第18話 ベアトリス③ (Side:アルヴィン)
「――――……は……?」
ギギギ……と音が出るのではと思うくらいぎこちなく、カルロが振り向く。
顔が引きつって、こめかみには先ほどとは比べ物にならないくらい太い青筋が浮いていた。
「なん……っで、お前が、そっち側なんだよ!?」
「い、いや、だって――ベアトリス嬢の言っていることは、全部、正しいだろう!?」
距離を詰めて苛立ちを露わにしたカルロに、慌てて僕も弁明する。
「フロスト家が君に提供できる『利』よりも、圧倒的に価値が高い『利』をレーヴ家は提示してる。ベアトリス嬢個人を見ても、シャロンよりも君に貢献できるのは火を見るより明らかだ。この状況で、シャロンとの婚約にこだわる理由が全く以てわからない。義理とか情とか以外に、何かあるかい?」
呆れたように返すと、カルロはそんな反論を受けると思っていなかったのか、ぐっと言葉に詰まる。
隣のベアトリス嬢も、まさか僕から援護されるとは思わなかったのだろう。ぽかん、と口を開けて成り行きを見守っていた。
「君はなぜか、僕がシャロンと君の婚約を今後も変わらず推し進めると思ってるみたいだけど――そんなことはない。平民の君には馴染みがないかもしれないけれど、義理とか情とか、そんなものは貴族の結婚に必要ないんだよ。全部が打算で進んでいく。もし僕が君を引き留めたいと思うなら、レーヴ家以上の条件を出さないといけない。だけどそれは難しい。だから、ここで君がレーヴ家と縁を結ぶと言っても、僕に引き留める権利はない」
「おまっ……」
「シャロンもきっと同意見だよ。ああ見えてシャロンだって、生粋の貴族だ。もし人間に戻ったとしても『フロスト家は、より良い条件を提示できなかったから婚約は破棄したよ』と伝えても、君を薄情だなんて責めたりはしない。それなら仕方ない、と当たり前に受け入れるはずだ」
ひくっと頬を引き攣らせるカルロに、淡々と事実を告げていく。
なぜかベアトリス嬢まで、痛ましいものを見るように顔を青ざめさせているのはよくわからないが。
「第一、君自身もシャロンと最初に会ったときに言ってただろう?『持ちつ持たれつ』『ビジネスの関係』だって」
「なっ――あんなん、最初の最初、シャロンと顔を合わせる前の――!」
「ベアトリス嬢は君が初対面でべた褒めするくらいだから、外見的にも気に入っているんだろう?……シャロンとは違う」
「っ、はぁ!?何の話だ!」
ぼそりと小さな声で付け足した棘のある嫌味を聞き咎め、凄い形相で噛みつくように言われたが、僕はため息を吐くだけで回答を避けた。
この男、シャロンとの初対面を忘れているのか。
道行く女性には軽薄にスラスラと出てくる美辞麗句の一つも、シャロンには最後まで一度も言ってやらなかったくせに。
シャロンがカルロの国の風習を知った日からずっと、彼女は自分に魅力がないのではと思い悩んでいた。
カルロが軽薄に声をかけた女性と自分が何が違うのか、初めての恋に戸惑って、知らず湧き起こる嫉妬に毎夜胸を痛めて――政略結婚に過ぎないこの婚約に、夢を見てはいけないと言い聞かせ、全てを呑み込んできた。
カルロに会うときは貴族らしく、絶対に本人には悟られぬよう本音を一切表情にも出さなかったシャロンの努力を想って、意地でも口にはしてやらないが。
「そもそも、昔と今じゃ状況が違う。当時は、君とシャロンが結婚すれば、フロスト家としても得るものがあった。だけど、フロスト家次期当主の立場から冷静に言わせてもらえば――」
心を鬼にして、告げる。
カルロが、少しでも新しい道を選びやすいように。
「正直、フロスト家としても、君とシャロンが結婚したとて、大した『利』はない。むしろ今の状況じゃ、厄介事が増える可能性すらある」
それは半分本当で、半分は正しくない。
竜となったシャロンが奇跡的に人間に戻れても、フロスト家には戻れない。そんな彼女がカルロと結婚しても、フロスト家として何かメリットがあるわけではない。
ただ、シャロンが愛する男と結婚出来れば、この上なく幸せになるだろう、という、家族の幸せを願う『情』以外に、僕たちがカルロを引き留める理由はないのだ。
だが、国の英雄になるかもしれない男を、そんな『情』だけでは引き留められない。
貴族の後ろ盾を得られない結婚をしたって、カルロには何の得もないどころか、マイナスにしかならないだろう。
「幸い、シャロンは社交デビューもしていなかったし、君との婚約は口約束でしかなかった――つまり、誰に気兼ねする必要もないんだ。親友としては、シャロンのことなんか忘れて、カルロ自身にとって最良の道を選んでほしいと、心から思っているよ」
僕が穏やかな笑顔で締めくくると、なぜかカルロは絶望したような顔で、よろっとその場によろけた。
「……なんで俺は、これ以上ない清々しい笑顔でこっぴどくフラれてんだ……?」
「なんだか私まで、カルロ殿が可哀想になって来ましたわ……」
茫然と呟くカルロに、ぼそりと隣でベアトリス嬢が呟く。確かに、同情したくなるくらいの顔色の悪さだった。
だけど、仕方ないと思ってほしい。
事件後、シャロンとの婚約は絶対に破棄しないと言い切ってくれたカルロの厚意は本当に嬉しかった。誰もシャロンを人間に戻せないと決めつけている中で、唯一の味方だと表明してくれたようで、どれほど救われたかわからない。
それでも、あの日からもう一年だ。この一年必死に頑張ったが、結局シャロンを助ける術は未だに確立できていない。
いつまでもカルロの厚意に甘え続けるわけにはいかないだろう。
僕も現実から目をそらさず、今後のフロスト家の未来について考える時期に来ているのだ。
「もちろん、シャロンの婚約者じゃなくなっても、僕は君の友人だ。この一年は本当に君に頼りっぱなしだった。必ず恩返しをしたい。何かあったら、いつでも頼ってほしいと思っているよ」
「そぉいうことじゃねぇんだよ……賭けてもいいが、俺が知ってるアルヴィンは絶対、んなこと言わねぇ……」
ゴン、と壁に額を預けてそのままずるずると崩れ落ちそうなカルロに、オロオロする。
予想外の反応をされて対応に困っていると、傍にいたベアトリス嬢が、キッとこちらを見上げた。
「わっ……私、お礼は申しませんわよ!」
「あぁ……構いませんよ。貴女のためにしたことではないので」
弱みを決して見せまいとする少女の矜持を認め、ふわりと微笑む。
事実、僕がベアトリス嬢との結婚を進めたのは、カルロのためだ。ベアトリス嬢のためではない。
ただ――同情の気持ちがなかったと言えば、嘘になる。
政略結婚は貴族の子女にとって、どうしてもついて回る問題だ。
気持ちがどうであれ、折り合いをつけなければならない。
愛など欠片もない平民のカルロに、これまで最高位の貴族に嫁ぐために磨いてきた全てを使って尽くすのが、ベアトリス嬢に課せられた人生だ。
きっと感情がどうあれ、少女はこれから必死に折り合いをつけていく。
「カルロはこう見えて、意外と優しく、頼りになる男ですよ。愛のない政略結婚でも、親友の妹ならと、精一杯の情を注いでくれる男です」
シャロンの記憶の一部を持つ僕は、ベアトリス嬢に告げる。
『ビジネスの関係』なんて言いながらも、シャロンが好きな花を何度も贈ってくれた。狭い世界にしか生きたことのなかったシャロンを色々な所に連れ出して、全ての危険から守ってくれた。口下手で引っ込み思案なシャロンにも、飽きずにたくさん話しかけてくれた。
社交が出来ずトラブルに巻き込まれがちという、貴族令嬢としては問題も多かったシャロンには、もったいないくらいの、いい男だった。
「貴女もまた、カルロにはもったいないくらいの素晴らしい女性です。それでも彼を結婚相手に選んでくれるという。……大丈夫。貴女がこれまでしてきた努力は、無駄にはなりません。カルロがきっと、無駄にはさせない。自信を持ってください。貴女の未来は、幸せに満ち溢れていると」
「――」
ベアトリス嬢はハッと息を呑む。
貴族令嬢としての苦しみも辛さも、わかっているつもりだ。
彼女が気丈にカルロに突っかかっていたのも、強い言葉を使うのも――宣戦布告なんていうことをしたのも。
本当は全て、不安の裏返しなのだろう。
おそらくトビアス氏から、僕らの滞在中に平民のカルロを篭絡しろと言われてからずっと――この幼い胸に不安をぎゅっと押し込めて、貴族らしく不敵に笑い続けてきたのだ。
「あと数年もすれば、貴女は社交界で知らぬ者はいない貴婦人になるでしょう。皆が貴女と懇意にしたいと列を成すはずです。……もし、シャロンがその列に並んだ時は、笑顔で迎えてくださると嬉しい。彼女はとても不器用で、社交が苦手な子だから」
「っ……!」
ベアトリス嬢の紫の瞳に、じわりと涙がにじむ。
ずっと一人で気を張ってきたのが緩んだのだろう。
僕はそっと、妹にするようにベアトリス嬢の頭を撫でる。
きっとシャロンも、これからカルロへの気持ちに折り合いをつけるのだろう。
切ない恋心はこれまで通り奥底に秘め続け、そんな過去があったことすら一切誰にも匂わせず、愛してもいない男の元へ嫁ぐのだ。
そうして折り合いをつけた先――いつか、ベアトリス嬢と笑い合えるような日が来たら、いい。
そんな奇跡が起きるわけないとわかっているけれど、夢をみることくらいは、許してほしい。
心の鎧を脱ぎ捨てて、歳相応の顔で涙を溢れさせるベアトリス嬢に、僕はかつて幼い妹にしてやったように涙を拭ってやるのだった。