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第34話「深夜の執務室、眠れる森の経理係」

「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」



午前三時の王宮は、死んだように静まり返っていた。 宰相執務室。 そこには、ランプの明かりだけを頼りに、鬼気迫る形相でそろばんを弾く私の姿があった。


「……違います。ガリソン商会の輸送費、一割上乗せされています。この分が裏金としてプールされているはず……」


目の前には、先日押収した一億ベルの帯封と、

過去十年の貿易記録。そして、例の「黒い裏帳簿」。 これらを突き合わせ、金の流れを可視化する作業は、砂漠で砂金を探すような途方もない作業だった。


「リアナ。少し休め」


向かいのデスクで、同じく書類の山と格闘していたアレクセイ様が声をかけてきた。

彼もまた、ここ三日間まともに寝ていないはずだが、その美貌には疲れの色が見えない。むしろ、獲物を追い詰める興奮で瞳が冴え渡っている。


「休めません。敵の資金洗浄ロンダリングルートを特定するまで、あと少しなんです。ここさえ解明できれば、財務大臣の首根っこを押さえられます」


「だが、君の手が震えているぞ」


「武者震いです。……あと、カフェインの過剰摂取による副作用です」


私は強がって見せたが、視界がぐにゃりと歪んだ。 文字が踊る。

数字が逃げていく。 脳内電卓のバッテリー残量が、限りなくゼロに近い。


「……あと、一本だけ。この線を繋げば……」


ペンを握る手に力が入らない。 瞼が、鉛のように重い。

ガリソン商会の……裏帳簿の……三ベルの……。


「リアナ?」


アレクセイ様の声が、遠くの水底から聞こえるように響いた。

私の意識は、そこでプツリと途切れた。


カタン。 ペンが手から滑り落ちる音がした。

アレクセイは顔を上げ、デスクに突っ伏したリアナを見た。


「……リアナ」


返事はない。 規則正しい寝息だけが聞こえる。

ついに限界が来たようだ。


アレクセイはペンを置き、音もなく立ち上がった。 彼女のそばへ歩み寄る。 普段は「鉄の女」のように強気な彼女が、今は無防備な子供のように眠っている。眼鏡が少しズレて、長い睫毛が頬に影を落としている。その頬は少し痩せたように見えた。


「……すまない」


彼は低く呟いた。 本来なら、こんな重荷を背負わせるべきではない。 国の腐敗も、横領も、本来は政治家である自分が解決すべき問題だ。

それを、たかだか二十歳の、小さな肩に背負わせてしまっている。


「君は計算機ではない。ただの、愛しい女性だ」


アレクセイは自分の着ていたジャケットを脱ぎ、

そっと彼女の肩にかけた。 最高級のカシミヤが、彼女の華奢な背中を包み込む。そして、彼は彼女を起こさないように、デスクの向かい側に椅子を引き寄せ、そこに座った。


仕事はまだ山積みだ。 だが、今は彼女の寝顔を見ていたかった。

この寝顔を守るために、自分は戦っているのだと、再確認するために。


「……んぅ……」


リアナが寝言を漏らし、身じろぎをした。

ジャケットに顔を埋めるようにして、安心したように息を吐く。その唇が、無防備に開いている。


アレクセイの中に、衝動が生まれた。 触れたい。 この柔らかい頬に、唇に、自分の証を刻みたい。 契約や借金といった理屈ではなく、ただの男としての欲求。


彼はゆっくりと顔を近づけた。 彼女の吐息がかかる距離。

インクと、彼女自身の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。


「好きだ」


誰もいない深夜の執務室で、彼は初めて言葉にした。

誰にも聞かれない、彼女にすら届かない、独り言のような告白。


彼は彼女の頬に、落ちていた髪を払い──そして、唇を寄せた。 触れるか触れないか、ギリギリの距離。 キスをしてしまえば、彼女は起きるかもしれない。 起きて、「セクハラです」「別料金です」と騒ぐかもしれない。 それはそれで悪くないが、今の彼女には休息が必要だ。


彼は唇の軌道を僅かにずらし、彼女の柔らかな頬に、羽が触れるような口づけを落とした。


「……おやすみ、私の『眠れる森の美女』」


彼は満足げに微笑むと、再びペンの音を立てないように、静かに仕事を再開した。窓の外が、白々と明け始めるまで。


(……ここは、どこ?)


夢の中にいた。 真っ白な空間。 そこには、空から無数の数字が降ってきていた。『1』『0』『9』……。 数字たちは楽しそうに踊り、私の周りを取り囲む。


「計算が合わないの……」


私が嘆くと、数字の雨の中から、一人の人物が現れた。 銀色の髪。紫色の瞳。

背中には、黒い翼のようなコートを生やしている。


『数字の神様?』


私が尋ねると、神様はニヤリと笑った。

その顔は、なぜかアレクセイ様に瓜二つだった。


『解けない数式などない。……私が一緒に解いてやる』


神様が指を鳴らすと、バラバラだった数字たちが整列し、一つの美しい式へと組み上がっていく。 そして、その答えは──。


『愛(∞)』


「…無限大? 計算不能ってことじゃないですか」


私が文句を言うと、神様は優しく私の頭を撫でてくれた。 その手はとても温かくて、大きくて……。


「……はっ!」


私はガバッと飛び起きた。 窓の外は既に明るい。 朝だ。寝てしまった。


「あ、あああ……やってしまいました……! 貴重な夜間労働時間を睡眠に充ててしまうとは!」


自己嫌悪に陥りながら顔を上げると、肩から何かが滑り落ちた。 黒いジャケット。 アレクセイ様のものだ。 そして、目の前の椅子には、既に身支度を整えたアレクセイ様が座り、優雅にモーニングコーヒーを飲んでいた。


「おはよう、リアナ。良い夢は見られたか?」


「か、閣下! 起こしてくださいよ! おかげで三時間のロスタイムが……!」


「君の寝顔が面白すぎて、起こすのが惜しかったんだ」


彼は意地悪く笑い、自分の頬を指差した。


「鏡を見てみろ。傑作だぞ」


言われて手鏡を見る。 私の右頬に、黄色い付箋が貼り付けられていた。

そこには、彼の手書きでこう書かれていた。


『ヨダレが垂れていたぞ。拭いておいた』


「……ッ!!」


私は慌てて頬を擦った。 ヨダレ!? アレクセイ様のジャケットに!?

クリーニング代が!


「う、嘘です! 垂れてません! 多分!」


「証拠隠滅しても無駄だ。しっかりと目に焼き付けた」


彼は楽しそうに笑っている。 私は真っ赤になって付箋を剥がし、くしゃくしゃに丸めた。 最悪だ。せっかく「出来る女」を演じていたのに、寝顔を見られた挙句、ヨダレまで指摘されるなんて。


でも。 ふと、違和感を覚えた。 付箋が貼られていた頬のあたり。 そこだけが、妙に熱い。 ヨダレを拭かれた感触というよりは、もっと……柔らかくて、温かい何かが触れたような余韻が残っている。


(……なんだろう、これ)


私は無意識にその場所を指で触れた。

夢の中で、神様に撫でられた感触に似ている。


「……リアナ。準備はいいか?」


アレクセイ様が立ち上がり、空気が切り替わった。 彼の顔から笑みが消え、戦士の顔になる。


「君が寝ている間に、ガリソン商会の資金ルートを特定した。……黒幕の居場所もな」


「えっ、本当ですか!?」


「ああ。君の書きかけの計算式がヒントになった」


彼は私に手を差し出した。


「行くぞ。……今日こそ、決着をつける」


私は頬の熱を振り払い、彼の手を強く握り返した。


「はい、閣下。……完膚なきまでに、叩き潰してやりましょう」


眠っている間に何があったのかは分からない。

でも、今の私には無限の力が湧いている気がした。 あの夢のせいか、それとも、肩に残る彼のジャケットの温もりのせいか。


私たちは執務室を出た。 目指すは、財務大臣の私邸。 そこには、国を食い物にする「黒い鼠」たちが集まっているはずだ。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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