第5話「残業のお供は「余り野菜の節約弁当」」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
壁に掛けられた重厚な振り子時計が、深夜二時を告げる鐘を鳴らした。
広大な執務室には、ペンが紙を走る音だけが響いている。
「……閣下、そろそろ休憩を挟まれては?」
「不要だ。この決裁を今夜中に終わらせなければ、南方の物流が三日は遅れる」
アレクセイ様は顔も上げずに答えた。
その美貌には疲労の色が濃く滲んでいる。
目の下の隈は深くなり、肌は陶器のように白いが、それは健康的な白さではなく、血の気が引いているだけだ。 夕食に運ばれてきた豪華な御膳は、手がつけられないまま冷めきって下げられていった。
(効率が悪い……)
私は自分のデスクで、そろばんを弾く手を止めた。 アレクセイ様の処理速度が、一時間前と比べて一八%低下している。 原因は明白。エネルギー不足だ。 宰相という生き物は、魔力で動いているわけではない。カロリーで動いているのだ。
「閣下が倒れられると、私の雇用主がいなくなり、路頭に迷うリスクが発生します。資産保全も業務の一環ですので」
私は椅子から立ち上がり、足元に置いていた風呂敷包みを手に取った。
アレクセイ様のデスクの横に立ち、コトリとそれを置く。
「……なんだ、これは」
「燃料です」
「燃料?」
「はい。見た目は悪いですが、毒見はしていません。腐ってもいません」
包みを開けると、塗装の剥げたブリキの弁当箱が現れた。 蓋を開ける。
中身は茶色かった。
「……これは、何だ? 土か?」
「失礼な。大根の皮と葉っぱの炒め煮と、パンの耳を揚げて砂糖をまぶしたラスク、それから昨日の夕飯の残りのオムレツです」
彩り? 栄養バランス? そんなものは予算オーバーだ。
これは私が自分用に持ってきた、原価ほぼゼロの「廃棄寸前救済弁当」である。
「私の夜食にするつもりでしたが、閣下の顔色が死人のように悪いので譲渡します。……請求書に『夜食代』として十ベル上乗せしておきますね」
「十ベル……」
アレクセイ様は呆れたように眉を上げたが、空腹には勝てなかったらしい。
恐る恐る、フォークで茶色い物体(大根の皮)を口に運んだ。
「……!」
咀嚼する動きが止まった。
アメジストの瞳が、僅かに見開かれる。
「……どうですか? まずいなら残していただいて結構ですが」
「……いや」
彼は小さく首を横に振ると、次はパンの耳のラスクを、そしてオムレツを口に運んだ。 そのペースは徐々に早くなり、最後には貪るような勢いになった。
「美味い」
一言、ポツリと漏らした。
「王宮の料理は、見た目は美しいが……味がしないんだ。毒が入っていないか警戒しながら食べる食事は、ただの作業だ」
アレクセイ様は、どこか遠くを見るような目をした。
「だが、これは違う。味がする。……土のような、泥臭い味だが、温かい」
「泥臭いって、洗ってますよ! 皮付きなだけです!」
「褒めているんだ。……不思議だな。冷めているはずなのに、身体の芯が熱くなるようだ」
彼はブリキの箱に残った最後の欠片まで綺麗に平らげると、ふぅ、と満足げな息を吐いた。
その顔には、先ほどまでの殺気だった疲労感はなく、穏やかな血色が戻っていた。
「リアナ」
「はい」
「これを作ったのは君か?」
「ええ、まあ。弟と妹の分を作るついでですから」
「……そうか」
アレクセイ様は私をじっと見つめた。
その視線が熱っぽく、ねっとりとしたものに変わっていく。まるで、新たな獲物を見つけた猛獣のような、あるいは宝物を見つけた子供のような。
「決めた」
「何をですか?」
「毎日、これを作ってくれ」
唐突な命令だった。 私は瞬時に脳内電卓を叩く。
「お断りします」
「なぜだ! 金なら払う! 王宮のシェフの三倍……いや、十倍出そう!」
「お金の問題ではありません。手間の問題です。私は経理係として雇われたのであって、料理人ではありません。業務範囲外の労働は、労働基準法および私のプライドに抵触します」
即答で拒否すると、アレクセイ様は子供のようにむくれた。 氷の宰相が頬を膨らませるなど、国民が見たら天変地異の前触れだと思うだろう。
「……ならば、契約を書き換えればいい」
「は?」
「『経理係兼、宰相の健康管理責任者(専属シェフ)』。これならどうだ?」
「兼任手当はつきますか?」
「基本給の五割増しだ」
「……材料費は別ですよね?」
「当然だ。最高級の食材を用意させる」
「いえ、最高級は使いにくいので、スーパーの特売品代を現金支給でお願いします」
私が譲歩案を出すと、アレクセイ様はようやく満足そうに頷いた。
「交渉成立だ。……明日のメニューは何だ?」
「カブの葉っぱのふりかけご飯です」
「楽しみだ」
アレクセイ様は空になった弁当箱を、まるで聖遺物か何かのように愛おしそうに撫でた。
「……君は、本当に計算外の女だ。私の胃袋まで支配するつもりか?」
「支配? いえ、ただの燃料補給です」
「ふっ……そういうことにしておこう」
彼は立ち上がり、私の手を取った。
そして、荒れた指先に、恭しく唇を落とした。
「ご馳走様。……この礼は、高くつくぞ」
その仕草があまりにも自然で、そして色気がダダ漏れで。 私はカッと顔が熱くなるのを感じた。
計算機がオーバーヒートしたような感覚。
(な、なによ今の……。ただの食事の礼にしては、湿度が高すぎるわ!)
私は慌てて手を引っ込め、「さ、さっさと仕事を終わらせてください!」と背中を向けた。 背後で、アレクセイ様がくつくつと楽しそうに笑う気配がした。
翌日。 返却された弁当箱を開けた私は、絶句することになる。
「……何よこれ」
洗われた弁当箱の中には、なぜか小指の爪ほどの大きさの、透き通るような青い宝石が入っていた。 サファイアだ。しかも、未加工の原石。
添えられたメモには、流麗な文字で一言。
『昨夜の代金だ。釣りはいらん』
「……十ベルの夜食代に、三百万ベルの石を置いていく馬鹿がどこにいますかーッ!!」
私の絶叫が、朝の宰相執務室に響き渡った。
アレクセイ様は涼しい顔で「石ころ一つで騒ぐな」と紅茶を飲んでいる。
どうやら私の雇い主は、金銭感覚だけでなく、
愛情表現の方向性も致命的に壊れているらしい。
この宝石を雑費として計上すべきか、それとも贈与税の対象とすべきか。 私の悩みは、書類の山が消えても尽きることはなさそうだった。
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