第3話「宰相執務室という名の樹海、本日から開拓します」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
王宮の廊下に敷かれた深紅の絨毯は、ふかふかと足首まで沈み込むような厚みがあった。
(この絨毯、一メートルあたり一万二千ベルは下らないわね。維持費だけで私の元・年収を超えそう……)
私は緊張で胃を痛めながらも、視界に入る調度品の資産価値を勝手に鑑定せずにはいられなかった。
今日が初出勤。 肩書は「宰相補佐官付経理係」。
実態は、氷の宰相アレクセイ様の専属奴隷(借金返済要員)である。
案内してくれた衛兵が、重厚なオーク材の扉の前で立ち止まった。
「こちらが宰相閣下の執務室です。……では、私はこれで」
衛兵はなぜか同情に満ちた目を私に向け、逃げるように去っていった。 嫌な予感がする。
昨日の契約の時、私の「不正感知」センサーが鳴り響いていたのを思い出す。
「……失礼いたします。本日より着任いたしました、リアナ・フォレストです」
私は覚悟を決めて、ノブを回した。
ズザザザザザァァァッ──!!
扉を開けた瞬間、視界を覆ったのは「白」だった。 雪崩だ。ただし、雪ではない。 天井近くまで積み上げられていた書類の塔が崩壊し、私に向かって雪崩れ込んできたのだ。
「っきゃあ!?」
悲鳴を上げる間もなく、私は紙の海に飲み込まれた。 重い。紙といえども、束になれば凶器だ。
必死に書類をかき分けて顔を出すと、そこには地獄が広がっていた。
広い部屋だということは分かる。だが、床が見えない。 机、椅子、ソファ、ありとあらゆる家具が、
無造作に放り出された書類の山に埋もれていた。
ここは執務室ではない。パルプの樹海だ。
「……遅い」
樹海の奥──かろうじて原形を留めている執務机の向こうから、不機嫌な声が響いた。 書類の山を優雅にかき分け、というより魔法で浮かせ、アレクセイ様が姿を現す。 その姿は今日も完璧に美しく、スーツには皺一つないが、目の下には僅かに隈があった。
「あ、あの、おはようございます、閣下。これは一体……」
「見ての通りだ。各省庁から上がってくる決裁書類、陳情書、予算申請書、その他諸々のゴミの山だ」
「ゴミ……いえ、重要書類では?」
「私にとってはゴミと同義だ。無能な文官どもが、要点もまとめずに送りつけてくるせいで、処理が追いつかん」
アレクセイ様はため息をつき、近くの書類の束を足で小突いた。
「私の秘書官は先週、胃潰瘍で辞めた。その前任者は過労で倒れた。ここ一ヶ月、整理をする者がいない。……どうだ? 五千万ベルの借金を背負ってまで来る場所ではなかったと後悔したか?」
彼は試すような目で私を見た。
この惨状を見て、泣いて逃げ出すとでも思っているのだろうか。
私は眼鏡の位置を直し、足元に散らばる書類を一枚拾い上げた。 『王立庭園における季節花の植え替えに関する予算申請書』。 日付は二ヶ月前。
未決裁のまま埋もれている。
(……非効率だ)
私の内側で、カチリとスイッチが入る音がした。
恐怖や不安よりも先に、猛烈な「もったいない精神」が鎌首をもたげたのだ。 この書類が埋もれている間にも、現場の庭師たちは待機を余儀なくされ、無駄な人件費が発生している。この部屋にある書類の山は、ただの紙ではない。国庫から垂れ流されている「損失」そのものだ。
「……閣下。質問してもよろしいですか?」
「なんだ」
「この部屋の決裁権限を持つのは閣下お一人ですか?」
「そうだ。私が全て目を通し、承認印を押す。他人の判断など信用できん」
「では、私がこの部屋を『機能的』に作り変えても、文句はおっしゃいませんね?」
私が睨みつけるように言うと、アレクセイ様は少し驚いたように目を丸くした。
「……好きにしろ。ただし、私の仕事の邪魔はするな」
「了解しました。では──」
私は落ちていた紐で長い髪をきりりと縛り上げ、腕まくりをした。
「これより、樹海の開拓を開始します」
「まず、書類を三つに分類します! 『緊急(今日中)』『通常(今週中)』『ゴミ(焼却)』です!」
「おい、ゴミの基準が過激すぎないか?」
「中身のない社交辞令だけの挨拶状や、既得権益を守るためだけの無意味な陳情書はゴミです。保管スペース(坪単価)の無駄です!」
私は鬼になった。 アレクセイ様が執務をしている横で、猛烈な勢いで書類の山を切り崩していく。
私の特技は計算だけではない。 実家の屋敷で、執事もメイドもいない中、一人で家事を回していた経験がここで火を吹いた。
書類の内容を斜め読みし、一瞬で重要度を判断する。 「不正感知」スキルが役立った。重要な数字が含まれている書類は「重く」、中身のない書類は「軽く」感じるのだ。
「これは財務省へ差し戻し。計算が合っていません」
「これは閣下の決裁が必要です。期限は昨日です」
「これは……あーもう! お茶菓子代を経費で落とそうとしないでください!」
バサバサバサッ! 私の手によって、書類が次々と宙を舞い、あるべき場所へと収まっていく。 アレクセイ様は最初こそ眉をひそめていたが、次第に私の持ってくる書類の的確さに気づいたようで、無言でペンを動かす速度を上げた。
「……おい、リアナ」
「はい、なんでしょう! 今忙しいので手短にお願いします!」
「お前、その処理速度はどうなっているんだ。三日分を三十分で片付けたぞ」
「三十分あれば、複利計算なら百通りはできます。……それより閣下、足元にあるその箱、邪魔です」
「これは未処理の……いや、待て。これは先月紛失したと思っていた、対隣国通商条約の原案か?」
アレクセイ様が箱を開け、絶句した。
国を揺るがす重要書類が、ソファーの下から発掘されたのだ。
「こんな所にあったとは……。前任の秘書官は何をしていたんだ」
「掃除をサボっていたんでしょう。埃の積もり具合からして、三ヶ月は放置されています」
私はハタキを振り回しながら、容赦なく言い放った。
「閣下、優秀なのは分かりますが、環境整備を怠るとパフォーマンスが低下します。一秒のロスも、積もれば億の損失ですよ」
「……耳が痛いな」
アレクセイ様が苦笑する。
その表情には、昨日のような冷徹さはなく、どこか少年のような純粋な驚きがあった。
それから四時間後。 樹海は消滅した。
「……信じられん」
アレクセイ様は、ピカピカに磨き上げられた床と、
綺麗にラベリングされて整列したファイル棚を見渡し、呆然と呟いた。 窓からは午後の光が差し込み、空気中の埃も消え失せ、インクと紅茶の香りが漂う快適な空間に生まれ変わっていた。
「終わりました。本日の急ぎの決裁書類は、デスクの右上にまとめてあります。承認印を押すだけで終わるように、要約メモも付けておきました」
私はエプロンを外し、額の汗を拭った。 達成感。
これぞ労働の喜び。
これで残業代が出れば最高なのだが。
「……君は、魔法使いか何かか?」
「いいえ、ただの経理係です。数字と効率を愛しているだけですので」
「経理係の域を超えているがな」
アレクセイ様は自分のデスクに座り、私が用意した書類の束を手に取った。
パラパラと目を通す。その瞳が、次第に真剣な色を帯びていく。
「要約も完璧だ。私が読むべきポイントを正確に抽出している。……これなら、徹夜せずに済みそうだ」
「それは良かったです。閣下が過労で倒れると、私の給料の支払いが滞りますから」
「ふっ、君はブレないな」
アレクセイ様は楽しそうに笑い、そして──
ふと、真顔になった。
「……ところでリアナ。一つ聞きたい」
「はい?」
「整理された棚の、一番下の段。あの『黒い背表紙』のファイルは何だ? 私の記憶にはない帳簿だが」
ドキリ、とした。 さすがは氷の宰相。
私がわざと、目につかない場所に隔離しておいた「それ」に気づくとは。
私は居住まいを正し、その黒いファイルを取り出した。 掃除の最中、書類の山の最深部、床板の隙間から見つけたものだ。
「……これに関しては、ご報告すべきか迷いました」
「なぜだ?」
「これを私が開いた瞬間、強烈な『腐臭』がしたからです。物理的な匂いではありません。数字の……悪意の匂いです」
私はファイルをアレクセイ様のデスクに置いた。
表紙には何も書かれていない。
だが、中には過去十数年分の、国の「予備費」に関する出納記録が記されていた。
「私の直感ですが、この帳簿は『裏帳簿』です。しかも、閣下が宰相に就任されるよりもずっと前から、誰かが秘密裏に運用していた形跡があります」
「……なんだと?」
「ページの所々に、数字の改竄があります。巧妙に隠されていますが、私の目は誤魔化せません。ここから巨額の資金が、どこかへ流れています」
アレクセイ様がファイルを手に取る。 ページをめくる指が止まり、その美しい顔から表情が消え失せた。 部屋の温度が、一気に氷点下まで下がる。
「……なるほど。私の足元に、こんな爆弾が埋まっていたとはな」
彼のアメジストの瞳が、凍てつくような光を放つ。 それは、私に向けられたものではないと分かっていても、思わず身震いするほどの殺気だった。
「リアナ」
「は、はい」
「君は優秀だ。優秀すぎて、恐ろしいほどだ」
アレクセイ様が顔を上げ、私を見た。
その目は、獲物を絶対に見逃さない捕食者の目だった。
「この帳簿を見つけた以上、もう君を単なる経理係として扱うわけにはいかなくなった」
「……といいますと?」
「共犯者になってもらう。この国の膿を出し切るための、な」
アレクセイ様がニヤリと笑う。
それは、昨日私に見せた冷酷な笑みとも、先ほどの少年のような笑みとも違う。 もっと危険で、ゾクゾクするような、「共犯への誘い」の笑みだった。
「もちろん、手当は弾むぞ?」
その一言に、私の警戒心は霧散した。
「……承知いたしました。その『膿』を絞り出せば、いくらになりますか?」
「国の予算の一割は取り戻せるだろうな」
「やります。骨の髄まで計算し尽くして差し上げましょう」
私が眼鏡を光らせて答えると、氷の宰相は満足げに頷いた。
こうして、樹海の開拓は終わった。
だがそれは、国を揺るがす巨大な闇との戦いの、ほんの序章に過ぎなかったのだ。
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