第16話「取れかけのボタンと、近づく唇の距離」
「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」
「閣下。胸元にて、資産価値の毀損リスクが発生しています」
午後のティータイム。私が指摘すると、アレクセイ様はカップを持ったまま怪訝な顔をした。
「……なんだ、その物騒な報告は。またどこかの貴族が横領でもしたか?」
「いいえ。貴方のシャツの第二ボタンです。糸が解れて、今にも脱落しそうです」
私が指差すと、彼は自分の胸元を見下ろした。
最高級のエジプト綿で仕立てられた純白のシャツ。
その胸元を飾る白蝶貝のボタンが、一本の糸だけで頼りなくぶら下がっている。
「ああ、本当だ。……着替えてくるか」
「待ってください。着替えのために公邸へ戻る往復四十分と、洗濯係の手間賃。それに、もし移動中にボタンを紛失した場合、同じグレードの白蝶貝を取り寄せるコスト……。試算するだけで、三千ベルの損失です」
私はデスクから愛用のソーイングセットを取り出し、立ち上がった。
「私が直します。ここで、今すぐに」
「……君は、本当に私の修繕係だな」
アレクセイ様は苦笑しつつも、素直に椅子に座り直し、私の方へ身体を向けた。
「では頼む。……痛くしないでくれよ?」
「針治療ではありません。じっとしていてくださいね」
私は針に糸を通し、彼に近づいた。 椅子に座った彼と、立っている私。目線の高さがちょうど同じくらいになる。 私は躊躇なく、彼の大股に開かれた両脚の間に足を踏み入れた。
「……!」
アレクセイ様の身体が、ピクリと跳ねた。
「……リアナ。その立ち位置は、いかがなものか」
「最短距離で作業するためです。離れていたら縫えません」
私は彼の抗議を無視し、胸元に手を伸ばした。
解れかけた糸を切り、新しい糸でボタンを固定していく。
距離、わずか三十センチ。 近い。 改めて認識すると、呼吸が止まりそうになるほど近かった。
目の前には、彼の広い胸板がある。薄いシャツ越しに、筋肉の硬さと、じんわりとした体温が伝わってくる。 そして何より、彼から漂う匂い。
冷ややかなインクの香りと、甘く重厚な香水、
そして男性特有の熱を帯びた匂いが混じり合い、私の嗅覚を刺激する。
(……集中しなさい、リアナ。これはただの修繕作業よ。壊れた椅子を直すのと同じ)
自分に言い聞かせ、針先に意識を集中させる。
チク、チク。 慎重に針を通す。
誤って彼の肌を刺してしまえば、傷害罪で給料減額だ。
「……リアナ」
頭上から、押し殺したような声が降ってきた。
「はい、なんでしょう。動かないでください」
「……これは、何の拷問だ?」
「拷問? 修繕だと言っています」
「私にとっては拷問だ。……君の吐息が首筋にかかるんだ。それに、その無防備なうなじが、私の目の前にある」
アレクセイ様の声が、熱を帯びて掠れている。
ふと視線を上げると、彼の顔がすぐ目の前にあった。 いつもは涼しげなアメジストの瞳が、今は暗く濁り、獲物を狙う獣のように細められている。 その瞳孔の奥に、私の姿が映り込んでいる。
「……意識、しているのですか?」
「しない男がいたら、そいつは不能か死体だ」
彼の手が、ゆっくりと持ち上がった。 私の腰へ──いいえ、背中へと回されようとしている。
もし今、彼が腕に力を入れたら。 私は彼の膝の上に崩れ落ち、そのまま──。
ドクン、と心臓が大きく鳴った。 それは恐怖ではなく、甘い期待を含んだ鼓動だった。 計算機ならエラーを起こして停止するレベルの、論理的ではない衝動。
(だめ。流されないで)
私は唇を噛み、最後の結び目を作った。
「……終わり、ました」
逃げるように身体を引こうとした瞬間。
アレクセイ様の手が、私の手首を掴んだ。
「待て」
「か、閣下?」
「……糸を、切っていないだろう」
彼は私の手首を掴んだまま、顔を近づけてきた。 針から伸びた糸が、まだボタンと繋がっている。 それを切るために、彼は顔を寄せ──。
「……ッ」
彼の唇が、糸ではなく、私の唇に触れるかと思うほどの距離で止まった。 互いの鼻先が触れ合い、眼鏡のフレームがカチリと当たる音だけが響く。 時間が止まったようだった。 彼の熱い視線が、私の唇に注がれている。 キスされる。 そう直感した瞬間、私の頭の中で警報が鳴り響いた。
『警告:職場内での不適切な接触は、ハラスメント規定および業務遂行義務に抵触します』
「──はさみっ!」
私は悲鳴のような声を上げ、ポケットから糸切り鋏を取り出した。 パチン。 糸を切る音が、静寂を切り裂いた。
「し、修繕完了です! これで資産価値は保全されました!」
私は弾かれたように彼から離れ、数歩後ずさった。 心臓が破裂しそうだ。顔が熱い。鏡を見なくても分かる、私は今、茹でたタコのように真っ赤だ。
アレクセイ様は、空中で行き場を失った手をゆっくりと下ろし、深いため息をついた。
「……君のその防御力の高さ(鈍感さ)には、感服するよ」
「褒め言葉として受け取っておきます。さ、さあ、仕事に戻りましょう!」
私は逃げるように自分のデスクへ戻り、そろばんを構えた。 パチパチパチ! 普段の倍の速度で弾くが、指が震えて計算が合わない。
一方、アレクセイ様は。 彼はずっと、胸元のボタンを触っていた。 私が縫い付けたばかりの、第二ボタン。 その指先で、愛おしそうに、何度も何度も、その感触を確かめるように。
「……リアナ」
「なんですか! 今、計算中なんですけど!」
「この糸の色……」
彼が独り言のように呟く。 私は手元のソーイングセットを見て、ハッとした。 白いシャツだから、白い糸を使ったつもりだった。 だが、慌てていたせいで私が選んだのは──薄い黄金色の糸だった。
「……君の瞳の色だな」
アレクセイ様が、ニヤリと笑った。 その笑顔は、いつもの意地悪なものではなく、どこか満足げで、独占欲に満ちたものだった。
「いい色だ。……まるで、君にマーキングされたようだ」
「い、糸の在庫整理をしただけです! 勘違いしないでください!」
私は必死に否定したが、彼はずっとそのボタンを撫で続けていた。 その日一日、彼がそのボタンに触れるたびに、私の心臓が遠隔操作されているかのように跳ねたことは、絶対に彼には言えない秘密だ。
だが、この甘い空気も長くは続かなかった。
翌日、私の前に現れた「数字の話ができる男」が、アレクセイ様の嫉妬(氷河期)を呼び寄せることになるのだから。
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