第29話「瞳の奥の光、眼鏡という名の封印」
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パキッ。
乾いた音が、執務室の静寂を切り裂いた。 私が床に落ちたペンを拾おうとした、その時だった。
長年連れ添った相棒──ツルをセロハンテープで三箇所補強し、レンズには無数の傷が入った年代物の丸眼鏡が、ついに重力と経年劣化に負けて崩壊したのだ。
「あ……」
私はフレームが真っ二つに割れた眼鏡を拾い上げ、絶望した。
「嘘でしょう……。まだ償却期間(寿命)まで半年はあったはずなのに」
「寿命というか、それはもう遺物の域だったぞ」
デスクの向こうで、アレクセイ様が呆れたように言った。
「ちょうどいい。新しいのを買え。経費で落としていい」
「ありがとうございます。……ですが、納品されるまでの間、どうしましょう」
私は眉を寄せた。 私の視力は極めて悪い。眼鏡がないと、世界は色彩のぼやけた光の粒と化す。
デスクワークなら顔を近づければなんとかなるが、移動となると壁に激突するリスクが跳ね上がる。
「まあ、今日は執務室から出なければいい話です。閣下、お昼休憩の際は私の手を引いて……閣下?」
返事がない。 ぼやけた視界の中で、銀色の光(アレクセイ様)が、なぜか固まっている。
「……リアナ。顔を上げろ」
「はい?」
言われるがままに顔を上げる。 アレクセイ様が近づいてくる気配がした。 彼の指が、私の顎に触れる。
「……やはり、凶器だな」
彼が低く呻いた。
「君は、その眼鏡を『封印』として使っていたのか?」
「封印? いえ、ただの視力矯正器具ですが」
「……鏡を見てみろと言いたいが、見えないんだったな」
アレクセイ様は深いため息をつくと、脱ぎ捨ててあった自分のジャケットを手に取り、バサッ! と私の頭から被せた。
「むぐっ!? な、何をするんですか!」
「隠蔽工作だ。いいかリアナ、その顔で一歩も外に出るな。窓際にも立つな。誰とも目を合わせるな」
「視界ゼロです! 窒息します!」
私がジャケットから顔を出そうとすると、彼は慌てて私の目を手で覆った。
「だめだ! その無防備な瞳を晒すな!」
「仕事になりません! どうしたんですか、急に!」
「……君の裸眼の破壊力が高すぎるんだ。ただでさえ美しいのに、焦点が合わずにとろんとしたその瞳で見つめられたら……男どもは一撃で落ちる」
彼は真剣そのものの声で言った。
「君という『国家機密』が漏洩する緊急事態だ」
「失礼します、閣下。財務省からの決裁書類をお持ちしました」
タイミング悪く、執務室に若い文官が入ってきた。 アレクセイ様は舌打ちし、私を自分の背後に隠そうとしたが、遅かった。 文官の視線が、眼鏡のない私を捉えた。
「あ、リアナ様? 眼鏡はどうされたの……で……」
文官の言葉が止まった。 ぼやけた視界の私にはよく見えないが、彼の雰囲気が変わったのが分かった。 空気が、急に熱を帯びたような。
「……き、綺麗……」
ポツリと、文官が漏らした。
「え、天使……? いや、女神……?」
「貴様」
ゴオオオォッ……!!
室温が一気に十度下がった。 アレクセイ様だ。
彼は私を背中に完全に隠し、文官に対して氷の壁のような圧力を放っていた。
「私の補佐官に、何か用か?」
「ひっ! い、いえ! その、あまりにもお美しくて、つい……!」
「ほう。美しい、か」
アレクセイ様の声が、絶対零度まで低下する。
「その眼球、必要ないならくり抜いて氷漬けにしてやろうか? 他人の所有物を舐めるように見る機能など、不要だろう」
「ヒィッ! も、申し訳ございませんんん!!」
文官は書類を放り出し、物凄い勢い逃げ出した。 廊下で転ぶ音が聞こえる。
「……閣下。パワハラです。訴えられますよ」
「正当防衛だ。あいつ、鼻の下を伸ばして君を見ていた。……不愉快だ」
アレクセイ様は私に向き直ると、決意を固めたように言った。
「決めた。新しい眼鏡が届くまで、君の視界は私が管理する」
「管理?」
「ああ。移動する時は私が手を引く。君は目を閉じていろ」
「はあ? それは非効率すぎま……」
「命令だ! 君がその瞳で他の男を見るのも、他の男が君を見るのも、私の精神衛生上、許容できない!」
彼は私の手を取り、指を絡めた。
いわゆる「恋人繋ぎ」だ。
「さあ、行くぞ。次の会議室まで、私が君の目になる」
王宮の廊下。 そこには、異様な光景が広がっていた。 国一番の権力者である宰相閣下が、地味な服を着た女性の手を引き、まるでお姫様をエスコートするかのようにゆっくりと歩いているのだ。
しかも、すれ違う人がいれば、彼は即座に女性の顔を自分の胸に押し付け、「見るな!」と威嚇射撃の魔法を放つ徹底ぶり。
「……閣下。歩きにくいです。もっと普通の速度で」
「転んだらどうする。……それに、こうしていれば誰も君の顔を見られない」
「貴方の胸板しか見えません。……いい匂いがしますけど」
私がボソリと言うと、繋いだ手に力がこもった。
「……君は、無自覚に私を煽る天才だな」
「事実を述べたまでです。この香水、高いですよね? リットルあたり二万ベル?」
「……ムードというものを計算式に入れろ」
アレクセイ様は呆れつつも、私の手を離そうとはしなかった。 彼の手は大きく、温かく、そして微かに震えていた。 私が転ばないように、そして誰にも見られないように、神経を尖らせているのが分かる。
(……過保護な人)
視界が閉ざされている分、彼の体温や息遣いが、普段よりも鮮明に伝わってくる。 手を引かれる安心感。 守られているという絶対的な事実。 それが心地よくて、私は彼に言われた通り、大人しく目を閉じて身を任せた。
「……リアナ」
「はい」
「新しい眼鏡が届くまで、ずっとこのままでもいいか?」
「仕事になりませんので却下です」
「ちぇっ」
そんな甘い攻防を繰り広げていると、ようやく眼鏡屋が到着したとの報告が入った。 アレクセイ様が特急料金を支払って呼びつけた、王都一の眼鏡職人だ。
「お待たせいたしました、閣下。ご用命の品でございます」
職人が恭しく差し出したのは、銀縁の知的なフレームの眼鏡だった。 レンズは薄く、一見するととてもお洒落なデザインだ。
「わあ……! 素敵です。これ、高かったでしょう?」
「値段は気にするな。……かけてみろ」
アレクセイ様に促され、私は新しい眼鏡をかけた。 カチャリ。 世界がクリアになる。 アレクセイ様の顔が、鮮明に見える。 相変わらず、悔しいほど整った顔だ。
今は少し、悪戯っ子のような笑みを浮かべているけれど。
「どうだ? 見えるか?」
「はい、完璧です! 軽いですし、視界も広いです!」
「そうか、よかった」
彼は満足げに頷いた。
「それに特別な魔法をかけておいた。『認識阻害』と『魅力減衰』の魔法だ」
「……はい?」
「その眼鏡をかけている限り、君の顔は他人からは『あー、なんか地味な人がいるな』程度にしか認識されない。君の美貌を封印する、特注の結界眼鏡だ」
私は鏡を見た。 自分では普通に見えるが、他人からは「地味」に見えるらしい。なるほど。
「……ありがとうございます、閣下」
「気に入ったか?」
「はい。これなら、化粧の手間が省けますし、服にお金をかけなくてもバレません! 究極の節約アイテムですね!」
「……そっちか」
アレクセイ様はガクリと肩を落としたが、すぐに気を取り直して私の頬に触れた。
「まあいい。……君の本当の顔を知っているのが、私だけならそれでいい」
眼鏡越しの頬への口づけ。 レンズがカチャリと触れ合う音が、契約の印鑑を押す音のように響いた。
こうして「眼鏡破損事件」は解決した。 私の視界はクリアになり、アレクセイ様の独占欲も満たされ、一件落着──かと思われた。
だが、クリアになった視界が、今度は「見てはいけないもの」を捉えてしまうことになる。 翌日、市場での買い物中、私が受け取ったお釣りの金貨。 その輝きの中に潜む、決定的な「違和感」を。
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