要はありません」
医師団長はゆっくりと聴診器を外し、眼鏡の位置を直した。
そして、私とアレクセイ様を交互に見つめ、静かに告げた。
「……おめでとうございます」
「は?」
アレクセイ様が間の抜けた声を出した。
私もポカンとした。 病人に「おめでとう」?
「脈診の結果、リアナ様の体内に『新たな魔力の脈動』が感じられます。まだ確定診断には時期尚早ですが……十中八九、ご懐妊の兆候かと」
「……」
時が止まった。 部屋の空気が真空になったかのように、音が消えた。
ごかいにん。 御懐妊。 妊娠。
(……ええええぇぇぇッ!?)
私の脳内電卓が、桁溢れを起こして爆発した。
妊娠? 私が? ま、待って。計算して。 生理周期のズレ……基礎体温の変化……。 そして、アレクセイ様との「接触履歴」。
(…え、嘘でしょう? だって私たち、まだ「最後の一線」は越えていないはず!)
確かに、公邸に同居してからというもの、彼のスキンシップは激しさを増している。 おはようのキス、おやすみのキス。 ベッドの上で抱きしめ合って、際どいところまで触れられることもしばしばだ。 でも、決定的な行為は、結婚式までとっておくという暗黙の了解があったはず。
(で、でも待って。私は経験がないから分からないけれど……あれだけ濃厚に接触していたら、確率論的に〇・〇〇一%くらいの「事故」が起きるものなの!? それとも魔法使いの子供は、魔力感染だけでできちゃうの!?)
極度の体調不良で判断力が低下している私の脳は、パニックのあまり「あり得ない計算式」を弾き出してしまった。
『濃厚なイチャイチャ × 宰相の強力な魔力 = 想像妊娠あるいは奇跡?』
私が混乱の極みに達している横で、アレクセイ様は石像になっていた。
「か、閣下……?」
私が声をかけると、ギギギ、と油切れのロボットのように首が動いた。
「……子供?」
彼が掠れた声で呟く。
「私と……リアナの、子供?」
「は、はい。その可能性が高いと、医師が……」 「……」
ドサッ。 アレクセイ様が、その場に膝をついた。
あの「氷の宰相」が。何があっても動じない国のトップが。 腰を抜かしたのだ。
「……あ、あぁ……」
彼は震える手で顔を覆った。 肩が小刻みに震えている。
「……計算外だ」
彼が顔を上げた。 その瞳は、涙で潤み、そして見たこともないほどの歓喜と、どうしようもないパニックで渦巻いていた。
「まだ結婚式も挙げていないのに……! 順序が逆だ! ……いや、待て。確かに心当たりがないわけではない……あの夜、私が理性を保てていたかどうか、記憶が曖昧な瞬間が……」
彼もまた、私と同じようにパニックになり、「もしかしたら自分はやってしまったのかもしれない」という記憶の改竄を起こしているようだ。
「だが……嬉しい……! 私たちの命が、繋がったのか……!」
彼は膝行してベッドに近づき、私の平らなお腹に、恐る恐る触れた。 まるで、触れたら壊れてしまうシャボン玉に触れるように。
「ここに……いるのか? 私たちの、新しい家族が」
「……まだ、豆粒くらいの大きさだと思いますけど」
「豆粒! 愛しい豆粒だ!」
アレクセイ様は私のお腹に額を押し付け、震える声で叫んだ。
「ありがとう、リアナ…! 私に、こんな……計算できない奇跡をくれるなんて!」
彼の熱い想いが伝わってきて、私の混乱も吹き飛んでしまった。 計算上はあり得ない。 でも、彼がこんなに喜んでくれるなら──もしかしたら、本当に「奇跡」が起きたのかもしれない。 そう思えてしまうほど、彼の喜びようは純粋だった。
だが。 感動の時間はそこまでだった。
次の瞬間、アレクセイ様のスイッチが切り替わった。
「……よし。緊急事態宣言を発令する」
彼が立ち上がり、キリッとした顔で宣言した。
「リアナ。今後、歩行を禁止する」
「はい?」
「移動は全て私が抱える。トイレもだ。呼吸以外の運動はするな」
「バカですか! 筋力が落ちて難産になります!」
「うるさい! 万が一転んだらどうする! このお腹には、国家予算よりも重い命が入っているんだぞ!」
アレクセイ様はベルを乱打し、ルーカス様やメイドたちを呼びつけた。
「全員聞け! リアナが妊娠した! 厳戒態勢だ!」
「はあぁぁ!? おめでとうございます!!」
「メイド長! 廊下に羽毛布団を敷き詰めろ! 段差をなくせ! 角という角にクッションを巻け!」
「料理長! 妊婦に良い食材を世界中から取り寄せろ! 毒見は私がする!」
「ルーカス! 建築家を呼べ! 今すぐ公邸を増築して『子供部屋』を作るぞ!」
矢継ぎ早に下される命令。 公邸中がパニックとお祝いムードでひっくり返る。
「ちょ、ちょっと待ってください閣下!」
私はベッドの上で抗議の声を上げた。
「まだ『兆候』ですよ!? 確定じゃありません! それに、子供部屋の増築なんて予算オーバーです! そもそも、計算が合いません!」
「何の計算だ!」
「タイミングです! 論理的に考えて、発生プロセスが不明瞭です!」
私が現実的な指摘をしても、アレクセイ様は真顔で答えた。
「愛の力に不可能はない。魔法的な何かが起きたのだ」
「論理的じゃなーい!!」
私の悲鳴は無視された。 彼は既に、羊皮紙を広げて何かを書き殴り始めていた。
「ベビー服だ。シルクがいいか? いや、肌に優しいオーガニックコットンか? 最高級品を買い占めよう」
「まだ性別も分かりません!」
「両方買えばいい! 名前も考えねば……男なら『アーク』、女なら『リリィ』……いや、もっと高貴な……」
完全に暴走している。 幸せな暴走だ。
でも、このままだと破産しかねない勢いだ。
(……はぁ。どうしよう)
私はお腹をさすりながら、天井を仰いだ。もしこれが「間違い」だったら、彼はどれほど落ち込むだろう。 でも、今は訂正できる雰囲気ではない。
私自身も、「もしかして」という一縷の可能性を信じたくなっているのだから。
「……でも、悪くないかもね」
騒がしい部屋の中で、私は自然と笑っていた。
まだ見ぬ豆粒ちゃん。 もし貴方が本当にここにいるなら、パパはちょっと……かなりおバカだけど、世界一貴方を愛してくれる人よ。
しかし、この翌日。 再検査の結果、事態は「まさかのオチ」を迎えることになるのだが──それはまた、別のお話。
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