第17話 ベアトリス② (Side:アルヴィン)
「はぁっ……疲れた……」
トビアス氏との腹の探り合いに疲れた僕は、退室してすぐに、大きなため息を吐く。
もうすぐ、社交シーズンだ。きっとトビアス氏は、ベアトリス嬢を連れて王都へ出向くのだろう。
それまでにカルロを説得し、婚約を結ばせ、ベアトリス嬢の社交デビューにエスコート役として伴わせる心づもりのはずだ。今なら、シャロンは口出しできない。レーヴ家にとって、これ以上のチャンスはない。
貴族令嬢の社交デビューにおけるエスコート役は、婚約者が務めるのが常識だ。並み居る貴族たちの前でファーストダンスを踊れば、名実ともに、それ以降は社交界の中でも「正式な婚約者」として見られることとなる。
シャロンは引っ込み思案で社交が苦手だった。外出するだけで危険に巻き込まれることもあって、僕や家族は出来る限り社交デビューを遅らせていた。結果としてはよかった、と今なら思える。
もし事件前にシャロンがカルロをエスコート役にして社交デビューを果たしていたら、彼とベアトリス嬢の縁談は複雑を極めただろう。良くも悪くも、シャロンとカルロの婚約は、所詮口約束に近いものでしかなかったのだ。
契約書は交わしているものの、シャロンが社交界にお披露目されていない以上、まだ「噂の段階」に過ぎない。今なら、どちらかが望めば簡単に破棄できる。だが一度社交界で正式に発表されれば、破棄には相応の理由と社会的な説明責任が伴うことになる。
……いっそ、シャロンの社交デビューを遅らせていた僕たちに感謝してほしいくらいだ。
そんな皮肉を胸に廊下を歩いていると、遠くに見知った背中が目に入る。
噂をすれば何とやら――というやつだろうか。
「だぁからっ……!俺にはシャロンがいるって、何百回言えばわかるんだ、ぁあん!?」
およそ貴族の屋敷内とは思えないガラの悪い言葉遣いに、僕は思わず眩暈を覚える。本当に、彼にはもう少し礼儀礼節というものを学んでほしい。
シャロンと結婚するならそれでもよかったのだが――もう、そういうわけにもいかないのに。
「何度言われても、諦めませんわ!私の何が不満ですの!?」
叫びながら、ベアトリス嬢はカルロの腕にしがみつく。淑女たれと育てられた貴族令嬢としては、さぞ勇気がいる行動だろう。
察するに、このやり取りは屋敷に来てから何度も繰り返されたものらしい。思えば、ベアトリス嬢がなぜか僕に「宣戦布告」をしてきたのは、初日の夜だった。あれ以降、僕には何も言いに来なかったが、その間ずっと、こうしてカルロに付きまとっていたのかもしれない。
僅かな期間ではあるが、令嬢らしいお上品なアピールではカルロが靡かないと知ったベアトリス嬢は、実力行使とばかりに強引なスキンシップに持っていったようだ。
とはいえ、今まで甘やかされて育ったと聞いている令嬢が、わかりやすいほど強くあしらわれても必死に食らいついているのは、見事としか言いようがない。気が強いところがあるというのは本当なのだろう。
それもそうだ。結婚とは、貴族令嬢にとって、自分と家の未来を決める一大事だ。
トビアス氏やダミアンから、絶対にカルロを落とせと言われているに違いない。彼女だって、覚悟を持ってカルロに纏わりついているのだろう。
「初めてお会いしたときは、私のことを可憐だ、美しいと、歯が浮くような美辞麗句で褒め讃えてくださったではありませんか!」
「あんなのは社交辞令だろうが、本気にすんじゃねぇ!」
あぁ……いつものカルロの悪い癖か。
令嬢の必死な訴えに同情しながら、僕は嘆息し、意を決して足を踏み出す。
こういうのは、当事者同士だけで話をすると拗れるものだ。冷静な第三者が入って、間を取り持つことも必要だろう。
「離せっ!第一、どんな神経してんだ、お前!こんなとこ、もしシャロン本人に見られたら――」
「――カルロ」
何やらもめている二人の後ろから、控えめに声をかけると、ヒュッ――と二人が息を呑んだ音がした。
「――っ、シャロン!?」
「きゃぁ!?」
真っ青な顔でカルロが驚いて振り返る。
よほど驚いたのか、あるわけがない勘違いをしながら、可憐な女の子の腕を振り払って。
「――……いや。アルヴィン、だけど……」
あまりに色を失くしているから、申し訳ない気持ちになって、思わず訂正する。
カルロは何かを言おうとしては口を閉じ、数度繰り返した末に、最後に小さく口の中で舌打ちをして、全てを飲み込んだようだった。
「お前には関係ない話だ。気にするな」
「いや……でも……」
さすがに、関係なくはないだろう、と思う。
「チッ……お前にだけは知られたくなかった」
「え?あぁ、それは――」
「安心しろ。誰に何を言われても、俺の気持ちは変わらない。シャロンもアルヴィンもまとめて全部助けたら、約束通りシャロンと結婚して、俺が死ぬまで、一生かけてシャロンを守ってやる。だからお前は、変な心配しなくていい」
「いや……心配、っていうか……」
どうやら、この男も一応、婚約者の兄への配慮は持っていたらしい。
この屋敷に滞在するようになってから、何度もベアトリス嬢の執拗なアプローチがあっただろうに、僕が気を揉まないよう、最後まで僕の目に触れない所であしらおうとしていたようだ。
さらに、見つかってしまったならばと腹をくくり、結婚という意思決定においてシャロン以外に目移りすることはないのだと、男らしく宣言してくれているらしい。
普段は僕の前でも平気で挨拶代わりに女性に声をかける癖に、その主張はどうなんだと思うが。
とはいえ、シャロンとの婚約を持ちかけた時とは全ての事情が変わってしまったこの状況では、その今時珍しいほどの義理堅さすら無用の長物でしかない。
チラリと振り払われたベアトリス嬢に視線を遣ると、俯き肩を震わせ、今にも泣きそうな顔をしていた。
「っ……!」
唇を噛みしめる幼い少女が、不憫でならない。
可哀想に。
物心つくより前から淑女たれと教育されてきた高貴な令嬢が、はしたなくも自分から男性に手を触れ、縋ることが、どれほどの事態か、カルロはきっとわかっていない。
世界が混乱の渦に巻き込まれ、いつ竜によって滅ぼされるかわからない状況で、カルロは唯一、竜に対抗できるかもしれない人類の希望だ。領主として土地と民を護るのに最善の手法――というだけではなく、歳が離れ、甘やかされながら育ったベアトリス嬢自身の安全を守りたいという、トビアス氏の家族としての思惑も透けて見える。
しかし、どれほど優秀な男であったとしても、今のカルロは平民に過ぎない。
ベアトリス嬢ほどの少女であれば、本来、王家に連なる家に嫁ぐことすら選択肢にあっただろう。そのためだけに血のにじむような努力をしてきただろうし、世界がこんな状況でなければ、彼女が平民と結婚する可能性など、微塵も存在しなかったはずだ。
それでも貴族の子女は、家のために最善の結婚をする。そこには、プライドも己の感情も関係ない。
だからこそ大貴族レーヴ家の令嬢としての矜持をかなぐり捨てて、みっともなく平民のカルロに縋るように手を伸ばしただろうに――
その結果が、歯牙にもかけられないどころか、こんな風に人の目があるところで粗暴に振り払われ、捨て置かれるとなれば、一体どれほどの屈辱だろうか。
「……ベアトリス嬢」
どれほど気丈に振舞っていても、まだシャロンよりも小さな子だ。こんな子が恥辱に震え泣きそうな顔をしているのを見ると、どうしても放っておけない気持ちになる。
僕は床に膝をつき、ベアトリス嬢に手を伸ばした。
次の瞬間――
パンッと乾いた音を立てて、伸ばした手が跳ね除けられた。
「私は、レーヴ家の女!敵の塩など、受け取りませんわ!」
「――……」
キッと僕を睨み上げる紫の瞳は、まっすぐだ。虚勢だとしても、決して折れない高位貴族の矜持を胸に、ベアトリス嬢はぐっと胸を張る。
「何度だって申し上げますわ、カルロ・ファレス殿!私と結婚すれば、貴殿に最良の未来をお約束します!損はさせませんわ!」
「てめぇ……」
カルロの目の前で足を踏ん張り、ベアトリス嬢は威勢よく声を張り上げる。
屈辱も、恥辱も、泣き出したい気持ちも全部捨て去って――高位貴族らしく本音を全て腹に押し込めて、高らかに、自信満々に、高笑いを上げるのだ。
「一体何が不満ですの? 以前の婚約でフロスト家が用意したものは、全てレーヴ家が、かつての何倍も良い条件で、保証しましょう。我が家はフロスト家よりも強固な後ろ盾となります。魔塔に入れば兄のダミアンが便宜を図り、研究費用も全面的に支援いたします。貴重な書物が並ぶ貴族用の特別図書館も、レーヴ家の名前があれば、閲覧できない書物はありません。フロスト家とは違って!」
……確かに。
貴族の家格によって、入室できるエリアが異なる王都の特別図書館は、フロスト家では一部入れないエリアがある。レーヴ家なら、フロスト家よりも家格が高いことに加え、ダミアンが魔塔で力を持っている。研究で使うことも多いだろうから、権限が保証されているはずだ。
ベアトリス嬢は、その威光を全力で振りかざして来たことになる。
「貴方が叙爵され、仮に領地を賜ったとしても、何も心配いりません。私は幼いころから領地運営のイロハを叩き込まれています。私が女主人として、領地運営も社交も万事うまく取り計らいます。貴方は些事を気にせず、ご自身の好きなことを好きなだけしていらっしゃればいい」
どこにも隙の無い、全力のプレゼンだ。僕は思わず、ベアトリス嬢の力強い言葉に聞き入ってしまう。
「シャロン嬢は、引っ込み思案で社交は苦手と、昔からもっぱらの噂でしたわ!同世代の貴族令嬢からお茶会に誘われても一切出向くことはなかったと!」
「それは、アイツが一歩でも屋敷の外に出ると危険な目に遭うからだ……!」
「私ならば、そのようなことはございません。貴方が家を空けていても、有力貴族との絆を切らしませんし、貴方の御仕事に必要とあらば、レーヴ家に頼らない独自の伝手も積極的に新しく見出してまいります。人見知りが激しい箱入り娘と噂のシャロン嬢に、そんなことが期待できまして!?」
「てめぇ――」
シャロンには絶対出来ないだろうなぁ……とのんびり考える僕と違って、律儀な男は婚約者を悪く言われて怒りを覚えたようだ。ピキっと額に血管が浮き出ている。
そんなに必死に庇ってくれなくていいのに。
シャロンが引っ込み思案で社交が苦手なのは事実だし、一歩屋敷の外に出ればすぐに危険なトラブルに巻き込まれるのも本当のことだ。根も葉もない悪口というわけではない。
「外見――は、確かに、少し、敵わないところもあるかもしれませんが――私、まだ成長途中ですもの!貴方好みの女になるよう努力いたします!必ずや、貴方が各所で『あんな良妻を手に入れて羨ましい』と言われるくらい、華のある女になりますわ!」
カルロの怒りの表情にもめげず、ベアトリス嬢は必死に自分との結婚のメリットを訴え続ける。
「これ以上ない条件でしょう!?ここで契約を交わし、私の社交デビューをエスコートするだけで、貴方の立場は盤石になる――一体、何が不満なんですの!?」
「そういう話じゃねぇんだよ……!どっちにしろ、こんなところで話す内容じゃねぇ。話は終わりだ。行くぞ、アルヴィン」
「ちょっ、待っ――待ってよ、カルロ!」
大きく舌打ちして話を打ち切り、僕を伴って立ち去ろうとするカルロに、僕は思わず非難の顔を向けて引き留める。
「ベアトリス嬢の言う通りだろう。――一体、何が不満なんだ?」
とても信じられない、という気持ちを最大限込めた怪訝な顔で尋ねると、何故か、その場の空気が凍った。