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第13話「ハニートラップの費用対効果を計算してみた」

「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」



「……臭います」


朝一番、執務室に入った私は、開口一番そう呟いた。 いつものインクと紙の匂いではない。

鼻の粘膜を直接攻撃してくるような、甘ったるく、濃厚な薔薇の香り。

換気扇のない密室で香水を瓶ごとぶちまけたような惨状だ。


「あら、失礼ね。『臭う』だなんて」


執務机の横、普段なら私が書類を置く位置に、

見知らぬ女性が立っていた。 燃えるような赤髪を緩く巻き、胸元が大胆に開いた深紅のドレスを纏っている。その豊満な胸は、アレクセイ様の腕に押し付けられんばかりの距離にあった。


「私はエリーゼ。人事局から派遣された『臨時秘書官』よ。貴女が噂の経理係さん?」


彼女は扇子で口元を隠しながら、私を上から下まで値踏みするように見下ろした。

ボロボロの眼鏡、地味な服、手にはそろばん。

彼女の目は雄弁に語っていた。

『勝った』と。


「……人事局からの派遣など聞いていませんが」


「うふふ、急な辞令だったのよ。宰相閣下があまりに激務だと聞いて、癒やし手が必要だと判断されたの」


エリーゼと名乗った女は、アレクセイ様の肩に艶めかしく手を置いた。


「ねぇ、閣下? 私がいれば、肩もみもお茶汲みも、それに……『夜のお世話』まで、完璧にこなして差し上げますわ」


彼女が耳元で囁く。 明らかなハニートラップだ。教科書に載せたいくらい典型的な。 敵対派閥──おそらくグリーブス子爵の残党か、その上位にいる黒幕が送り込んだ刺客だろう。

狙いはアレクセイ様の弱みを探ることか、あるいは骨抜きにして操ることか。


私はアレクセイ様を見た。

彼は書類から目を離さず、氷像のように固まっている。 表情は読めないが、ペンを持つ手に浮き出た血管が、彼の忍耐が限界に近いことを示していた。 そして、部屋の隅に立つ護衛騎士ルーカス様は、天井を見上げて「俺は何も見ていない」という顔で地蔵になっていた。


(……非効率だわ)


私はため息をつき、自分のデスクに荷物を置いた。


「あの、エリーゼ様」


「なによ、地味子さん。今、閣下と重要な打ち合わせ中なのだけど」


「打ち合わせ? いえ、それはただの業務妨害です」


私はそろばんを片手に、カツカツと彼女に歩み寄った。


「貴女がこの部屋に入室してから四十五分。その間、閣下の書類決裁のペースは通常時の六〇%まで低下しています。原因は明白。貴女のその香水です」


「はあ? 最高級のローズオイルよ? 癒やし効果があるはずだわ」


「濃度が高すぎます。密閉空間における過剰な香料は、思考力を鈍らせる神経毒と同じです。換気設備の稼働コストを上げる要因にしかなりません」


私はさらに一歩踏み込み、彼女のドレスを指差した。


「それに、そのドレス。秘書業務を行うには機能性が低すぎます。胸元の布面積が不足しているため、前屈みになるたびに『ポロリ』のリスクが発生します。もし露出事故が起きれば、閣下の視覚情報処理に無駄なリソースを割かせることになります」


「なっ……! これは最新の流行なのよ! 男性を喜ばせるための……」


「男性を喜ばせる? 目的が間違っています。秘書の目的は『業務の効率化』です」


私は彼女の目の前で、そろばんを弾いて見せた。


「貴女の雇用コスト(給与+香水代+ドレス代)に対し、貴女が生み出す成果(閣下のやる気)はマイナスです。つまり、貴女の存在はこの部屋において『赤字』です。投資対効果コスパが見合いません」


「あ、赤字……!?」


エリーゼの顔が真っ赤になった。

プライドの高い美女にとって、「美貌」を無視され、「数字」だけで評価されることほど屈辱的なことはないだろう。


「な、なによ! 数字、数字って! 愛や癒やしは数字じゃ測れないのよ!」


「測れます。閣下が貴女を見て微笑んだ回数はゼロ。貴女の発言に相槌を打った回数もゼロ。……愛の重量は、今のところゼログラムですね」


私が無慈悲な事実データを突きつけると、エリーゼは言葉を失い、助けを求めるようにアレクセイ様に縋り付いた。


「か、閣下ぁ! 酷いですぅ! 私、こんなに尽くそうとしているのに……この女をクビにしてください!」


彼女が豊満な胸をアレクセイ様の腕に押し付け、涙目で上目遣いをする。これぞ最終奥義。大抵の男なら、ここでほだされるはずだ。


だが、相手は「氷の宰相」だった。


「……離れろ」


低く、地を這うような声。

アレクセイ様がゆっくりと顔を上げた。

その瞳は、エリーゼを見ていなかった。

彼女の背後にいる私を見ていた。


「私の経理係の言う通りだ。……君は臭い」


「えっ」


「その甘ったるい匂いが、私の思考回路をショートさせかけている。それに、君の体温が私の腕に触れるたびに、不快指数が跳ね上がるんだ」


パキィィィ……


アレクセイ様の腕に触れていたエリーゼのドレスの袖が、白く凍りついた。冷気が彼女の全身を包み込む。


「ひぃっ!?」


「人事局には伝えておこう。『私の執務室に産業廃棄物を送り込むな』とな」


「さ、産業廃棄物ぅぅぅ!?」


エリーゼは悲鳴を上げ、凍りついた袖を抱えて部屋を飛び出していった。 廊下を走る足音が遠ざかっていく。 後に残ったのは、気まずい静寂と、まだ残る香水の匂いだけ。


「……ふぅ。やっと静かになりましたね」


私は窓を開けようとした。

すると、アレクセイ様が指をパチンと鳴らした。 瞬間、部屋中の空気が一瞬にして凍結し、キラキラと輝くダイヤモンドダストとなって床に落ちた。 匂いの分子ごと凍らせたのだ。部屋の空気は、高原の朝のように澄み切った無臭に戻った。


「……魔法の無駄遣いです、閣下。換気設備を買うより高いですよ」


「必要経費だ。あの匂いが残っていると、君が咳き込むだろう?」


アレクセイ様は涼しい顔で言い、私を手招きした。


「リアナ。こっちへ来い」


「はい?」


近づくと、彼は私の腰を引き寄せ、自分の椅子に座らせんばかりの距離で見上げた。

その顔は、なぜか少し不満げだった。


「……君は、妬かないのか?」


「焼く? 何をですか? お肉なら昨日の残りが……」


「嫉妬だ。他の女が私に触れているのを見て、胸が痛むとか、イライラするとか……そういう感情はないのか?」


彼は期待を込めた目で見つめてくる。 嫉妬。

確かに、彼女がベタベタ触っているのを見た時、胸の奥がザワザワとした。 あの胸の大きさは計算外だとか、ドレスの値段が高そうだとか、そういう打算だけではない、黒くて重い何か。

でも、それを認めるのは、私の「損得勘定」が許さなかった。


「……イライラはしましたよ」


「本当か!」


「ええ。業務効率が落ちましたから。残業が増えるのは御免です」


私がすまして答えると、アレクセイ様は「はぁ……」と深いため息をつき、私の肩に額を押し付けた。


「君は本当に、鉄壁だな……。いつになったら、その心の帳簿に『私』という項目を作ってくれるんだ」


「項目ならありますよ。『要注意債権者』として」


「……昇格できるように善処する」


彼は拗ねたように言ったが、私の腰に回した手は離さなかった。 その手の温もりが、さっきのエリーゼの香水よりもずっと心地よくて、私は何も言えなくなった。


一方その頃。 王宮の薄暗い廊下で、逃げ帰ったエリーゼが、通信用の魔道具に向かって震える声で報告していた。


『……失敗です、マクシミリアン様。アインスワース公爵は、予想以上に難攻不落でした』


『チッ、使えん女だ。色仕掛けが通じぬとは、奴は枯れているのか?』


『いえ、違います。……あの部屋には、番犬がいるのです』


『番犬? 騎士団長のことか?』


『いいえ。……もっと恐ろしい、感情を持たない計算機のような女です。あの女がいる限り、宰相に近づくことは不可能です。あの女こそが、最大の障壁であり防壁です!』


通信の向こうで、何かが割れる音がした。 私の知らないところで、私の評価が「地味な経理係」から「宰相の鉄壁の盾」へと書き換えられた瞬間だった。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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