第1話 謎の儀式 (Side:シャロン)
物心ついたころから、何度も危険な目に遭った。
傍にいる大人の目を盗んで――あるいは、傍にいる大人諸共、拐して。
ある時は、身代金目当てに。ある時は、不埒な好事家に売るため。ある時は、貴族社会の勢力図塗り替えのため。
ふと眠りから覚めたら、見知らぬ場所――そんなことは、日常茶飯事だった。
だけど、その日、目にした光景はあまりにも異常すぎた。目覚めた瞬間、我が目を疑う。
寝かされているのは、ひんやりとした石の上。灯りはないが、床一面に広がる怪しい魔方陣の光で、かろうじて周囲を探ることが出来る。
魔方陣には、目深にフードを被った者たちが不規則に配置され、意味不明な呪文を一心不乱に唱えていた。
「な……何……!?」
思わず起き上がろうとすると、鉄が擦れる音とともに身体が阻まれる。
己の身体を見下ろせば、頑丈な鎖で、石の寝台に縛り付けられているようだった。
祭壇のような寝台、無機質な鎖の冷たさ――儀式めいた何かの中心に据えられた己の現状を理解した瞬間、ぞわりと恐怖が走る。
呪文の強弱に合わせ、ドクン、ドクンと心臓が不規則に脈打つ。この儀式が、私の身体に良からぬ何かを齎そうとしているのだと、誰に教わるでもなく察せられた。
「ぁ……いや……」
ガタガタと歯の根が合わないまま、弱気な声が漏れる。
どうしてこんなことになったのか。
――簡単だ。油断していた、以外の何物でもない。
幼い頃から頻繁に危険に晒される私を心配した家族は、あらゆる手を尽くした。
屋敷の外には極力出ないこと。出る場合は護衛を伴い、見知らぬ相手は常に警戒し、不用意に目を合わせたり話しかけたりしないこと。
貴族令嬢でありながら、剣と白魔法の手ほどきも受けた。剣は敵から身を守るため。魔法は怪我や毒の脅威から身を守るため。
それでも、僅かな隙をついて迫り来る脅威に業を煮やした家族は、ついに、最強の護衛を兼ねた許嫁――カルロを用意した。
彼が傍にいた数年、私は全ての危険から解放された。
粗野で貴族社会とは無縁の無礼者だけれど、その分裏表がない性格で、面倒くさそうな顔をしながら、あらゆる脅威を排除してくれた。
すっかり安心していた。もう、まだ見ぬ危険に怯えて暮らす必要はないのだと。
だから今日も、急に婚約者が訪問すると聞いて、疑いもしなかった。
言付けを持ってきたのが、最近入ったばかりの使用人だったことを、訝しむことすらしないで。
愚かだった。暢気だった。初めて出逢った庭園でお茶を、と言われて心が躍った。
彼にとっては私との婚約など、我が家の後ろ盾を得るためのものでしかないと知っていたのに――あの日の出逢いを、彼も特別なものだと思ってくれているのかもしれないと、浮かれていた。
「カルロ……」
あぁ――なんて、馬鹿馬鹿しい。
縋るような声が零れることすら、情けない。
こんな状況でも、彼を信じたいと思っているなんて。
「っ……カルロ……」
恐怖に耐えかね、ほろりと涙が眦から零れ落ちる。
ぎゅっと目を閉じると、この国では珍しい黒髪に深紅の瞳を持つ男が浮かんだ。
約束の時間に庭園に赴くと、カルロの姿はなかった。
待っている間に一杯、と使用人が用意した茶を一口飲んだ時から、記憶がない。
きっとあの使用人が、茶に眠り薬か何かを盛ったのだろう。――そう思い込みたい自分がいる。
もしかしたら、本当にカルロが、彼らと共謀したことかもしれないのに。
「いや……怖い……助けて……っ……お兄様――!」
最悪な想像をしてしまったことが恐ろしくて、昔から自分を助けてくれた兄へと救いを求めた。
狭い部屋に反響する呪文に、言い知れぬ恐怖が募っていく。
カッ――とひと際魔方陣が強く輝いた、瞬間。
ドォンッ――と世界が音を立てて、崩壊した。
「きゃ――!?」
悲鳴が喉の奥で張り付く。
恐怖に目を見開けば、天井が崩壊し、無数の瓦礫が降って来るところだった。
ぎゅっと目を閉じて、身体を固くする。拘束された身では、何もすることは出来ないが、それでも自分の死を真正面から見つめる勇気はなかった。
「うわぁ!」「ぐはっ……」
轟音とともに瓦礫が降り注ぐ。あちこちで悲鳴が上がる。魔方陣の上で呪文を唱えていた者たちが、瓦礫に潰されたのだろう。
聞くに堪えない音に耳を塞ぎたくても、鎖が邪魔をする。
とにかく固く目を閉じて――いつまでも訪れない死の瞬間に疑問を持ち、そっと目を開けた。
「?……ぁ……」
驚いて、眼を見開く。
私の身体にも等しく降り注いだ凶悪な瓦礫は、全て、目の前に広がる光の盾に弾かれ、粉砕され、私の肌に髪の毛一筋ほどの外傷を付けることすらなかった。
「防御結界……黒、魔法……?」
恐怖に掠れる声で呟くと、数年前の記憶が蘇る。
カルロと婚約をしたばかりの頃――想像を上回る頻度で危険に遭遇する私に呆れて、彼は、面倒くさそうに言った。
『お前は本っっ当に危なっかしいな』
『ご、ごめんなさい……』
『いい。お前の身を守るのがフロスト家の後ろ盾を得る条件だ。とはいえ、こんな状態じゃ、俺は寝ずの番で四六時中お前の傍にいなきゃいけねぇ』
『ご、ごめんなさ――』
『だからこれ、着けとけ。外敵からの攻撃は大体防ぐ。寝る時も風呂入る時も外すな。黒魔法は毒や薬は専門外だから、自分で対処しろよ』
コロン、と掌の上に乗せられたのは、不思議な輝きを放つシンプルな指輪。つけてみると、左手の薬指にぴったりなサイズで、これを婚約指輪代わりに四六時中身に付けろということかと、呆れてしまった。高位貴族の令嬢に贈られる婚約指輪の常識を教えたら、カルロはどんな顔をするのだろうか。
とはいえ、初めて殿方から贈られた指輪だ。言われた通り毎日大切に身に着けていたら、案の定カルロは、私を溺愛する兄から後日めちゃくちゃ怒られたらしい。
そんな愛しい思い出の詰まった指輪が、今も私の身を守っている。
粉塵が立ち込め、一寸先も見えない部屋の中、熱い涙が静かに頬を伝った。
カルロが裏切ったかもしれない、なんて一瞬でも考えた自分を恥じる。
彼は確かに無礼で、無神経で、女心もわからない粗野な男だけれど――それでも絶対に、私を危険な目には遭わせない。
ぐっと左手を握り込むと、指輪が食い込む感触がする。何もわからない現実の中でも、この感触だけは、信じることが出来た。
「シャロン!無事か!?」
立ち込める粉塵を吹き飛ばす横殴りの爆風と同時、飛び込んできた声は、私がずっと待ち焦がれた声だった。
「カルロ――!」
視線を向けると、見慣れた長身が、想像を裏切らずそこにいてくれた。
普段の飄々とした様子が嘘のように、見たことがない余裕のなさ。息を切らせて飛んできてくれたのだと察する。
「シャロン!」
「お兄様も――!」
カルロの後ろから、同じく顔を真っ蒼にした兄が飛び出す。血がついた剣を構えているから、戦闘があったのかもしれない。
「今助ける!すぐに――」
地を蹴り、駆け寄ろうとした二人が、驚いたようにたたらを踏んだ。
二人の視線は、私を飛び越えた先の、上方で縫い留められている。
「……?」
怪訝に思い、二人の視線を追いかける。立ち込めていた粉塵は、カルロの魔法で跡形もなく吹き飛んで、視界は晴れやかだ。
穴の開いた天井から、月明りが差し込み、浮かび上がる巨体。
天井すら凌駕するほどの高さにある頭。耳まで裂けた大きな口。見るからに凶悪な牙。月に照らされ黒光りする鈍色の鱗。禍々しい光を宿す濁った瞳が、ぎょろりとこちらを向く。
およそ自然界では目にすることがない、異様な風体。
視界に飛び込んできた光景が信じられなくて、息を呑んだ。
それは、昔話の中でしか聞いたことがない、伝説の存在――
「――竜――?」
現実とは思えない光景に、間抜けな声が零れると、どこからか気味の悪い高笑いが響いた。
「ははははは!成功だ!成功だ!古の巨竜よ!”器”は完成した!」
瓦礫の下に埋もれた誰かの声らしい。くぐもっているのに愉悦の滲む、不愉快な声だった。
「さぁ――喰らいたまえ!」
「――!!」
声に呼応するように、竜の瞳が私を捕らえる。
ドクンっ……と心臓が不穏に脈打った。
「シャロン!!!」
耳に届いた悲鳴は、カルロだったのか、兄だったのか。
禍々しい竜の瞳が怪しい光を放つのを、私はただ、視線を縫い留められたように、声もなく見つめるしかできなかった。