第57話 シャロン・フロスト (Side:カルロ)
一瞬、何が起きているのか、全くわからなかった。
今まで、天才と褒めそやされた頭脳すら、現実を拒否したようにフリーズしてしまい、使い物にならない。
「な……何を、言って――アル、ヴィン……?」
引き攣った顔で振り返りながら声を絞り出すと、いつもの”アルヴィン”ではない顔で困ったような表情を浮かべたシャロンがいた。
その瞬間、悟る。
もう、何度もかけ直した暗示など、とっくの昔に解けてしまっていることを。
「改めて、初めてお目にかかります。シャロン・フロストと申します。茶番に付き合っていただいていたのであれば、申し訳ありませんでした」
シャロンはアーノルドに向かってその場で軽く足を下げて礼をする。
それは、男性がする礼ではなく、貴族令嬢がドレスでする礼の仕草に他ならなかった。
優雅な礼を受けて、アーノルドはバツの悪そうな顔をした後、ぎこちなく礼を返す。魔塔で貴族出身の白魔導師と会話するときにでも身に付けたのか、形だけは貴族式の礼だった。
「頭を上げてください、シャロン嬢。茶番だなんて思っていませんよ。実際、あなたの演技は完璧だった。今、この瞬間まで、カルロが違和感を抱かなかったくらいだ。私も、ただ会話を交わしただけでは、最後まで演技だなんて気づかなかったことでしょう」
教師と生徒の間柄から、貴族と平民の間柄へと口調を変えて、アーノルドは続けた。
「私が気づいたのは偶然です。資料館で貴女たちと別れ、資料を揃えてここへと向かう前――職員に一言、注意をしてから向かおうと思ったんです」
「注意……?」
「はい。貴女が魔法による暗示下にあるというのは、カルロから聞いてました。ならば、入館時の身分提示で、貴女は『アルヴィン・フロスト』と名乗っていたはずです。ですが、貴女はどう見たところで――男装の麗人にしか見えない」
「あぁ……なるほど。確かに、そうですね」
シャロンは、観念したような穏やかな微笑みを浮かべた。
二人の会話を聞きながら、俺は立ち尽くす。
頭では理解している。だが、心が追いついていかない。
「確かに、有力貴族が出入りする特別資料館の優秀な職員が、フロスト家の嫡男の名を知らないはずがないと思いました。服装を変えたくらいでは、男と言い張るには苦しい外見ですし、入り口で止められてしまうかも、と思って本名を書きましたね。シャロン・フロスト――と」
「はい。もし貴女が、アルヴィン君の名前を書いていたなら、職員は、一般人の入場禁止区域に身分を偽って入ろうとした不審人物として、絶対に貴女を制止しなければいけなかった。職務怠慢を注意しようと思って、入館手続きの名前を見て、気づいたんです。貴女の暗示は、少なくとも昨日――資料館に来た段階では、もう解けていたんだということに」
ドクン、ドクン、と心臓が大きく脈打つ。二人の会話が、どこか遠くに聞こえる。
シャロンの暗示が、解けていた――?
昨日より前――いったい、いつから……?
「このまま、指摘をせずに別れることも出来たのですが――何故そんなことをしているのか、どうしても気になりました。カルロを揶揄い、弄んでいるようならば、看過は出来ません。カルロは、本当に、心から貴女とアルヴィン君を救いたいと尽力してきた。文字通り、何もかもを擲って、です」
「わかっています。カルロには本当に、感謝してもしきれません。これは、最初からずっと――暗示下にいたときからずっと、ずっと、変わらない気持ちです」
呆然として言葉を紡げない俺に向かって、シャロンは視線を向けた。
何度も俺の心を魅了した美しい相貌が、申し訳なさそうに曇った。
「騙してしまうような形になって、ごめんなさい。決して、弄ぶなどと――そんなつもりは、誓ってありませんでした」
「……い、つ……から……」
喉の奥に張り付く声を無理やり絞り出す。
掠れた声で紡いだ問いに、シャロンは穏やかに答えた。
「王都の駅で倒れた後――目が覚めてからは、ずっと」
「な――んで――」
「最初は、混乱しました。ですが、レイアをはじめとした使用人たちが皆、必死の形相で私をお兄様として接して、暗示をかけ直そうとするものですから」
シャロンは一度言葉を切り、微かに苦笑を浮かべる。
「すぐに状況を悟り、彼女たちが求める”私”を演じることにしたのです。この一年、皆に酷く心配をかけた自覚はありますから」
目を伏せて懺悔するシャロンを、何も言えず凝視する。
すぐにアルヴィンとして振舞えたということは、暗示下にあったときの記憶もちゃんとあるのだろう。定期的にシャロンとしての人格を取り戻しては、半狂乱になって自暴自棄に命を投げ出そうとしたことも覚えているらしい。
だから、意向を汲んだ。周囲の者を心配させないように。
貴族令嬢として幼いころから厳しく本音を隠すことを訓練されてきたシャロンだ。記憶もあるなら、本当の自分を隠して演技することなど、造作もなかっただろう。
「なんで――それなら、俺にくらい、本当のことを言ってくれても――」
茫然とした声で問いかけながら、一歩、シャロンへと近づく。
まるで縋るような足取りに、シャロンは目を伏せたまま静かに答えた。
「……えぇ。そうですね。貴方には、本当のことを告げても良かったかもしれません」
胸に手を当てて認めた後、ゆっくりと瞳を開く。
アイスブルーの瞳が、俺の姿を捉える。
冬の湖面のような美しい瞳が、少しだけ――泣きそうに、緩んだ。
「それは、私の弱さです。どうせ、タイムリミットはあと二週間――貴方と過ごせる最後の時を、自分の手で早めたくなかった。私が”アルヴィン・フロスト”でいるうちは、貴方とお兄様を助ける方法を考え続けていられたから――」
「な――」
シャロンは一瞬だけ震えた唇をぎゅっと引き結んだあと、ゆっくりと笑みを浮かべる。
それは完璧な、貴族令嬢としての笑み。
本音に踏み込ませることなく――他者と隔絶する一線を強く引く、拒絶の微笑み。
「今まで、ありがとうございました、カルロ。フロスト家の人間として、惜しみない感謝と、貴方をここまで巻き込んでしまったことへの謝辞を」
「ま――待て――!」
シャロンが何を言い出そうとしているのかを察し、慌てて声を上げるが、間に合わない。
悠然と微笑んだシャロンは、まっすぐに俺の瞳を見据え、言い切った。
「ですが、それも今日まで。”シャロン・フロスト”はもう、貴方の隣にいられません。――お別れしましょう、カルロ」
シャロンの言葉が響き、頭を殴られたような錯覚を覚える。
一分の隙も無いシャロンの完璧な微笑みだけが、やけに鮮明に目に焼き付いていた――




