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第1話「借金地獄と数式オタク、氷の宰相に捕獲される」

「本日より連載開始しました! 初日は一気に5話まで投稿します!」


その後は、

「毎日 朝7:00前後(土日祝は朝10:00)と夜21:00前後の2回更新でお届けします! 完結までストック済みですので、安心して最後までお付き合いください!」



「──あと、七千三百五十二枚」


冷たい井戸水に浸した指先の感覚が、とうの昔になくなっていた。 王宮の厨房裏にある洗い場。

そこには山のように積まれた汚れた皿、皿、皿。

私の名前はリアナ・フォレスト。一応は伯爵家の長女だが、現在の職業は「王宮の臨時皿洗いスタッフ(時給九百ベル)」である。


「一枚洗うごとに〇・五ベルの収入。洗剤の消費量を一押しあたり〇・二ベルに抑えれば、利益率は三%向上する……」


ブツブツと呟きながら、私は無心でスポンジを動かしていた。 手荒れでひび割れた指に洗剤が沁みるが、痛みなどどうでもいい。痛みは金にならないが、皿洗いは金になる。それが全てだ。


父が友人の連帯保証人になり、五千万ベルという途方もない借金を背負わされてから二年。 庶民の平均年収が二百四十万ベルの世界だ。五千万ベルなんて、私のような人間が飲まず食わずで二十年働いても返せない。 屋敷の使用人は全員解雇、家財道具は売り払い、残ったのはボロボロの屋敷と、借金取りの怒号、そしてまだ幼い弟と妹だけ。

私が働かなければ、明日のパンも買えない。


「リアナちゃん、休憩入っていいわよー」


「はい、ありがとうございます」


厨房のおばちゃんに声をかけられ、あかぎれだらけの手をエプロンで拭き、厨房の勝手口から外へ出る。 華やかな王宮の表側とは違う、資材搬入用の殺風景な裏庭。ここが私の唯一の安息の地だ。


私はポケットから、セロハンテープで補強した丸眼鏡を取り出してかける。 世界がぼやけた色彩の塊から、鮮明な輪郭を取り戻す。 そして、その辺に落ちていた手頃な木の枝を拾い上げると、地面の土を均した。


「ふう……さて、と」


ストレス発散の時間だ。 私は脳裏にこびりついている数字を、土の上に書きなぐり始めた。


Σ_{i=1}^{n} (Cost_i × 1.15) - ∫_{0}^{t} Profit(t) dt ≠ Budget_total

(総コスト(15%上乗せ) − 累積利益 ≠ 総予算)


それは、皿洗いの最中に偶然耳に入った、休憩中の財務官たちの愚痴だった。


『北方の城壁修繕プロジェクト、また予算不足だ』


『資材高騰で三億ベルの赤字見込みだとさ』と彼らは嘆いていたけれど。


「……違う。絶対に違う」


ガリガリ、と枝が土を削る音が心地よい。

私の脳内で、数字たちがダンスを踊り始める。


「資材費の高騰率は年率二・五%。対して、計上されている予算の増額幅は一八%。輸送コストと人件費の変動係数を加味しても、この計算式には明らかな乖離かいりがある」


数式が地面を埋め尽くしていく。 複雑な連立方程式が、私の頭の中では一瞬で解けていく。 この感覚。数字だけは嘘をつかない。数字だけは私を裏切らない。


「ここだ。輸送ルートの三番目、中継地点での待機コストが不自然に水増しされている。……これは計算ミスじゃない。人為的な操作、つまり横領ね」


結論が出た。 横領額は、およそ三億五千万ベル。 国家予算全体から見れば数%かもしれないが、地方都市の年間予算が吹き飛ぶ額だ。 犯人は、輸送管理を委託されている商会と癒着した中級貴族あたりだろう。


「はあ……もったいない。その三億五千万ベルがあれば、我が家の借金なんて七回も完済できるのに」


虚しいため息をつき、書き殴った数式を足で消そうとした、その時だった。


「──消すな」


頭上から降ってきたのは、絶対零度の冷気を孕んだような、低く美しい声だった。


「へ?」


間抜けな声を上げて振り返る。 そこには、この世のものとは思えない美貌の男が立っていた。 月光を紡いで作ったような銀色の髪。宝石のアメジストを砕いてめたような、冷ややかな紫の瞳。仕立ての良い漆黒のスーツは、一目で私の年収の数倍はすると分かった。


(うわ、直視すると目が潰れそう……じゃなくて、網膜の修繕費がかかりそう)


あまりの美しさに、私の思考回路はまたしても金銭換算に走ってしまう。

男は私など眼中にないという様子で、地面に書かれた数式を見下ろしていた。


「……君か? この式を書いたのは」


「は、はい。地面を汚して申し訳ありません。すぐに消しますので、清掃費の請求だけはご勘弁を……」


「黙っていろ」


男の冷たい視線が私を射抜く。

怖いはずなのに、なぜか目が離せない。

彼が地面の数式を目で追い、そして最後に私の顔──正確には、テープで止めた眼鏡を見た時、その完璧な唇が微かに歪んだ。


「北方の城壁修繕予算か。……財務局の無能どもが三ヶ月かけても見つけられなかった『使途不明金』の正体を、君はここ数分で暴いたというのか?」


「数分ではありません」


「何?」


「皿洗いをしていた三時間の間、頭の中で検算けんざんしていましたから。式に書き出すのは確認作業です」


私が淡々と答えると、男は眉をひそめた。


「暗算で、この規模の国家予算を処理したと?」


「簡単です。数字には『匂い』がありますから」


「匂い?」


「はい。計算が合わない場所は、なんとなく腐ったような、気持ち悪い違和感があるんです。そこを重点的に掘り起こせば、あとは単純な引き算です」


私は地面の数式の最後、横領額と思われる数字を枝で指し示した。


「ここの係数、意図的に操作されています。正規の輸送ルートではなく、遠回りのルートを使ったことにして経費を水増ししていますね。この無駄なルート変更による損失だけで、パンが三百五十万個は買えます」


言い切った後で、私はハッとした。

相手が誰かも分からないのに、生意気なことを言ってしまった。もしこの人が、その横領に関わっている貴族だったら? 口封じに消される? 私の命の値段なんて、今の市場価値ではゴミ同然だというのに。


しかし、男の反応は予想外だった。

彼は低く、喉を鳴らすように笑ったのだ。

笑顔なのに、目が全く笑っていない。

美しいけれど、背筋が凍るような笑み。


「パン三百五十万個、か……。なるほど、君の基準は面白い」


男が一歩、私に近づく。 高級な革靴が、私の運動靴(穴あき)のすぐそばで止まる。


「名前は?」


「……リアナ・フォレストです。ただの臨時皿洗いです」


「フォレスト家……ああ、あの没落寸前の」


私の実家の惨状をご存知とは。

男は私の顎に指をかけ、強引に上を向かせた。

至近距離で見る紫の瞳に、私のマヌケな顔とボロボロの眼鏡が映っている。


「君のその計算能力スペック。私が買おう」


「……はい?」


「今の時給はいくらだ?」


「きゅ、九百ベルですが……」


「安いな。不当廉売ふとうれんばいもいいところだ」


男は呆れたように吐き捨てると、懐から一枚のハンカチを取り出し、私の汚れた手を拭った。 最高級のシルクの手触り。これ一枚で、私の給料の何ヶ月分だろう。


「明日、王宮の正門へ来い。私の執務室へ案内させる」


「はあ……あの、失礼ですが、貴方様は?」


「アレクセイ・フォン・アインスワース」


その名前を聞いた瞬間、私の脳内電卓がエラーを起こして停止した。


アインスワース公爵。

この国の宰相にして、国王陛下以上に国を牛耳っていると言われる男。 逆らう者は容赦なく排除し、その冷徹さから「氷の宰相」と恐れられる、生きる伝説。


(終わった……。私、国のトップに生意気な口をきいた罪で、明日処刑されるんだわ。処刑費用は遺族請求かしら?)


青ざめる私を置いて、アレクセイ様はきびすを返した。 去り際に、私を拭いたハンカチを放り投げる。


「それはやる。明日まで逃げるなよ。……私の新しい『計算機』」


地面に落ちたシルクのハンカチ。

私は震える手でそれを拾い上げた。 怖い。

確かに怖かった。でも、私の口から出た言葉は、悲鳴ではなかった。


「……これ、質に入れたらいくらになるかしら」


我ながら、金への執着が恐ろしい。 だが、そんな悠長なことを考えていられたのも、家に帰るまでの間だけだった。


夕暮れ時、重い足取りで屋敷に帰り着いた私は、玄関の扉が蹴り破られているのを目撃した。


「おい! いるのは分かってんだぞ! 金を返せ! 返せねえなら、弟と妹を売り飛ばすぞ!」


怒号。悲鳴。そして、何かが壊れる音。 借金取りだ。今までとは違う、実力行使に出るタイプの危険な連中。


「お、お姉ちゃん……!」


弟の泣き叫ぶ声が聞こえる。 私の頭から、アレクセイ様のことも、数式のことも吹き飛んだ。

あるのはただ一つの現実。


金がなければ、守れない。

今日、今すぐに、金が必要だ。


私は握りしめていたシルクのハンカチをポケットに突っ込み、絶望と覚悟を同時に背負って、壊された扉の中へと駆け出した。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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