表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

44/100

第44話「退職の日、宰相閣下の前代未聞の職権濫用」

「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」



「……以上で、全ての業務の引き継ぎを完了いたします」


朝の光が差し込む宰相執務室。 塵一つなく磨き上げられた床。 背の順に整列されたファイル。

そして、デスクの上に置かれた一本の鍵。


私は深く一礼した。今日、この瞬間をもって、私の雇用契約は満了する。


「長い間、お世話になりました。……ご健勝をお祈り申し上げます」


顔を上げると、デスクの向こうにいるアレクセイ様と目が合った。 彼は彫像のように動かない。

その顔色は蒼白で、目の下には濃い隈があった。昨夜、一睡もしていないのだろう。 私も同じだ。お互いに、ボロボロの顔をしている。


「……行くのか」


絞り出すような声だった。


「はい。借金は完済されました。私にはもう、ここに留まる理由がありません」


「……理由は、借金だけか?」


「契約書には、そう書いてあります」


私は心に蓋をして、事務的に答えた。 そうしなければ、崩れ落ちてしまいそうだったから。


「では、失礼します」


私は踵を返し、扉へと歩き出した。 カツ、カツ、カツ。 ヒールの音が、カウントダウンのように響く。 あと十歩。五歩。三歩。 ノブに手をかける。 これで終わり。

さようなら、私の愛した氷の宰相──。


ダンッ!!


背後から、凄まじい音がした。 デスクを蹴り倒すような音。 そして、突風のような気配が私に迫る。


「行くなッ!!」


「え……?」


振り返る間もなかった。 背後から、強い力で抱きすくめられた。 アレクセイ様だ。 彼は私の背中に覆いかぶさるようにして、ドアノブにかけた私の手を、自分の手で強引に押さえつけた。


「か、閣下……? 何を……」


「行くな。行かせない」


耳元で聞こえる声は、宰相の威厳など欠片もない、駄々っ子のような響きだった。 彼の腕が、私の体に食い込むほど強く締め付けられる。 震えている。 あの「氷の宰相」が、小刻みに震えている。


「契約終了です。これは監禁罪に当たります」


「知ったことか! 私が法だと言っただろう!」


「滅茶苦茶です……!」


「ああ、滅茶苦茶だ! 計算も論理も知るか! 君がいなくなる世界など、私にとってはエラーでしかないんだ!」


アレクセイ様は私を強引に反転させ、向き合わせた。 至近距離にある彼の顔は、苦悶に歪んでいた。 アメジストの瞳が、潤んで揺れている。


「……金を払えばいいんだろう?」


彼は私の肩を掴んで揺さぶった。


「いくらだ? 君の時間を買うには、いくら積めばいい? 五千万ベルか? 一億か?」


「お金の問題じゃありません!」


「なら十億だ! 私の個人資産を全部やる! 屋敷も、鉱山も、権利書も全部だ!」


彼は懐から、財布やら小切手帳やらを無造作に取り出し、私に押し付けてきた。


「足りないなら爵位もやる! 『公爵夫人』の座はどうだ? 国で一番高い地位だぞ!」


「いりません! そんなもの……!」


「なら命だ! 私の命をやる! 心臓でも何でもくれてやるから……!」


彼は私の手を取り、自分の左胸──心臓の上に強く押し当てた。

ドクン、ドクン、ドクン。 早鐘のように打つ鼓動が、掌を通して私の全身に伝わってくる。


「頼む、リアナ……! 私の『計算機』を辞めるな! 私の側から消えないでくれ!」


それは、懇願だった。 国を統べる男が、プライドも体面もかなぐり捨てて、ただ一人の女に縋り付いている。「計算機」と言いながら、その響きは「最愛の人」と同義だった。


私の目から、堪えていた涙が溢れ出した。


「……馬鹿です、貴方は」


私は彼の手を握り返した。


「全財産? 爵位? 命? ……そんなもの貰っても、贈与税と相続税で破産しますよ」


「税金など私が免除させる!」


「そういう問題じゃありません……! 計算が合わないんです!」


私は泣きながら、彼の胸を拳で叩いた。


「私が欲しいのは……お金じゃありません。貴方の資産価値なんてどうでもいい」


「なら、何を……!」


「貴方です! ……ただの、アレクセイという人間が欲しいんです!」


言った。言ってしまった。 私の人生で一番、非論理的で、利益の出ない要求。


「貴方がいないと……私の人生は赤字なんです。どんなに大金を持っても、貴方の笑顔がなきゃ、空っぽの損失ロスなんです!」


「……リアナ」


アレクセイ様の目が、驚きに見開かれた。 そして次の瞬間、彼は私を壊れそうなほど強く抱きしめた。


「……ああ、クソッ……! 愛してる!」


彼は私の首筋に顔を埋め、震える声で叫んだ。


「愛してる、リアナ! 数字よりも、国よりも、世界中の誰よりも!」


「……知ってます。とっくにバレてますよ、そんなこと」


私は涙でぐしゃぐしゃになった顔を彼の肩に押し付け、背中に腕を回した。

温かい。 この体温こそが、私が求めていた「報酬」の全てだ。


「……契約、延長です」


私は鼻をすすりながら告げた。


「ただし、今度は条件が変わります。給料はいりません。その代わり……毎日、私と一緒にご飯を食べて、同じ家に帰って、私より一秒でも長生きしてください」


「……厳しい条件だな」


アレクセイ様が顔を上げ、涙に濡れた笑顔を見せた。 それは、今まで見た中で一番、情けなくて、最高に幸せそうな笑顔だった。


「だが、受諾する。……交渉成立だ」


彼がゆっくりと顔を近づけてくる。

もう、誰も邪魔するものはいない。

眼鏡のレンズが触れ合い、そして唇が──。


ドォォォォォンッ!!


その時。 窓の外で、天地を揺るがすような爆音が響いた。


「っ!?」


「な、なんだ!?」


私たちは飛び上がって離れた。 敵襲か? 爆破テロか? アレクセイ様が私を背に庇い、窓際へと走る。 そして、カーテンを開け放った瞬間──私たちは絶句した。


「……は?」


王宮の上空に、色とりどりの煙が上がっていた。 赤、青、黄色。 それは攻撃魔法ではない。

祝砲──いや、巨大な「花火」だ。


そして、王宮のバルコニーからは、ファンファーレが高らかに鳴り響いている。


『国民の皆様! 本日は我が国の危機を救った英雄、アインスワース宰相の功績を称える祝賀パレードであります!』


拡声魔法によるアナウンスが、王都中に響き渡る。


「……パレード?」


アレクセイ様が呆然と呟いた。 そういえば、先日「偽造金貨事件の解決を祝う式典」を予定していると、儀典局が言っていたような気がする。

でも、まさか今日? しかも今?


『さあ、宰相閣下! どうぞバルコニーへお出ましください! 国民が、貴方と──その傍らに立つ「勝利の女神」の姿を待ち望んでおります!』


「……女神?」


私とアレクセイ様は顔を見合わせた。

女神とは、まさか私のことだろうか?

地味な眼鏡の経理係が?


ドンドンドン! 執務室のドアが激しく叩かれた。


「閣下! リアナ嬢! 何をモタモタしているのですか! パレードの準備が整いました!」


入ってきたのは、満面の笑みを浮かべたルーカス様と、侍女たちだった。 彼らの手には、式典用の豪華な衣装が握られている。


「え、あの、私たちは今、非常に重要な契約更改の最中で……」


「後回しです! 国民が一目見たいと騒いでいるのです!」


ルーカス様は有無を言わせず、アレクセイ様を引っ張っていく。 侍女たちは私を取り囲み、「さあリアナ様、お着替えを!」とドレスを押し付けてくる。


「ちょ、待って! アレクセイ様!」


「リアナッ! ……クソッ、タイミングが最悪だ!」


アレクセイ様が連行されながら、悲痛な叫びを上げる。 せっかくのプロポーズ(仮)が。 感動のファーストキスが。 国の祝賀ムードという「計算外の変数」によって、粉々に吹き飛ばされてしまったのだ。


「……覚えていろ、儀典局……! 後で予算をゼロにしてやる……!」


宰相の呪詛の言葉は、歓声とファンファーレにかき消されていった。 私たちの「退職の日」は、なぜか「国民的英雄としてのデビュー日」へと、強制的に書き換えられようとしていた。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

感想や評価・ブックマーク、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ