腕時計
いつものように、ホームを小走りに進みながら、長いエスカレーターに乗った。
通勤時の駅の慌ただしさには、流石に慣れたが、人の多さには、何年経っても辟易する。
私は、左に寄って歩を休め、自分の右側を追い越す人達を見ていた。
こういうとき、他の人々は、視線をどこに置くのだろうか。
ふと、自分を追い越す青年の右手に目が行った。
グリーンのポロシャツにジーンズと言う、オフィス街には、いかにも不釣り合いな格好の彼の右手には、シルバーの腕時計。
文字盤は見えなかったが、留め具の『SEIKO』の文字ははっきり見えた。
「松田聖子のファンだからね、時計はいつでもセイコー」
そう、いたずらっぽく笑うタクヤの笑顔が、頭をよぎった。
「左利きの人はね、腕時計を右手にするんだよ」
なんで腕時計を右手にするのか、と尋ねた世間知らずの私に、貴方は優しく、そう教えてくれた。
慌ただしく、私の右側を人々が追い越してゆく。
大学時代、2年先輩だったタクヤは美術学科を卒業した後、フランスに渡った。
フランスに旅立つ前の最後のデートで、突然に別れを切り出された。
「君にとっても、僕にとっても、ここで区切りをつけておくべきだと思う」
私は、タクヤのことを冷たい人だと友人に嘆き、暫く泣いて暮らした。
時間が経ち、それは、留学に臨むタクヤの強い決意であると共に、私への優しさだったのだと理解した。
別れ際、タクヤに浴びせた酷い言葉を、今でも悔いている。
だから、右手に腕時計をしている人を見るにつけ、悔恨の念に駆られるのだ。
自分が、長い長いエスカレーターの中腹に差し掛かった頃、先ほど自分を追い越して行った青年が、エスカレーターの終点に着くのが見えた。
上がり際、右手に体の向きを変えるとき、少しこちらに視線を落とした。
タクヤだ。
私にとって、息が止まりそうなほどの衝撃だった。
自分の右側には、会社へと急ぐ、サラリーマンや、OL達が、びっしりと続いている。
私は、一瞬、どうしたらいいのか分からずに呆然としたが、直ぐに彼を追いかけるべきだと気が付き、エスカレーターの右側に、強引に割り込んだ。
エスカレーターを歩いているとはいえ、沢山の人が詰まっていて、なかなか上がれない。
「すいません」
思わず上げた声に、意味がないことは直ぐに分かったが、直前のサラリーマンは、後ろを振り返り、露骨に不快そうな表情を浮かべた。
タクヤが行ってしまう。
エスカレーターの右手は、他社線への乗り換え口に向かう階段と、出口に向かう階段に別れていて、離れると直ぐに見失ってしまう。
ほんの10秒そこいらの時間が、1時間にも感じられた、嫌な間の後、ようやくエスカレーターの上がり口に着き、慌てて右手に進んだ。
私は、別れ道の手前に立ち、タクヤを探した。
タクヤは、どっちへ向かったのだろうか。
タクヤの姿が見つからないもどかしさに、涙が溢れそうになった。
お願い、神様。
タクヤに、一言だけ、謝りたいの。
あの時は、ごめんなさい、って。
どちらに進んだのかは、もう分からない。
でも…、ここで名前を精一杯叫んだら、届くかも知れない。
私は、大きく息を吸い込み、今まさに、タクヤの名前を叫ぼうとした時だった。
「やっぱり、ヨウコだ」
びっくりして、後ろを振り向くと、何と、そこには、タクヤが立っていた。
私を、可笑しそうに、見つめるタクヤ。
「ごめんなさい、あの時は…」
言葉が続かなかった。
「何で、謝るの? どうして泣いてるの?」
タクヤの左手が、私の右頬に伸び、優しい親指が私の涙を拭った。
そう、あの頃と同じように。
~~~完~~~