第44話「退職の日、宰相閣下の前代未聞の職権濫用」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
「……以上で、全ての業務の引き継ぎを完了いたします」
朝の光が差し込む宰相執務室。 塵一つなく磨き上げられた床。 背の順に整列されたファイル。
そして、デスクの上に置かれた一本の鍵。
私は深く一礼した。今日、この瞬間をもって、私の雇用契約は満了する。
「長い間、お世話になりました。……ご健勝をお祈り申し上げます」
顔を上げると、デスクの向こうにいるアレクセイ様と目が合った。 彼は彫像のように動かない。
その顔色は蒼白で、目の下には濃い隈があった。昨夜、一睡もしていないのだろう。 私も同じだ。お互いに、ボロボロの顔をしている。
「……行くのか」
絞り出すような声だった。
「はい。借金は完済されました。私にはもう、ここに留まる理由がありません」
「……理由は、借金だけか?」
「契約書には、そう書いてあります」
私は心に蓋をして、事務的に答えた。 そうしなければ、崩れ落ちてしまいそうだったから。
「では、失礼します」
私は踵を返し、扉へと歩き出した。 カツ、カツ、カツ。 ヒールの音が、カウントダウンのように響く。 あと十歩。五歩。三歩。 ノブに手をかける。 これで終わり。
さようなら、私の愛した氷の宰相──。
ダンッ!!
背後から、凄まじい音がした。 デスクを蹴り倒すような音。 そして、突風のような気配が私に迫る。
「行くなッ!!」
「え……?」
振り返る間もなかった。 背後から、強い力で抱きすくめられた。 アレクセイ様だ。 彼は私の背中に覆いかぶさるようにして、ドアノブにかけた私の手を、自分の手で強引に押さえつけた。
「か、閣下……? 何を……」
「行くな。行かせない」
耳元で聞こえる声は、宰相の威厳など欠片もない、駄々っ子のような響きだった。 彼の腕が、私の体に食い込むほど強く締め付けられる。 震えている。 あの「氷の宰相」が、小刻みに震えている。
「契約終了です。これは監禁罪に当たります」
「知ったことか! 私が法だと言っただろう!」
「滅茶苦茶です……!」
「ああ、滅茶苦茶だ! 計算も論理も知るか! 君がいなくなる世界など、私にとってはエラーでしかないんだ!」
アレクセイ様は私を強引に反転させ、向き合わせた。 至近距離にある彼の顔は、苦悶に歪んでいた。 アメジストの瞳が、潤んで揺れている。
「……金を払えばいいんだろう?」
彼は私の肩を掴んで揺さぶった。
「いくらだ? 君の時間を買うには、いくら積めばいい? 五千万ベルか? 一億か?」
「お金の問題じゃありません!」
「なら十億だ! 私の個人資産を全部やる! 屋敷も、鉱山も、権利書も全部だ!」
彼は懐から、財布やら小切手帳やらを無造作に取り出し、私に押し付けてきた。
「足りないなら爵位もやる! 『公爵夫人』の座はどうだ? 国で一番高い地位だぞ!」
「いりません! そんなもの……!」
「なら命だ! 私の命をやる! 心臓でも何でもくれてやるから……!」
彼は私の手を取り、自分の左胸──心臓の上に強く押し当てた。
ドクン、ドクン、ドクン。 早鐘のように打つ鼓動が、掌を通して私の全身に伝わってくる。
「頼む、リアナ……! 私の『計算機』を辞めるな! 私の側から消えないでくれ!」
それは、懇願だった。 国を統べる男が、プライドも体面もかなぐり捨てて、ただ一人の女に縋り付いている。「計算機」と言いながら、その響きは「最愛の人」と同義だった。
私の目から、堪えていた涙が溢れ出した。
「……馬鹿です、貴方は」
私は彼の手を握り返した。
「全財産? 爵位? 命? ……そんなもの貰っても、贈与税と相続税で破産しますよ」
「税金など私が免除させる!」
「そういう問題じゃありません……! 計算が合わないんです!」
私は泣きながら、彼の胸を拳で叩いた。
「私が欲しいのは……お金じゃありません。貴方の資産価値なんてどうでもいい」
「なら、何を……!」
「貴方です! ……ただの、アレクセイという人間が欲しいんです!」
言った。言ってしまった。 私の人生で一番、非論理的で、利益の出ない要求。
「貴方がいないと……私の人生は赤字なんです。どんなに大金を持っても、貴方の笑顔がなきゃ、空っぽの損失なんです!」
「……リアナ」
アレクセイ様の目が、驚きに見開かれた。 そして次の瞬間、彼は私を壊れそうなほど強く抱きしめた。
「……ああ、クソッ……! 愛してる!」
彼は私の首筋に顔を埋め、震える声で叫んだ。
「愛してる、リアナ! 数字よりも、国よりも、世界中の誰よりも!」
「……知ってます。とっくにバレてますよ、そんなこと」
私は涙でぐしゃぐしゃになった顔を彼の肩に押し付け、背中に腕を回した。
温かい。 この体温こそが、私が求めていた「報酬」の全てだ。
「……契約、延長です」
私は鼻をすすりながら告げた。
「ただし、今度は条件が変わります。給料はいりません。その代わり……毎日、私と一緒にご飯を食べて、同じ家に帰って、私より一秒でも長生きしてください」
「……厳しい条件だな」
アレクセイ様が顔を上げ、涙に濡れた笑顔を見せた。 それは、今まで見た中で一番、情けなくて、最高に幸せそうな笑顔だった。
「だが、受諾する。……交渉成立だ」
彼がゆっくりと顔を近づけてくる。
もう、誰も邪魔するものはいない。
眼鏡のレンズが触れ合い、そして唇が──。
ドォォォォォンッ!!
その時。 窓の外で、天地を揺るがすような爆音が響いた。
「っ!?」
「な、なんだ!?」
私たちは飛び上がって離れた。 敵襲か? 爆破テロか? アレクセイ様が私を背に庇い、窓際へと走る。 そして、カーテンを開け放った瞬間──私たちは絶句した。
「……は?」
王宮の上空に、色とりどりの煙が上がっていた。 赤、青、黄色。 それは攻撃魔法ではない。
祝砲──いや、巨大な「花火」だ。
そして、王宮のバルコニーからは、ファンファーレが高らかに鳴り響いている。
『国民の皆様! 本日は我が国の危機を救った英雄、アインスワース宰相の功績を称える祝賀パレードであります!』
拡声魔法によるアナウンスが、王都中に響き渡る。
「……パレード?」
アレクセイ様が呆然と呟いた。 そういえば、先日「偽造金貨事件の解決を祝う式典」を予定していると、儀典局が言っていたような気がする。
でも、まさか今日? しかも今?
『さあ、宰相閣下! どうぞバルコニーへお出ましください! 国民が、貴方と──その傍らに立つ「勝利の女神」の姿を待ち望んでおります!』
「……女神?」
私とアレクセイ様は顔を見合わせた。
女神とは、まさか私のことだろうか?
地味な眼鏡の経理係が?
ドンドンドン! 執務室のドアが激しく叩かれた。
「閣下! リアナ嬢! 何をモタモタしているのですか! パレードの準備が整いました!」
入ってきたのは、満面の笑みを浮かべたルーカス様と、侍女たちだった。 彼らの手には、式典用の豪華な衣装が握られている。
「え、あの、私たちは今、非常に重要な契約更改の最中で……」
「後回しです! 国民が一目見たいと騒いでいるのです!」
ルーカス様は有無を言わせず、アレクセイ様を引っ張っていく。 侍女たちは私を取り囲み、「さあリアナ様、お着替えを!」とドレスを押し付けてくる。
「ちょ、待って! アレクセイ様!」
「リアナッ! ……クソッ、タイミングが最悪だ!」
アレクセイ様が連行されながら、悲痛な叫びを上げる。 せっかくのプロポーズ(仮)が。 感動のファーストキスが。 国の祝賀ムードという「計算外の変数」によって、粉々に吹き飛ばされてしまったのだ。
「……覚えていろ、儀典局……! 後で予算をゼロにしてやる……!」
宰相の呪詛の言葉は、歓声とファンファーレにかき消されていった。 私たちの「退職の日」は、なぜか「国民的英雄としてのデビュー日」へと、強制的に書き換えられようとしていた。
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