大きな手のひら
「──あっ!」
なんでもないところでつまずいたわたしは、ズザザーッという盛大な音とともに勢いよく転んだ。
抱えていた書類がバサッバサーッと床に広がる。
「ちょっと、ヨークさん! 今日は本当にどうしたの? 大丈夫? らしくないわね」
王立図書館の受付台の中にいた中年の女性司書官が急いで出てきて、床に倒れているわたしに手を差し伸べてくれる。
「あはは、すみません……」
わたしは肩を落として謝る。
お給料をもらって仕事をしている以上、集中しなければいけない。
しかしそう思えば思うほど、今日の昼間、学院で起こったミレイさまの手提げ袋が水浸しになった事件のことを思い出してしまう。
(アデラインさまの話を信じていないわけじゃなかったけど、でもこうして実際に起こってみると、本当の意味で理解できてなかったのかも……)
わたしは自分の愚かさに重く息を吐き出す。
それでも今だけはなんとか事件のことを頭の隅に追いやり、残りの仕事を片付けていく。
ようやく仕事が終わったときには、ひどく疲れていた。
「お疲れさま、今日はゆっくり休むのよ」
女性司書官が優しく声をかけてくれる。
「はい、ありがとうございます、お先に失礼します」
感謝しながら図書館をあとにする。
とぼとぼと重たい足取りで帰り道を進み、いつもより時間がかかりながらどうにか下宿先に着く。すると、玄関先に下宿の女将さんが立っていた。
女将さんはわたしと目が合うと、待っていたかのように矢継ぎ早に、
「ああ、リゼちゃんおかえり! 今日は遅かったんだね。お兄さん来てるよ。リゼちゃんの部屋で待ってもらってるけど、よかったかい?」
わたしは驚いて声を上げる。「えっ、兄がですか⁉︎」
「ああ、優しそうなお兄さんだね、丁寧にあいさつしてくれたよ。リゼちゃんによく似てるね」
「ええっと、ありがとうございます」
わたしはお礼もそこそこに、急いで下宿内の階段を駆け上がる。勢いよく自分の部屋のドアを開く。
「──兄さん!」
と声をかけたと同時に、わたしは固まる。
「九十六……っ、九十七……っ、くっ……、九十八……っ」
突然目に飛び込んできた光景に、わたしはスンと感情を失くす。
そこには、シャツを腕まくりした兄が床に両腕をつき、ふーふー言いながら腕立て伏せをしていたのだ。
「九十九……っ、百ーっ!」
ああ、そうだった、この兄はじっと待つということができないのだ。呆れてものも言えない。
「ふーっ、おー! リゼ、帰ったか!」
そう言って快活に笑う兄は何事もなかったかのように俊敏に立ち上がると、ドアノブに手をかけたまま固まっているわたしをぎゅーと抱きしめる。
「久しぶりだな、元気だったか?」
背が高く、たくましい体つきをしている兄の硬い胸板がこれでもかと頬に当たる。
「兄さん、痛い、痛いっ!」
バシバシッと手で兄の背中を叩く。
すると兄はニカッと笑って、
「あはは、すまん、すまん。久しぶりだから力加減が難しくて」
兄の腕の中から逃れたわたしは少し距離をとると、はぁーと息を吐き出し、頭を切り替える。さっき見た光景はさっさと忘れよう。
「兄さん、いつ王都に来たの?」
そう言いながら、壁際に置いている勉強机の椅子をベッドの近くに移動させる。
兄に座るようすすめてから、対面するようにわたしはベッドに腰かけた。
古いベッドがギシリッと大きくきしむ。椅子に座った兄を見つめ、返事を待つ。
わたしと同じ、ありきたりなブルネットの髪にオリーブ色の瞳。髪の毛は短く切り揃えられていて、瞳の色はわたしよりもやや濃い色をしている。
宿屋の女将さんは似ていると言ってくれたが、髪と瞳の色以外はあまり似ているとは言えないだろう。
「ああ、十日ほど前かな。王都の外れにある宿屋にお世話になっているが、明日の夕方には発つ予定だ。でも領地に戻る前にお前の顔も見ておかなきゃと思って寄ったんだが、急に悪かったな」
「それはいいんだけど、十日も前に来てたんなら、もっと早く寄ってくれればよかったのに……」
「そうだな、悪い。少しバタバタしててな。ああ、それはそうと、学院生活はどうだ? 王都での生活は大変じゃないか? それなのに上位の成績を維持できてて偉いな、さすがリゼだ」
兄は少しそそっかしいところもあるが、明るく活発で表裏がなく、考え込むよりも積極的に行動する性格だ。思ったままを口にするのも兄らしいと言える。
しかし今は、核心を避けるようにどこか落ち着きなく言葉を発する様子を見れば、それだけで兄の置かれている苦しい状況がいやでもわかってしまう。
「……兄さん、王都に来たのは領地のことでしょ?」
わたしは、言い出しにくいであろう兄に代わって尋ねる。
兄は一瞬ハッと目を見開くも、すぐに申し訳なさそうに息を吐き出し、頭をガシガシかくと、
「ああ、そうだ。でもリゼは何も心配しなくていい。王都には父さんから聞いた遠縁の家門がいくつかあるらしくてな、援助をお願いできないかと訪ねて回っているところだ。じきにいい返事がもらえるはずだ」
わたしは膝の上に置いている手でスカートをぎゅっと握りしめる。
「……そんなに厳しいの? 本当に大丈夫?」
こんなの訊くだけ兄の負担になるのはわかっている。それでも訊かずにはいられなかった。
兄の大きな手のひらがわたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「ああ、大丈夫だ、任せとけ。領地は絶対に守るから」
「……うん」
ゴツゴツとしたあたたかな手の感触を噛みしめながら、わたしは頷く。
ボサボサの頭のまま顔を上げると、
「うわ、ひどい頭だな、リゼ!」
そうした張本人のくせにからかうように言う。
すかさずわたしは拳で兄の肩をドスッと叩く。
するとさもおかしそうに、
「ハハッ、それでこそいつものリゼだ」
そこにあったのは、不安も焦りも丸ごと包み込んでくれるような底抜けに明るい、いつもの兄の笑顔だった。




