第18話「鉄の女も風邪には勝てず」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
(……計算が、合わない)
朝、目が覚めた瞬間、世界が回っていた。 天井のシミが二重に見え、身体が鉛のように重い。 喉は紙やすりで擦ったように痛く、呼吸をするたびに肺がヒューヒューと鳴る。
私は枕元の時計を見た。午前七時三十分。 いつもなら、飛び起きて弟と妹の朝食を作り、八時の出勤に向けて準備をしている時間だ。
「……起きなきゃ。今日は、財務省との合同会議が……」
体を起こそうとするが、力がと入らない。
額に手を当てると、火傷しそうなほど熱い。
「体温……推測、三十九度二分。平熱との乖離値、二度七分……」
脳内電卓が、警告音と共に弾き出した結論は『稼働停止』。 ここ数日、徹夜続きで決算処理をしていたツケが回ってきたらしい。 季節の変わり目の急な冷え込みも手伝って、私の頑丈だけが取り柄の体がついに悲鳴を上げたのだ。
「お姉ちゃん? 起きないの?」
ドアの隙間から、弟のレオが心配そうな顔を覗かせた。
「ごめんね、レオ。お姉ちゃん、ちょっと……メンテナンスが必要みたい」
「顔が真っ赤だよ! 待ってて、お水持ってくる!」
レオがパタパタと走り去る。 私はシーツを握りしめた。 休むわけにはいかない。今日休めば、日給換算で約二万ベルの損失だ。それに、アレクセイ様のスケジュール管理も、あの樹海の主アレクセイ様一人ではまた遭難してしまう。
「……行かなきゃ。這ってでも……辻馬車代は経費で……」
フラフラと立ち上がろうとした瞬間、視界がブラックアウトした。 ドサッという音と共に、私は意識の底へ落ちていった。
同時刻。王宮、大会議室。
「──以上の理由により、隣国との関税条約は見直しが必要と考えます」
アレクセイは、円卓に広げた資料を見下ろしながら淡々と説明していた。 正面には国王陛下、周囲には各省庁の大臣たちが鎮座している。国の最重要事項を決定する御前会議だ。
「ふむ。宰相の言う通りだな。では、その方向で……」
国王が頷きかけた、その時だった。 バンッ! と会議室の扉が開かれた。
「失礼いたします!」
入ってきたのは、顔面蒼白の護衛騎士、ルーカスだった。 彼は普段の冷静さを欠き、肩で息をしている。
「何事だ、ルーカス。会議中だぞ」
「か、閣下! 緊急事態です! リアナ嬢が……出勤していません!」
「何?」
アレクセイの眉がピクリと動いた。 リアナは時間に正確だ。一分の遅刻も「給与泥棒」と言って嫌う彼女が、無断欠勤などあり得ない。
「アパートへ使いを出したところ、高熱で意識を失っていると……! 弟君が泣きながら……!」
ガタッ! アレクセイが椅子を蹴り倒して立ち上がった。
「会議は中止だ」
「は? 宰相、何を言って……」
「緊急事態が発生した。国家の存亡に関わる危機だ」
「敵襲か!?」
色めき立つ大臣たちを尻目に、アレクセイは書類を放り出し、風のように出口へ向かった。
「いや、もっと重大だ。……私の心臓が止まりかけている」
言い捨てて、彼は姿を消した。 残された国王と大臣たちは、ポカンと口を開けたまま取り残された。 「心臓……? 宰相は心臓病だったのか?」 唯一事情を知る側近だけが、「いや、恋の病です」と心の中で突っ込んでいた。
「……うぅ……寒い……」
ガタガタと震えが止まらない。 布団を被っているはずなのに、隙間風が容赦なく体温を奪っていく。 ここは王都の下町にある激安アパート。壁は薄く、断熱材など入っていない。 夏は蒸し風呂、冬は冷凍庫になる仕様だ。
「お姉ちゃん、死なないで……!」
レオとマリーが私の手を握って泣いている。 ごめんね。お姉ちゃん、薬を買うお金をケチったから……。 市販の風邪薬、一瓶千五百ベル。高すぎるのよ……。
その時。 ドォォォン!! 玄関のドアが、鍵ごと吹き飛ばされる音がした。
「リアナッ!!」
冷気と共に飛び込んできたのは、銀色の髪を振り乱したアレクセイ様だった。
漆黒のコートを翻し、土足のまま私の狭い部屋に踏み込んでくる。
「か、閣下……? どうして、ここに……」
「喋るな!」
アレクセイ様は私の枕元に膝をつくと、手袋を脱ぎ捨て、私の額に手を当てた。
その手はひんやりとしていて、沸騰しそうな私には天国のようだった。
「……馬鹿げている。こんな高熱になるまで働いて……!」
「す、すみません……欠勤控除は、給料から……」
「金の心配をしている場合か!」
彼は部屋を見渡した。 隙間風の吹く窓。薄っぺらい煎餅布団。暖房器具もない冷え切った空間。
そのアメジストの瞳が、怒りと悲しみで揺れた。
「こんな……こんな場所に、君を置いていたのか。私は」
彼は歯を食いしばり、自分自身を呪うように呟いた。
「国の予算を管理する君が、自分自身のメンテナンス費用すら削って……。こんな環境で、たった一人で耐えていたなんて」
「一人じゃありません。弟たちが……」
「ああ、そうだな」
アレクセイ様は、怯えて隅に固まっていたレオとマリーに視線を向け、少しだけ表情を和らげた。
「君たち、よく知らせてくれた。……姉上は、私が預かる」
「えっ……お姉ちゃんを連れて行くの?」
「ああ。ここは寒すぎる。病人を寝かせておく場所じゃない」
言うが早いか、アレクセイ様は私を布団ごと、芋虫のようにぐるぐる巻きにした。 そして、軽々と──いわゆるお姫様抱っこの状態で抱き上げた。
「ちょ、閣下!? 何を……!」
「大人しくしろ。公邸へ連れて行く。王宮医師団を待機させてある」
「こ、公邸!? 駄目です、そんな高級な場所……場所代がかかります……」
「黙れ。これは『強制収用』だ」
アレクセイ様は私の抗議(うわ言)を無視し、部屋を出た。 外には、王家の紋章が入った豪華な馬車が止まっていた。 近所の住人たちが「何事だ」と窓から顔を出しているが、お構いなしだ。
「ルーカス! 子供たちも乗せろ! 全員まとめて保護する!」
「了解しました! さあ、君たちもおいで」
ルーカス様がレオとマリーを抱えて続く。 私はアレクセイ様の腕の中で、揺られながら薄れゆく意識の中で計算しようとした。 公邸の宿泊費。医師の診察代。馬車のチャーター代。 合計、数十万ベル……。
「……高い……」
「ん?」
「私なんかに……そんなにお金をかけたら……赤字です……」
「赤字で結構」
アレクセイ様は馬車に乗り込むと、私を膝の上に乗せたまま、自分のコートでさらに包み込んだ。 彼の体温と、高級な香水の匂い。 そして、耳元で聞こえる心音が、早鐘のように高鳴っている。
「……借金が……まだ、返せてないのに……」
「……」
「弟の学費……マリーの服……私が稼がないと……」
熱に浮かされて、心の奥底にあった不安が口をついて出る。 父が残した借金。終わらない返済。
私が倒れたら、誰が家族を守るの? 数字だけが私を支えていた。数字だけが、私の価値を証明してくれていたのに。
「リアナ」
アレクセイ様が、私の頭を胸に押し付けた。
強い力。でも、痛くはない。 彼は震える声で、
私の耳元に誓いの言葉を落とした。
「もういい。計算しなくていい」
「……え?」
「借金も、家族の未来も、君の不安も……全て私が背負う。私の財産も、権力も、この命も、全部君の踏み台にしていい」
彼の指が、私の熱い頬をなぞる。
「だから、お願いだ……。自分を安売りしないでくれ。君は、私が全財産を投げ打ってでも手に入れたい、世界で一番高価な宝なんだから」
その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも、私の強張った心を溶かした。 「高価な宝」。 ただの貧乏な経理係に、そんな値札をつけてくれる人がいるなんて。
(……計算、できないよ…)
目頭が熱くなり、涙が溢れた。 私は彼のコートの襟を握りしめ、そのまま深い眠りに落ちた。
「……絶対に治す。神に抗ってでも」
遠くなる意識の端で、氷の宰相の悲痛な祈りを聞いた気がした。 次に目が覚めた時、私の世界は──そして彼との関係は、決定的に変わってしまっていることを、私はまだ知らなかった。
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