第11話「荒らされた聖域と、宰相の静かなる激怒」
「……騎士団長。説明したまえ」
王宮の宰相執務室。 普段は快適な室温に保たれているはずのその部屋は、今や真冬の雪山のような冷気に支配されていた。 窓ガラスにはびっしりと霜が張り付き、吐く息は白い。
直立不動で立っているのは、王宮騎士団長のガレイン侯爵だ。 歴戦の猛者であるはずの大男が、今は小刻みに震えている。寒さのせいか、それとも目の前に座る「氷の宰相」の圧力のせいか。
「は、はい! 現在、侵入経路を特定中ですが、おそらくは北塔の通気口から……」
「『おそらく』?」
アレクセイ様が、手元の書類から視線を上げた。 その瞳は、感情を一切映さない硝子玉のようだった。
「私が聞いているのは推測ではない。事実だ。
私の執務室に何者かが侵入し、機密書類に触れ、そして誰にも気づかれずに去った。……この国の警備体制は、ザル以下か?」
「も、申し訳ございません! 侵入者は魔力遮断のアーティファクトを使用していた形跡があり……」
「言い訳はいい。今すぐ警備レベルを『フェーズ1』に引き上げろ」
ガレイン団長が息を呑んだ。『フェーズ1』。
それは戦時下、あるいは国王暗殺未遂などが発生した際に発令される、最高レベルの厳戒態勢だ。王宮の出入りは完全に封鎖され、全ての職員に身分照会が行われる。
「か、閣下、それはあまりにも……! たかが書類が数ミリ動いただけのボヤ騒ぎで、そこまでは……」
「ボヤ? 私のテリトリーが汚されたんだぞ。これを大火と言わずになんと言う」
パキリ。 アレクセイ様が持っていた万年筆が、指の圧力で粉砕された。 黒いインクが指に滲むが、彼は気にも留めない。
「全職員の荷物検査、および過去一ヶ月の入退室記録の洗い出しだ。怪しい動きをした者は、即座に地下牢へ放り込め。……尋問は私が直接行う」
「は、はいっ! 直ちに!」
団長は逃げるように敬礼し、部屋を飛び出していった。 嵐のような殺気だけが残された部屋で、私はそろばんを弾く手を止めた。
「……閣下。やりすぎです」
「何がだ」
「警備レベルをフェーズ1に上げると、騎士団員の残業代だけで一日あたり二百万ベルの追加予算が発生します。さらに、検問による物流の停滞で、王宮への納入業者への遅延損害金も発生します」
私はそろばんを振りかざして抗議した。
「たかが泥棒一匹捕まえるのに、コストパフォーマンスが悪すぎます! もっと効率的な罠を張りましょうよ。とりもちとか」
「とりもちでスパイが捕まるか」
アレクセイ様はため息をつき、壊れた万年筆をゴミ箱に捨てた。
「リアナ。君は分かっていない。金の問題ではないんだ」
「では何の問題ですか」
「プライドの問題だ。……奴らは、私の庭に土足で踏み込み、君の痕跡を汚した。それが許せないと言っている」
彼は立ち上がり、荒らされた書類棚の方へと歩いていく。 その背中は、怒りというよりも、何か大切なものを傷つけられた子供のような、純粋で痛切な感情を滲ませていた。
「……それに、奴らの狙いは明白だ。君が見つけたあの『裏帳簿』の原本だろう」
「ええ。幸い、私が持ち出していたので盗まれませんでしたが」
「奴らは焦っている。次はもっと強硬な手段に出るかもしれん。君の身が危険だ」
アレクセイ様が振り返り、私をじっと見つめる。 その瞳には、深い憂色が浮かんでいた。
「リアナ。今日から私の公邸に住め」
「はい? 却下です」
「なぜだ! 安全性が段違いだぞ!」
「公邸からここまでは馬車で二十分。今のボロアパートなら徒歩五分です。通勤時間のロスが無駄です」
「馬車代は出す! 送迎も私がする!」
「そういう問題じゃなくて……」
私たちがいつものように「合理性」と「過保護」の押し問答をしていた、その時だった。
ふと、アレクセイ様の視線が、窓際のカーテンの方へ向いた。 そこは、昨日私たちが仮眠を取った「秘密の聖域」だ。
「……ん?」
彼の目が険しくなる。 彼は無言でカーテンに近づき、バッ、とそれを開け放った。
「あ……」
そこには、無惨な光景があった。 私たちが座っていた長椅子の下。床のカーペットの上に、粉々になった茶色い粉末が散乱していたのだ。 それは、私がこっそり隠しておいた非常食──「特売のビスケット」一袋五十ベルの成れの果てだった。
侵入者が物色した際、カーテンの裏も探り、足元にあった私のビスケットを踏み砕いていったのだ。
「……私の、おやつ……」
私はショックで膝から崩れ落ちそうになった。
あれは、今日の三時の休憩で食べるはずだった、ささやかな楽しみ。 一袋五十ベルとはいえ、私にとっては貴重な糖分補給源だ。
「……」
アレクセイ様は無言だった。 彼はゆっくりと屈み込み、粉々になったビスケットの欠片を指先で拾い上げた。 そして、低く、低く呟いた。
「……殺す」
「え?」
「八つ裂きにして、北方の海に沈めてやる」
振り返ったアレクセイ様の顔を見て、私はヒッと息を呑んだ。 怖い。 裏帳簿を見られた時よりも、国家予算を横領された時よりも、今の彼の方が遥かに恐ろしかった。 瞳のアメジストが、ドス黒く濁って渦巻いている。
「か、閣下? たかがビスケットですよ? 五十ベルです」
「値段ではない! これは……君が楽しみにしていた、君だけのささやかな幸せだろう!」
アレクセイ様が叫んだ。 執務室の窓ガラスに、
ピキピキと亀裂が入る。
「奴らは、君の楽しみを踏みにじったんだ。土足で! 私ですら大切に扱っている君の笑顔の源を!」
「い、いえ、源というほどでは……ただのカロリー摂取で……」
「許さん。絶対に許さんぞ。……犯人が誰であれ、生きて朝日を拝めると思うな」
アレクセイ様は立ち上がると、粉になったビスケットを握りしめ、虚空を睨みつけた。
「衛兵! 騎士団長を呼び戻せ! 警備レベルを上げるだけでは生ぬるい! 『害虫駆除部隊』を編成しろ! 王都中のビスケットを砕いて回るような下劣な輩を、地獄の果てまで追い詰めろ!」
「はいぃぃぃッ!?」
廊下から衛兵の悲鳴のような返事が聞こえた。
私は頭を抱えた。 ビスケット一袋のために、王都に戒厳令が敷かれようとしている。 コストパフォーマンスどころの話ではない。国家権力の私物化も甚だしい。
「……閣下、落ち着いてください。犯人を捕まえて弁償させればいいだけです」
「弁償? 金で解決できる問題ではない! これは尊厳の戦いだ!」
完全に頭に血が上っている。でも体温は氷点下。 私はため息をつき、散らばったビスケットの粉を掃除し始めた。
(……でも)
狂ったように怒る彼の背中を見ながら、私は少しだけ、胸が温かくなるのを感じていた。 私の命や能力を惜しんでくれる人はいても、私の「五十ベルのビスケット」のために、ここまで本気で怒ってくれる人は、世界中で彼だけかもしれない。
「……ありがとうございます、閣下」
私が小声で呟くと、アレクセイ様はピクリと肩を震わせ、少しだけバツが悪そうにこちらを向いた。
「……礼を言われる筋合いはない。まだ犯人を殺していないからな」
「殺さなくていいです。……その代わり、新しいビスケット、買ってくれますか?」
「……山ほど買ってやる。工場ごと買い取ってやる」
極端だ。でも、その不器用な優しさが、今は少しだけ嬉しかった。
こうして、たかがビスケット、されどビスケットの恨みにより、王宮の警備は最高レベルへと引き上げられた。 そしてこの過剰な警備体制が、皮肉にも──次に私を襲うはずだった「直接的な暴力」を未然に防ぐ、最初の防壁となるのだった。




