第61話 ドロテアの涙 (Side:シャロン)
入浴を済ませて部屋に戻ると、待ち構えていたレイアに迎え入れられた。大きな鏡台の前に座らされ、温風の魔道具で手際よく髪が乾かされていく。
心地よい温もりに身を任せながら、私はそっと鏡台の引き出しを開けて重厚な箱を取り出した。
「まぁ……『ドロテアの涙』ではないですか。そんなところに――後で私が金庫に入れておきますね」
『ドロテアの涙』――それは、フロスト家に伝わる特別な首飾りの異名だ。
初代女当主と呼ばれるドロテアが身に付けていたという、大粒のサファイアの装飾。涙の雫を思わせるカットが特徴で、普段は金庫で厳重に仕舞われている。
ドロテアへの敬意を示して、代々、女当主しか身に付けることを許されない特別な宝飾品。家宝と言ってもいい。男が当主になった代は日の目を見ることはないが、定期的に手入れはされていて、細い黄金のチェーンにもくすみ一つ見られない。
私が数代ぶりに当主を継ぐことになったので、デビューの時に身に付けることになったのだ。
昼間のドレスの試着の際に取り出して、金庫にしまい忘れてしまったので、一時的に引き出しに入れていた。
「実物は今日、初めて見ましたが、本当に見事な宝石ですね」
「えぇ。この宝石に負けない品と威厳を身に付けなければいけないわね」
そっと箱を開けると、澄み切った美しい蒼玉が、見る者を魅了する不思議な輝きを放つ。
小娘が身に付けるにはふさわしくないものだとわかっているが、気後れするわけにはいかない。
私は、フロスト家女当主となるのだから。
「レイアは、ドロテアの物語を知っている?」
「えっと……とても優秀な領主様だったというのは聞いています。確か、王国建国後、最後に併合された領地なんですよね?」
レイアの言葉にうなずき、そっと宝石を指で辿る。
幼いころから何度も聞いた、憧れの女当主の伝説。
「フロスト領は、併合前は、元々”流浪の民の土地”と呼ばれていたのよ。古竜の時代に世界中が混乱し、土地が痩せ、人間は毎日その日を生きるのに必死になって――」
文明が退行した世の中で、人は信頼できる者と肩を寄せ合い、力を合わせて生きるようになった。
最初は小さな単位だった集団も、少しずつ周囲を取り込み、大きくなる勢力が現れた。
そうして周囲を取り込み続け、”国”と呼ばれるまで成長したものの一つが、この王国だ。
大きな力に抗い続けるのは苦しい。巻き込まれてしまった方が、利も大いにある。
次々と併合が繰り返され、領土を拡大する王国に、最後まで抗ったのが、ドロテアを主と戴く今のフロスト領だった。
「フロスト領は、最初、本当に荒れ果てて、誰も住みつかないような劣悪な土地だったらしいわ。好き好んで訪れるような人は誰も居なくて、やって来ても劣悪な環境に耐えきれずすぐに出て行ってしまう――だから、”流浪の民の土地”。もしかしたら、恐化の被害がひと際ひどかったのかもしれないわね。それを変えたのが、ドロテア」
「変えた……とは?」
「言葉の通りよ。ドロテア自身も流れ着いたうちの一人だったようだけれど、その時その場にいた者たちを鼓舞して、立ち上がらせた。土地を浄化し、耕し、治水を行い、治安を整備し、人が住める環境へと変えていった。流れ着く者はだれでも受け入れ、ここを終の棲家にしたいと言わせるまでになった」
「す、すごいですね……」
「えぇ。本当に、凄い方だったのよ」
最初は誰にも見向きしなかった劣悪な土地は、浄化され、人々によって開墾されたことにより、温暖な気候と相まって大陸有数の豊かな穀倉地帯へと変わっていった。
”利”があれば、必ず手中に収めたいと思うのが、人の常だ。
”流浪の民の土地”と蔑まれていた時代が去り、”現世の楽園”とまで呼ばれる時代になって初めて、王国は己の手中に収めんと動き出した。
「最初は、強く抗ったようよ。完全なる自治が進んだ土地で、王国の治世を享受する”利”はないもの」
「ドロテア様の求心力も、強かったでしょうし、かつて自分たちを助けてくれなかった王国を主として戴けと言われても、民は納得しなかったでしょうしね」
「その通り。他から爪弾きにされて流れて来た者が作った土地だもの。何をいまさら――と怒りを覚えるのも無理はないわ」
だが王国は、肥沃な大地と化したフロスト領を見過ごすことは出来なかった。自分たちが手に入れなければ、他国が手に入れてしまう。
焦った王国はついに、軍事的制圧を試みた。
「豊かな大地のおかげで、金や人には恵まれていたフロスト領だけど、流石に一国家の軍事力に対抗できるだけの力はないわ。民の抵抗もむなしく、耕した大地が焼かれ、無情に命を散らすことになった」
「まぁ……」
ドロテアは心から悲しんだ。
誰よりも民を愛する、優しい主だったから。
「結局ドロテアは、これ以上の侵略行為を一切せず民の安全を保障するという条件で、王国の一部になることを受け入れたの。国は、万が一の反乱に備えて、王家に連なる者をドロテアの伴侶にあてがったわ。結果として、その血筋のおかげで、今のフロスト家の権威が保たれているのだけれど」
もうだいぶ薄くなったとはいえ、歴史上、王家の血を正式に継いだ記録が残っているというのは、血統第一主義のこの国において、非常に重要なことだ。おかげで、フロスト家は未だに、国有数の大貴族だと言われている。
「彼女は為政者として素晴らしかったと伝えられているわ。女性だったけれど、土地を浄化し開墾するときも、王国の侵略に遭ったときも、国に決められた男との結婚を強いられたときも、決して涙の一つも見せることなく、ただ民と領地のために生涯を費やした、と」
「そんな女性が身に付けた宝石が、涙の雫の形をしているというのは、皮肉を感じますね」
髪を乾かし終えて、レイアは苦笑しながら魔道具を片付ける。
「そうね。でも……泣きたい気持ちは全て、この宝石に託して、いつも強い顔だけを民には見せていたと思うの」
ドロテアが愛したという、広大な湖を思い出す。
よく晴れた日に赴いたから、知っている。
抜けるように青い空と、鏡のように空を反射する広大な湖面。
独りになりたいとき、辛いことがあった時――世界一面が蒼に染まったと錯覚するような美しい光景を、この宝石を胸に、どんな気持ちで眺めていたのだろう。
「私も……強く、なりたいわ。女傑ドロテアのように」
涙型の宝石を指で辿って、呟く。
さめざめと泣きたくなる弱い気持ちなんて、全部この石が吸い取ってくれたらいいのに。
目を閉じれば、幼いころから憧れた、ドロテア湖の美しい眺めが蘇りそうになり、素早く瞬きをして幻影を追い払う。
「……っ……」
あれはキラキラと、目にするすべてが輝いて見えた、特別な日。
自由なんてありえないと諦めていた昔の私に、視界いっぱいに広がる蒼い世界を見せてくれた、隣に寄り添う、愛しい人。
私のことを運命共同体だと言って、毎日笑っていてほしいと言ってくれた人。
気付けば、前も後ろもわからなくなるくらいに、溺れるように愛してしまった、初めての人。
「お嬢様……」
「何でもないわ。……夜更かしは美容の大敵。すぐに寝なくては」
レイアの気遣わしげな声が飛ぶが、気づかないふりをして宝石箱の蓋を閉じる。
ドロテアは、生涯、恋をしなかったのだろうか。息が苦しく、胸を焦がすような、命を燃やすような本気の恋を。
もしそうなら、教えてほしい。
欠片も愛していない男と、生涯を添い遂げざるを得ない苦痛を、どのように乗り越えるかを。
――全身をかけて愛した男が、別の女に寄り添う姿を見ても、涙を流さず耐える方法を――
「おやすみなさいませ、お嬢様。よい夢を――」
親友の優しい声が聞こえる。
灯りが落とされ、静寂に包まれた寝室で、私はそっと目を閉じた。




