第19話「宰相閣下の過保護な看病(隔離病棟レベル)」
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「……ここは、天国?」
目を開けた瞬間、視界に入ってきたのは、金糸で刺繍された天蓋だった。 背中を包み込むのは、雲のように柔らかい羽毛布団。 空気中には、ほのかな薬品の匂いと、高級な生花の香りが混じり合っている。
(いいえ、天国じゃないわ。天国に入場料はかからないけれど、この部屋は一泊だけで私の月収が飛びそうだもの)
私は重たい頭を動かし、周囲を見渡した。 広すぎる部屋。猫足の家具。窓際には最高級の果物が山盛りにされた籠。 間違いない。ここは王宮の隣にある、宰相公邸のゲストルームだ。
「目が覚めたか、ポンコツ計算機」
ベッドの横から、呆れたような、それでいてひどく安堵したような声が聞こえた。 椅子に座り、書類を読んでいたアレクセイ様だ。 彼は私が起きたのを見ると、バサリと書類を床に投げ捨て、私の顔を覗き込んだ。
「……閣下。おはようございます」
「今は午後三時だ。君は丸一日、死人のように眠っていたんだぞ」
「一日……! いけません、今日の業務が……!」
私が飛び起きようとすると、アレクセイ様の手が私の肩を押し、強制的に枕へと沈めさせた。
「寝ていろ。動く許可は出していない」
「でも、私がいないとスケジュールの調整が……」
「全てキャンセルした。君が倒れたのに、私が働けるわけがないだろう」
彼は事もなげに言った。 宰相が働かない? 国が止まるではないか。
「そ、そんな……機会損失が莫大です……」
「うるさい口だな。黙ってこれを食え」
アレクセイ様はサイドテーブルから皿を取り上げた。 そこには、綺麗に皮を剥かれ、一口サイズにカットされた最高級の桃(一個五千ベルはする代物)が載っていた。 彼は銀のフォークで桃を刺すと、私の口元へと差し出した。
「……あーん」
「はい?」
「口を開けろと言っている」
「……自分で食べられます」
「却下だ。今の君の手は、スプーンを持つだけの握力もない。私の目測では、途中で落としてシーツを汚す確率が九八%だ。クリーニング代が惜しければ、大人しく私に食べさせられろ」
ぐうの音も出ない。 というか、あの氷の宰相が「あーん」? 熱のせいで幻覚を見ているのだろうか。 私は観念して口を開けた。甘く瑞々しい果汁が口いっぱいに広がる。
「……美味しい」
「そうか。なら全部食え」
アレクセイ様は次々と桃を口に運んでくる。 私が咀嚼して飲み込むタイミングを完璧に見計らい、水が必要になればストロー付きのグラスを差し出す。 その手際は、熟練の介護士も裸足で逃げ出すほど完璧だった。
「……閣下。お仕事は?」
「ここが今の私の執務室だ。君のバイタルチェックが最優先任務だからな」
「レオとマリーは……?」
「別室でメイド長が相手をしている。さっき様子を見てきたが、高級菓子に埋もれて王族のようにくつろいでいたぞ。心配するな」
彼は私の口元をナプキンで拭いながら、真剣な顔で告げた。
「いいか、リアナ。今の君は故障した精密機械だ。資産価値が暴落している状態だ」
「……返す言葉もありません」
「だから、私が直接メンテナンスを行う。君が元の『有能な計算機』に戻るまで、一歩もこの部屋から出すつもりはない。トイレに行く時も私が抱えていく」
「それはセクハラで訴えますよ!?」
「緊急避難措置だ!」
本気だ。この目は本気だ。 私は抵抗を諦め、大人しくベッドに沈んだ。 温かい。布団も、部屋も、そして彼が時折触れてくる手も。 ボロアパートで震えていたのが嘘のような、過保護で贅沢な時間。
「……おやすみ、リアナ」
彼が私の髪を撫でる感触を感じながら、私は再びまどろみの中へと落ちていった。
ふと、目が覚めたのは夜中だった。 部屋は薄暗い間接照明だけが灯っている。 喉が渇いた。 水を飲もうと身じろぎすると、ベッドの脇に誰かが座ったまま突っ伏しているのが見えた。
アレクセイ様だ。 椅子に座り、ベッドの縁に腕を乗せ、そこに顔を埋めて眠っている。 あんなに寝心地の悪そうな姿勢で。ゲストルームなのだから、他にもベッドはあるだろうに。
「……閣下?」
私が小声で呼ぶと、彼はビクリと反応し、即座に顔を上げた。
「リアナ!? どうした、熱が上がったか? 痛いところがあるのか?」
充血した目。乱れた銀髪。 普段の完璧な姿からは想像もできないほど、やつれていた。 彼は私の額に手を当て、次に自分の額を当てて熱を測る。 近い。彼の長い睫毛が触れそうな距離。
「……よかった。下がってきている」
彼は安堵の息を吐き、水を含ませたタオルで私の汗を拭い始めた。 その手つきは、恐ろしく優しかった。 まるで、少し力を入れただけで壊れてしまう硝子細工を扱うように。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、ここまでしてくれるんですか? 私はただの雇われ経理係です。倒れたら、代わりを雇えばいいだけなのに」
熱に浮かされた頭で、ずっと疑問だったことを口にした。 費用対効果が合わない。 宰相が自ら看病する時間的コストは、計り知れないほど高額なはずだ。
アレクセイ様は手を止め、タオルを水桶に戻した。 そして、苦しげに顔を歪めた。
「……代わりなど、いない」
絞り出すような声だった。
「計算が速い人間ならいるだろう。整理整頓が得意な人間も、探せばいるかもしれない。だが……」
彼は私の手を両手で包み込み、自分の頬に押し当てた。 冷たい頬。でも、そこにある温もりは本物だった。
「私に『節約弁当』を作ってくれる人間はいない。私の取れかけたボタンを縫ってくれる人間も、私の悪夢を撫でて消してくれる人間も……世界中で、君しかいないんだ」
「……」
「君が倒れたと聞いた時、目の前が真っ暗になった。国が滅ぶよりも怖かった。……これは損失などという言葉では説明できない」
彼は私の手のひらに口づけを落とした。 濡れたような瞳が、私を見つめる。
「頼むから、早く治してくれ。君が笑っていないと、私の世界は色を失ったままだ」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも、私の胸を深く貫いた。 計算できない。 彼のこの感情に、どんな値段をつければいいのか。 私の心臓が、痛いくらいに脈打っている。これは風邪のせい? それとも。
「……努力します。閣下がそんな顔をしていると、夢見が悪いですから」
私が憎まれ口を叩くと、彼はふっと力を抜いて笑った。
「ああ。……今夜はずっと側にいる。安心して眠れ」
その夜、私はもう悪夢を見なかった。 彼の手の温もりが、朝まで私を繋ぎ止めていてくれたから。
翌朝。 私の熱は平熱近くまで下がっていた。
鉄の女の回復力、恐るべしである。
「おはようございます、閣下! すっかり良くなりました!」
私がベッドの上で伸びをすると、窓辺で朝日を浴びていたアレクセイ様が振り返った。 その顔には、いつもの「氷の宰相」の仮面が戻っていたが、目元だけは優しく緩んでいた。
「そうか。顔色も悪くないな」
「はい。では、着替えてアパートに戻り、出勤の準備を……」
「待て」
ベッドから降りようとした私を、アレクセイ様が片手で制した。
「アパートに戻る必要はない」
「へ? でも、着替えもありませんし、弟たちも……」
「レオとマリーには、公邸内の子供部屋を与えた。君の荷物も、今朝方、ルーカスと使用人たちに命じて全て運び込ませた」
「……はい?」
運び込ませた? 全て? 私の脳内処理が追いつかない。
「つまり、引っ越しは完了したということだ」
アレクセイ様は涼しい顔で宣言した。
「リアナ・フォレスト。本日より、君の住所はこの『宰相公邸』に変更となる」
「は、はあぁぁぁ!? 勝手に何を! 家賃はどうするんですか! ここ、一等地ですよ!?」
「家賃は給与天引き……と言いたいところだが、今回は特別に『現物支給』で手を打とう」
彼はニヤリと笑い、私の顔を覗き込んだ。
「毎日、私と一緒に朝食を食べ、私と一緒に登城し、夜は私の目の届く範囲で眠ること。……それが家賃だ」
「それは……ただの同棲では?」
「違うな。管理だ」
彼は私の鼻先を指で弾いた。
「拒否権はないぞ? 君のボロアパートは、既に解約手続き済みだ」
「なっ、悪徳大家……!」
抗議しようとしたが、彼が用意してくれた朝食のワゴン──焼きたてのパンと、湯気を立てるスープの良い匂いが漂ってきて、私のお腹がグゥと鳴ってしまった。
「ふっ……まずは朝食だな。食べ終わったら、契約更新の手続きだ」
アレクセイ様は楽しそうに笑う。 こうして、私の「ボロアパート暮らし」は強制終了し、宰相公邸での「超高級・軟禁同居生活」が幕を開けたのだった。
だが、この幸せな時間は長くは続かない。 私が病床で暇つぶしに見ていた資料の中に、国を揺るがす「ある数字のズレ」を見つけてしまうまでは。
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