第17話「嫉妬という名の氷河期、到来」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
「す、すばらしい……! まさか、この『複式簿記』の概念を、国の予算管理に応用するとは!」
興奮した声が、王宮の廊下に響いた。 私の目の前にいるのは、財務省の若手書記官、アラン・ベルジュ男爵令息だ。 彼は私が作成した『省庁別・経費削減シミュレーション(改訂版)』の資料を握りしめ、目をキラキラと輝かせていた。
「通常なら三ヶ月かかる決算処理が、貴女の考案した計算式を使えば三日で終わる計算になります! これは革命だ! 貴女は魔法使いですか!?」
「いいえ、ただの経理係です。魔法は使えませんが、無駄を削ぎ落とすことに関しては、どんな魔法よりも効果的だと自負しています」
私は眼鏡の位置を直し、少し誇らしげに胸を張った。 王宮に来てからというもの、私の仕事を「ケチくさい」「予算を減らすな」と罵る人間はいても、こうして純粋に「計算の美しさ」を評価してくれる人間はいなかったからだ。
「特にこの、第三項の変数計算! ここの係数に『季節変動率』を組み込む発想はなかった! 僕も学生時代、数学には自信がありましたが、完敗です!」
「ふふ、気づいていただけましたか? そこが一番のこだわりポイントなんです。
実はですね、過去十年の気象データを回帰分析して……」
話が合う。 彼とは「数字」という共通言語で会話ができる。 嬉しくなった私は、つい饒舌になり、彼に一歩近づいて熱弁を振るった。
「もし良ければ、後で私の執務室……いいえ、資料室へ来ませんか? 未発表の『税収予測モデル』があるのですが、ぜひ貴方の意見を聞きたいわ」
「えっ、いいんですか!? ぜひ! 僕で良ければ喜んで……!」
アラン様が顔を紅潮させ、私の手を取ろうとした。 数字オタク同士の、純粋な知的好奇心の握手。 ……そのはずだった。
パキィッ……
廊下の窓ガラスに、蜘蛛の巣状のヒビが入った。 同時に、肌を刺すような冷気が、私たちの足元から這い上がってきた。
「……さ、寒い?」
アラン様が身震いし、私も思わず肩を抱いた。
空調の故障だろうか?
いや、これはただの寒さではない。
質量を持った「圧」だ。
「……私の補佐官が、仕事熱心なのは結構だが」
背後から響いた声に、廊下の空気が完全に凍結した。 振り返ると、そこにはこの世の終わりみたいな笑顔を浮かべたアレクセイ様が立っていた。
美しい。絵画のように美しいが、その背後には猛吹雪の幻影が見える。
「あ、アインスワース宰相閣下!?」
「やあ、ベルジュ男爵令息。財務省の仕事は暇なのかな? 廊下で油を売っている余裕があるとは羨ましい」
アレクセイ様は優雅に歩み寄ると、私とアラン様の間に割って入った。 そして、アラン様の肩にポンと手を置く。 その瞬間、アラン様の肩パッドが白く霜付いた。
「ヒッ……!?」
「い、いえ、私はただ、リアナ嬢の素晴らしい計算式に感銘を受けて……!」
「ほう。計算式に、ね」
アレクセイ様は目を細めた。アメジストの瞳が、爬虫類のように冷たく光る。
「君は数字が好きなのか?」
「は、はい! 数字は嘘をつきませんから!」
「奇遇だな、私もだ。……ならば君には、特別な任務を与えよう」
アレクセイ様は、アラン様の耳元に顔を寄せ、死刑宣告のように甘く囁いた。
「北方の国境警備隊へ出向してくれないか? あそこは今、激しい吹雪だそうだ。……降ってくる『雪の結晶の数』を、一枚残らず数えて報告してくれ」
「ゆ、雪の結晶……!?」
「君の計算能力なら可能だろう? 数字は嘘をつかないんだからな。……もちろん、数え終わるまでは帰還を認めない」
「そ、そんな、無茶苦茶な……ッ!」
「嫌か? ならば今すぐ、私の視界から消えろ」
アレクセイ様の手から、バチバチと氷の魔力が溢れ出す。 アラン様は顔面蒼白になり、「し、失礼しましたァァァ!」と悲鳴を上げて廊下の彼方へ逃走していった。
資料室での数学談義は、永遠に幻となった。
「……あーあ。逃げちゃいました」
私は残念そうに呟き、アレクセイ様を見上げた。
「閣下、やりすぎです。彼は有望な人材ですよ。
いじめないでください」
「いじめてなどいない。教育的指導だ」
アレクセイ様はフンと鼻を鳴らし、まだ冷気が漂う手で私の腕を掴んだ。 そのまま無言で執務室へと引きずり込まれ、ドアが重々しい音を立てて閉まる。
「座れ」
「はい?」
私はアレクセイ様のデスクの前の椅子……ではなく、なぜかデスクの上に座らされた。 目線が高くなる。彼が私の両太腿の間に立ち、両手をデスクについて私を閉じ込める形になる。 いわゆる「机ドン」だ。 近い。冷気の余韻のせいで、彼の体温が余計に熱く感じる。
「……閣下? 業務中ですが」
「黙れ。今は緊急会議中だ」
アレクセイ様は私の眼鏡を指先で外し、デスクの端に置いた。 ぼやけた視界の中で、彼の整った顔が苦しげに歪んでいるのが見えた。
「……リアナ」
「はい」
「今後一切、私以外の男と『数字の話』をすることを禁ずる」
「はあ? それは不可能です。経理係の仕事は数字の話が九割です」
「業務連絡は認める。だが……あんな風に、楽しそうに目を輝かせて、数式の美しさについて語り合うのは禁止だ」
彼は私の頬を両手で包み込んだ。
「君が数字の話をする時、君はとても……いい顔をする。まるで恋をしているような顔だ」
「それは、数字が好きだからです」
「分かっている。だから気に入らないんだ」
アレクセイ様は、子供のように唇を尖らせた。
「君のその情熱(計算リソース)を、他の男と共有したくない。君が夢中になる『数式』という共通言語を、私以外の誰かが理解するのが許せないんだ」
「……」
「嫉妬だ。……見苦しいだろうが、嫉妬で計算が狂いそうだ」
彼は私の額に、コツンと自分の額を押し付けた。 冷たいはずの「氷の宰相」が、こんなにも熱くて、面倒くさい独占欲をぶつけてくる。 論理的ではない。非効率だ。 でも。
(……ドキドキして、計算ができない)
私の脳内電卓が、エラー表示を出して点滅している。 彼に「自分だけのものにしたい」と言われることが、こんなにも心地よいなんて。 これはバグだ。修正が必要な、致命的なバグ。
「……分かりました。業務命令として受理します」
私は努めて冷静を装い、彼の手を握り返した。
「ただし、私の計算欲求を満たす責任は、閣下が取ってくださいね? 難解な予算案を、毎日用意してください」
「ああ。一生かけて、君が解ききれないほどの難問を与えてやる」
アレクセイ様は満足げに微笑み、私の唇の端に口づけを落とした。 甘い。砂糖菓子よりも、ずっと。
翌日。 王宮内には、新たな都市伝説が爆誕していた。
『経理係のリアナ嬢に近づくな』
『彼女と数字の話をすると、翌日には北極送りになる』
『あの女は、氷の宰相が独占する聖域だ』
誰も私に話しかけてこなくなったせいで、業務効率は皮肉にも向上した。 そして、その静寂の裏で──私を孤立させ、確実に仕留めようとする「本物の敵」が、次の一手を打ち始めていた。
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