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第41話「完済通知書、震えるペンの先」

「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」



王立銀行発行の小切手。 額面、五千万ベル。

それは、羊皮紙一枚とは思えないほどの物理的な重さを持っていた。 私の手の中で、それは「自由への切符」であると同時に、アレクセイ様との縁を切る「絶縁状」のように感じられた。


(……行きましょう、リアナ。これが貴女の望んだゴールなのだから)


私は震える足を叱咤し、廊下を歩いた。

一歩進むごとに、心臓が冷えていく。

宰相執務室の前。 いつもならノックもせずに飛び込んで「書類が散らかってます!」と怒鳴るところだ。 でも今日は、手が震えてノックができない。


「……入れ。そこにいるのだろう」


中から、低い声がした。 気配でバレている。

私は深呼吸をし、重い扉を開けた。


「失礼いたします」


夕暮れの執務室。 アレクセイ様はデスクに座り、窓の外を見ていた。 逆光で表情は見えない。

だが、その背中から漂う空気は、かつてないほど張り詰めていた。


「……報奨金、受け取ったようだな」


「はい。先ほど、確かに」


私はデスクの前に進み出た。彼との距離、わずか二メートル。この距離が、今日は無限の谷のように遠い。


私は小切手をデスクの上に置いた。

そして、徹夜で作成した『借入金完済計算書』をその横に添えた。


「閣下。これまでの借入金、および利息、遅延損害金、その他諸経費……全てを含めた全額です。これにて、完済とさせていただきます」


事務的な口調を保つのが精一杯だった。

少しでも気を抜けば、声が震え、泣き出してしまいそうだったから。


アレクセイ様はゆっくりと椅子を回し、私と向き合った。 そのアメジストの瞳が、小切手を見つめる。 そして、眉間に深い皺を寄せた。


「……計算が、合わないな」


「はい?」


「足りないと言っている」


彼は小切手を指先で弾いた。


「五千万ベル? 馬鹿な。私の計算では、君の借金はあと一億ベルは残っているはずだ」


「はあ!? 一億!? どこの悪徳金融ですか!」


私は思わず素の声で叫び、そろばんを構えた。


「法定利息は年一五%です! 私の計算に間違いはありません! どこからその一億なんて数字が出てきたんですか!」


「……慰謝料だ」


「い、慰謝料……?」


「ああ。君が私の心を掻き乱し、業務に支障をきたしたことへの精神的苦痛に対する賠償金だ。日割り計算で加算している」


アレクセイ様は真顔で、子供のような理屈を並べ立てた。


「それから、君が私の夢に出てきた出演料。

君が私のハンカチを使ったレンタル料。君が私の……」


「閣下! 適当なことを言わないでください!」


私はデスクをバンと叩いた。


「そんな項目、契約書には一切記載されていません! 契約外の請求は無効です!」


「契約書の解釈はわたしに一任されている!」


「公序良俗に反する解釈は法的に無効です! 私は経理係ですよ? 数字の誤魔化しは通用しません!」


私が論破するたびに、アレクセイ様の表情が崩れていく。 焦り。絶望。そして、懇願。

彼はなりふり構わず、どんな理屈をつけてでも、

この小切手を受け取るまいと抵抗していた。

「借金」という鎖が切れてしまえば、私を繋ぎ止める術がないことを知っているから。


「……リアナ」


万策尽きたアレクセイ様が、掠れた声で私を呼んだ。


「……本当に、返すのか?」


「……はい」


「返さなくていい。一生、あるままでいい。私が許す」


「駄目です。……それでは、対等になれません」


私は唇を噛み締めた。


「私は、貴方の『お気に入り』や『愛人』として側にいたいわけじゃありません。 私は……誇りある経理係として、自分の足で立ちたいんです」


借金があるうちは、私は彼の所有物だ。

対等なパートナーではない。

もし、彼と本当の意味で向き合いたいなら──

この借金は、精算しなければならない。

それが、私なりの「愛」への誠実さだった。


「……そうか」


アレクセイ様は力なく笑った。

その笑顔は、胸が張り裂けそうになるほど悲しげだった。


「君は、強いな。……私なんかより、ずっと」


彼は震える手で、引き出しから「完済証明書」の用紙を取り出した。朱肉の蓋を開ける。

決裁印を手に取る。


だが、その手が空中でピタリと止まった。


「……っ」


彼の視線が、紙面の一点に釘付けになっている。 朱肉をたっぷりとつけた印鑑から、赤いインクがポタリと一滴、紙の端に落ちた。 白い紙の上に広がっていく赤は、まるで傷口から流れる血のように見えた。


「……これを押せば、君は……他人になるのか」


絞り出すような、独り言のような呟き。

彼は印鑑を握りしめたまま、動けないでいる。

理性が「押せ」と命じているのに、感情が物理的な抵抗となって、腕を硬直させているのだ。


「……『借金』という理由がなければ、君をここに置いておくことすらできない。……私の無力さが、憎いな」


「……閣下」


私は声をかけようとして、喉が詰まった。

止めて。押さないで。……そんな矛盾した叫びが、口をついて出そうになる。


しかし、アレクセイ様は深く息を吸い込み、落ちたインクの染みを見つめたまま、迷いを断ち切るように目を閉じた。


「……いや。君の決意を、私が汚してはいけないな」


カッ、と目を見開く。

その瞳は潤んでいるが、もう迷いはなかった。


ダンッ……!


執務室に、重い音が響いた。

アレクセイ様が、証明書に印を押した音だ。

鮮やかな朱色が、紙の上に刻印される。

『債務完済・契約解除』の文字の上に。


「……受領した。リアナ・フォレスト嬢」


彼は証明書を私に差し出した。

私はそれを受け取る。紙切れ一枚。

でも、五千万ベル分の重みがある紙切れ。


「……ありがとうございます、アインスワース公爵閣下」


私は深く頭を下げた。 これで、終わりだ。

私はもう、彼の「計算機」ではない。


「……今後の予定だが」


アレクセイ様が、感情を殺した事務的な声で言った。


「退職の手続きや、業務の引き継ぎがある。……今月末を、最終出社日とする」


「……了解しました」


カレンダーを見る。 今日は二十三日。

月末まで、あと一週間。


「残り一週間。……最後まで、私の補佐官として完璧な仕事を期待する」


「お任せください。……立つ鳥跡を濁さず。完璧に仕上げてみせます」


私たちは視線を交わした。

お互いに、言いたいことは山ほどある。

「行かないで」「行きたくない」。

でも、その言葉は喉の奥で氷のように固まり、出てこなかった。


「では、失礼します」


私は一礼し、執務室を後にした。

廊下に出た瞬間、力が抜けて壁に寄りかかった。 手の中にある完済証明書が、涙で滲んで見えない。


「……馬鹿ね、私」


自由になったはずなのに。 一番欲しかったものを手に入れたはずなのに。 心の中には、冷たい風が吹き抜ける空洞だけが残っていた。


あと一週間。 そのわずかな時間が、私たちに残された「猶予」だった。この一週間で、何ができるだろう。 数字では計算できないこの空白を、どうやって埋めればいいのだろう。


私は証明書を抱きしめ、夕闇の廊下を一人、歩き出した。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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