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第42話「最後の業務は、引き継ぎではなく「思い出作り」」

「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」



「……閣下。これは何の冗談ですか?」


翌朝。 私は完璧に仕上げた『業務引き継ぎマニュアル(全十巻)』をデスクに積み上げ、アレクセイ様に問いただした。 彼は私のマニュアルを一瞥もしないまま、コートを羽織って扉の前に立っている。


「冗談ではない。業務命令だ」


「ですから、引き継ぎをしないと後任の方が困ります。私の独自計算式アルゴリズムは、初見では解読不能ですよ?」


「後任などいない」


彼はきっぱりと言い切った。


「私が全部やる。……君の代わりなど、この世に存在しないからな」


「過労死しますよ?」


「構わん。……それより、行くぞ。今日は『重要拠点』の最終視察だ」


アレクセイ様は強引に私の手を取り、執務室から連れ出した。 重要拠点? 財務省か、それとも造幣局か。 しかし、彼が向かった先は、予想もしない場所だった。


「……ここですか? 重要拠点というのは」


辿り着いたのは、王宮の裏庭。 雑草が生い茂り、資材が雑然と置かれた、殺風景な場所だ。

でも、私にとっては見覚えのある場所だった。


「ああ。ここが、すべての始まりだ」


アレクセイ様は地面の一角を革靴のつま先で指した。 そこには、私が数ヶ月前、木の枝で書きなぐった数式の跡が、雨風に晒されて微かに残っていた。


「……あの時、君はここで、一人でブツブツと国家予算の矛盾を計算していたな」


「見ないでください。黒歴史です」


「いや、美しかった。泥だらけの靴で、ボロボロの服で……それでも君の瞳は、どんな貴族よりも知的に輝いていた」


彼は懐かしそうに目を細め、隣にあるベンチに腰掛けた。 そして、隣をポンポンと叩く。


「座れ。……あの日と同じ景色を、もう一度見たかったんだ」


私は躊躇いながらも、彼の隣に座った。 肩が触れ合う距離。 風が吹き抜け、木々の葉がざわめく音だけが響く。


「……リアナ」


「はい」


「私は、君に出会うまで……この世界がただの『チェス盤』に見えていた」


アレクセイ様がポツリと語り出した。


「人間は駒。感情はノイズ。全ては利益と損失で計算できるゲームだと思っていた。……だが、君という『エラー』が、私の盤面を茶苦茶にした」


「エラー扱いは心外です」


「最高の褒め言葉だ。……君のおかげで、私は初めて、盤上の駒ではなく『生きた人間』として呼吸ができた気がする」


彼は私の手を取り、その指に自分の指を絡ませた。 冷たい指先。でも、そこには確かな脈動がある。


「……契約が切れたら、君はもう、ここには来ないのか?」


「……はい。部外者立ち入り禁止区域ですから」


「そうだな。……規則だ」


アレクセイ様は自嘲気味に笑った。 宰相である彼が、その気になれば規則などいくらでもねじ曲げられるはずだ。 「特別通行証」を発行するなり、私を個人的に招待するなりすればいい。

でも、彼はそれをしない。いや、できないのだ。


(……自信がないのね)


私は悟った。 彼は「氷の宰相」としては無敵だが、一人の男としては臆病だ。

「借金」という鎖がなければ、私が自分の側にいてくれるはずがない。 契約が終われば、私は喜んで去っていくだろう。 そう思い込んでいる。


「……行きましょうか、次の視察へ」


私は何も言えず、立ち上がった。 否定したい。

「鎖なんてなくても、貴方の隣にいたい」と。

でも、それを言ってしまうことは、新たな「契約」を彼に求めることにならないだろうか? 対等になりたくて借金を返したのに、感情で彼を縛ってしまっては、元の木阿弥だ。


私たちは裏庭を後にした。 その後も、彼は私を連れ回した。 初めて一緒に行った大衆食堂。 偽造金貨を見つけた市場。 毒針から私を庇った広場。

どれも、公的な「重要拠点」ではない。

私たち二人だけの「思い出の場所」だ。


「……この煮込みシチュー、やはり美味いな」


「今日は塩味が少し濃いですね」


「そうか? 君と食べるなら、泥水でも蜂蜜の味がするが」


「味覚障害です。病院に行きましょう」


軽口を叩き合いながらも、私たちの間には常に見えない壁があった。「契約終了まで、あと五日」。 そのカウントダウンが、どんな甘い言葉も遮ってしまう。


夕暮れ時。 全ての「視察」を終え、執務室に戻ってきた私たちは、無言で荷物の整理を始めた。

私の私物は少ない。ボロボロの家計簿。

お気に入りのマグカップ。 そして──。


「……閣下。これ、お返しします」


私は胸ポケットから、一本の万年筆を取り出した。 アレクセイ様が私にくれた、最高級の万年筆。 私の瞳と同じ、シャンパンゴールドのインクが出る特注品だ。


「……なんだ、それは」


「会社の備品です。退職時に返却するのがルールですので」


デスクの上に置く。 カチリ、と硬質な音が響いた。 アレクセイ様はペンを見つめ、それからゆっくりと私に視線を移した。 その瞳が、怒りと悲しみで揺れている。


「……いらん」


「え?」


「それは備品ではない。私から君への……個人的な贈り物だ」


「ですが、あまりにも高価すぎます。退職金代わりにするには……」


「金の話をするな!!」


アレクセイ様が叫んだ。 彼は万年筆を掴み取り、私の手を取って、無理やり握らせた。


「持って行け。……捨ててもいい。売って金にしてもいい。だが、私の目の前で返すな!」


「かっ、か……?」


「それを返されたら……私が君に残したものが、何一つなくなってしまうだろう!」


彼の声が震えていた。

子供のような、必死な叫び。


「君の時間は借り物だった。君の体も、才能も、契約で借りていただけだ。……だが、そのペンだけは! 君がそのペンで書いた文字だけは、私が君に与えたものだと思わせてくれ!」


彼は私の手を両手で包み込み、万年筆ごと握りしめた。 痛いほど強い力。


「……頼む。これを持っていてくれ。……君がどこへ行こうと、何かを書くたびに、一瞬でいいから私を思い出してくれるように」


「……」


私は唇を噛み締めた。ずるい。

そんな風に言われたら、突き返せるわけがない。

これは「退職金」なんかじゃない。もっと重くて、厄介で、一生消えない「呪い」のアイテムだ。


「……分かりました。頂戴します」


私は万年筆を胸に抱いた。


「大切にします。……インクが切れても、芯が折れても、一生」


「……ああ」


アレクセイ様は力を抜いて、寂しげに微笑んだ。


「そのインクの色は、君の瞳の色だ。……世界で一番、美しい色だ」


窓の外で、一番星が光った。

最後の日まで、あとわずか。

私たちは互いに「好きだ」という言葉だけを飲み込んだまま、ただ静かに見つめ合っていた。

言葉にしてしまえば、この脆い関係が壊れてしまいそうで。 そして、別れがもっと辛くなることを、二人とも知っていたから。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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