第7話 出逢いの日 (Side:シャロン)
それは、確か十歳になる春――蕾を膨らませた花々が、一斉に芽吹くような、穏やかで心地よい陽だまりの日だった。
「シャロン。今日は、君に紹介したい人がいるんだ」
世界で一番大好きなお兄様が、珍しくそう言って、私を外へと連れ出そうとした。
屋敷の外は、怖いことで溢れかえっている。いつもはお兄様だって、そう言っているのに。
困惑して物怖じする私に、お兄様はアイスブルーの瞳を緩めて笑い、手を差し伸べてくれた。
「大丈夫。僕が一番信頼している男なんだ。どんな危険からも、君を守ってくれる」
促されるように、手を取られる。昔一緒にお人形遊びをしてくれた頃より、ずっと大きく、温かな掌。
世界で一番優しい、春の陽だまりのような人。
「さぁ、行こう。ちょっと気まぐれな奴だから、あまり待たせると、ふらっとどこかで居眠りでもしそうなんだ」
「ぇ……」
それは、”ちょっと”どころではない気まぐれさではないだろうか。
あのお兄様が「一番信頼している」などと言うからには、それはそれは品行方正な良家の御子息か何かだと思ったのに。
手を引かれて向かったのは、庭師が丹念に手入れしているバラ園。
無数の品種のバラが放つ、複雑だが調和のとれた匂いが充満する中、その男は、気だるさを隠しもせずに欠伸をしていた。
「――カルロ!待たせてごめん」
「本当にな。もう七回は帰ろうと思った」
くぁ、と口に手も当てずもう一度欠伸をする男に驚いて、思わずお兄様の影に隠れた。
――見知らぬ男の人は、怖い。粗野な振る舞いをする男は、なおのこと。
私は、そぉっとお兄様の影から片目を出して、カルロと呼ばれた人を盗み見る。
お兄様と同じか少し高いくらいの背丈。顔立ちは整っているけれど、黒髪に深紅の瞳という色合いは、この国では非常に珍しい。移民だろうか。
王都の学園の制服の襟に付けられた印を見ると、お兄様と同学年――今年、十二になる歳らしい。
甘い香りの中、礼儀や礼節といった言葉とは無縁の男は、面倒くさそうにお兄様の後ろへと視線を遣る。
「で?――さっきから怯えた小動物よろしくコソコソしてるのが、お前の妹か?」
「――!」
自分に意識が向けられたことに驚いて、ササッとお兄様の後ろに隠れる。
「ちょっと、カルロ。小動物なんて――シャロンはすごく、いい子なんだ。身内の贔屓目を差し引いても、本当に可愛くて、素直で、フロスト家に舞い降りた天使みたいな存在で――少し、人見知りなだけ。でもそれもまた、最っっ高に可愛いだろう?」
「このシスコンめ。人見知りだかなんだか知らないが、俺にだって未来の嫁の顔を拝む権利くらい、あるだろう」
「!?」
見知らぬ男の口から飛び出た言葉に驚いて、思わずお兄様の服をぎゅっと掴み、おろおろと見上げる。
説明を求める困惑を察し、お兄様は困ったように眉を下げ、優しく私の頭を撫でた。
「シャロン。この男は、カルロ。学園で知り合った僕の親友で、すごい魔法使いなんだ。優秀で、とても頼りになる。……こう見えて、ね」
「おい」
「でも、根っこはとても優しくていい男だよ。君を預けるに足ると判断した。父上も母上も、だよ。だから、君に紹介したくて」
ぎゅぅっとお兄様の服を握り締めれば、不安に瞳が揺らぐのが自分でも分かった。
私も、馬鹿ではない。「紹介」などと言われたって、これはきっと、決定事項なのだ。
「ったく……面倒だな。おい、アルヴィンの妹」
勇気が出ない私を見かねたのだろう。
男は長い脚を折ってしゃがみ、気だるそうに膝に頬杖を突くと、影に隠れる私に素っ気なく言い放った。
「俺は、お前の用心棒みたいなモンだ。何かと危険に巻き込まれるお前を生涯守る代わりに、移民の俺は、フロスト家の後ろ盾を得る。持ちつ持たれつ、いわばビジネスの関係だ。そう深刻に考えるな」
「ちょっ――カルロ!そんな言い方――シャロンはまだ十歳なんだぞ!」
「事実だろ。十歳なら、自分の境遇や家のことも分別がつく。愛だのロマンだの、夢物語とは早めに決別しておく方がいい」
二人が頭上で言い合うのを聞き、私は覚悟を決める。
そうだ。――わかっている。貴族の家に生まれた以上、いつか、家のために結婚をしなくてはいけないことくらい。
ただ、勝手に、家の利になる良家の貴族と縁を結ぶと思っていた。平民の――まして移民の男と結婚するだなんて、思っていなかっただけだ。
だが、それをお兄様は良しとするという。お父様もお母様も了承したという。
ならばこれが、フロスト家にとって――何より私にとって、最良の選択ということなのだろう。
だって、大好きな家族が、私のためを考えて決めてくれたことなのだから。
「……あの」
震える声を必死に抑えて、ゆっくりとお兄様の影から足を踏み出す。
ぴたり、と二人の言い合いが止んだ。
「――シャロン・フロスト、と言います。どうぞ、お見知りおきを……」
そっとスカートを摘まんで、礼儀作法の授業で習った通りの礼をする。
さぁ――っと春の風が吹いて、バラの香りが広がった。
髪が乱れないように、手で押さえて顔を上げると、この国では珍しい深紅の瞳が、こちらに注がれていた。
「……へぇ」
言葉少なく呟いた男は、まじまじと私の顔を覗き込む。
再びお兄様の影に隠れたくなったが、ぎゅっと唇を引き結んで恐怖に耐えた。
「俺は、カルロ。カルロ・ファレス。よろしくな、シャロンお嬢様」
むせ返るような甘いバラの香りの中、私はただ、今にも逃げ出したい衝動を堪え、将来の夫として紹介された男の顔から眼を逸らさぬよう、必死に見上げるばかりだった。