2周目 呼ばれて、沈む 後編
アステルの部屋で、クロコスとエルミスが話をしている。アステルは新しい寝巻きに着替え、ベッドに寝かされている。眠りが覚めないように、クロコスに睡眠魔法をかけられている。
アステルのそばにルアンがいて、ルアンはアステルの手をずっと握っている。
エルミスは、落ち着きなく歩きまわりながら話す。
「貴方たちは、どうしてこんなになるまで黙っていたんだ? 弟は心の病じゃないか。しかも、こんなにも重い。それを、貴方とルアン・カスタノしか知らなかっただって?」
「アステルがそう望んだからです」
クロコスは淡々と返答する。
「神聖医術院に連れて行くべきだ、必要なら入院させるべきだ」
「エルミス殿下。神聖医術院が、この子の力になれるとは到底思えません。アステルは神聖医術院を嫌っています」
クロコスは冷静に返答するが、心の中では少し焦りを覚える。
神聖医術院など、それこそ魔王の遺骸と魂が融合している(そしてそれを隠している)アステルにとっては、痛みと苦しみしか与えられない場所であるだろうと推測できるためだ。
「……ここにいるにせよ、心の病の専門家を呼んで、診てもらったほうがいい。それから、アステルには、死なないように見張りをつけたほうがいい。こんな小さな子どもではなく」
エルミスはルアンに冷たい目を向ける。
「こんなことをしでかした、ルアン・カスタノは解雇したほうがいいんじゃないのか?」
ルアンは怯え、エルミスを見る。
「エルミス殿下、今回の件はルアン君に責はなく。私に責任があります。10歳の子どもに責任を取らせることはありません。
アステルはルアン君を本当に信頼しています。この子が気を許せる唯一の友達です。今のアステルに、ルアン君は必要ですよ」
クロコスはルアンのことを庇う。酷い顔をしているルアンに目配せして(大丈夫だよ)と伝える。
「……今後、アステルを守るための処置は、アステルとも話をしてみます。心の専門家や見張りの件も、聞いてみましょう」
「場合によっては、おれはアステルを連れて行くからな。貴方に任せておけないと思ったなら」
「……わかりました」
エルミスの強い言葉に、クロコスは頷く。
ーーーーーーー
深夜遅くに、アステルは目を覚ます。
ベッドのそばの椅子にルアンが座り、アステルの手を握ったまま、ベッドに頬をつけて眠っている。ルアンの頬に、泣いたのかな、という跡がある。
アステルはルアンを起こさないように、そっと手を離す。
窓のそばのテーブルの灯りだけがついていて、クロコスが座って何か書き物をしている。ベッドを抜け出てそばに寄ったアステルに目を向けず、クロコスが声をかける。
「本当に死のうとしたのかい、アステル」
「おじいさま」
アステルは、クロコスの向かいに座る。
「死ぬつもりは……ただ、シンシアが……」
「シンシア」
「シンシアは、ぼくの妻なんですけれど、」
「結婚していたのかい?」
「……はい」
アステルは目を伏せ、頷く。
「最近、シンシアの幻を見るんです。部屋の外に出るようになってから。シンシアが。『アステル、こっちにきて』って呼んでいる気がして。今日もシンシアを見かけて、追いかけて、気がついたら、エルミス兄さんにルアンが『ぼくを見張っていなかったこと』を怒鳴られていて。ルアン、かわいそうに。……ぼく自身は、湖に飛び込んだことを、覚えていないんです。ただ、シンシアに会いたいって一心で動いていた気がする」
アステルは暗い窓に目を向ける。
12歳のアステルの顔が映っている。
「おまえの妻は、亡くなったのかい」
「わかりません」
「わからない?」
「亡くなるより前に、過去に来てしまった。もう助からない彼女を、置き去りにしてしまった。
……しかし、助からなかったことは、ほぼ、確実かと思います」
「おまえは彼女を助けたくて、時間超越をしたのだね」
「はい……でも、」
「最近、それはぼくが、ぼくのためにしたことに過ぎなかったんだって、そう思うんです」
「シンシアは、ぼくと一緒に居たかったんじゃないかって、そう思うんです。
だからきっと、ぼくを呼ぶ彼女の幻を見る」
「だが、おまえが頑張らなければ、この世界のおまえの妻も、同じ運命を辿るのではないのかね」
クロコスは聞く。
「それは……仰るとおりです。ただ、」
アステルはうつむいている。
「何が正しいのか、わからなくなってしまった。ぼくの選択が、ぼくのせいで、あの子は死んだのに。いっそのことぼくと関わらなければあの子は死なないのでは、とか。でも、そうしたら、ぼくはなんのためにここにいるんだろう? とか、ぐるぐる考えてしまって」
「ぼくはぼくの『彼女を幸せにしたい』という望みを叶えるために、ここにいる。でもそれは、彼女の望みではなくて、ぼくの望みではないですか」
アステルは手を膝の上で、握りしめている。
クロコスはアステルに伝える。
「人間はだれしも、己の望みを叶えるために生きている。そうであるから、アステル、いいんだ、それで。『彼女を幸せにしたい』という望みが拒まれるかどうかは、おまえの妻に聞くことだ。おまえが決めることではなく」
「…………そうですね」
アステルはまた、窓の外に目を向けた。
「会いたいな、シンシアに」
「この世界のおまえの妻にも、会えないのかい?」
「ちょっと複雑な事情があって、家の前を通りかかったら顔が見れるとか、パーティーに呼んだらきてもらえるとか。そういうことがないんです」
アステルは少し微笑んでクロコスを見た。
「しかもまだ、6歳なんです」
「おまえはずいぶん、年下の妻をもらったのだね」
「この世界のシンシアは……きっと、可愛いんだろうなあ、と思います。そのことを考えると、明るい気持ちになります」
ほのかに表情を明るくしたアステルを見て、クロコスは少し安堵する。
「アステル。今日のことは、エルミスのなかで、大問題になっている」
クロコスは悲しそうな顔をする。
「私もおまえがあと一歩で死ぬところだったと知って、本当に驚いたし、悲しんだよ」
「心配をかけて、本当にごめんなさい」
「おまえは『死ぬつもりはなかった』と言ったが、心のどこかで、おまえは楽になりたがっている。どこかに消えてしまいたいと思っている」
クロコスは指摘する。
「……そうかもしれません」
「夢でいいから、やり直したい。シンシアを失わずに、助けたいと、そう思っているんです。現実には、もうこの世界で、地道にコツコツやるしかないってわかっているんですが。
城の中に思い出が多すぎて、シンシアの姿を探してしまう。シンシアに会いたいんです、ぼくのシンシアに」
クロコスは思う。アステルが会いたいシンシアは、故人なのだと。アステルは心のどこかでそう思っているから、湖に呼ばれたのだと。
「ひとりで城を歩くのは、おまえにはまだ早いのかもしれないね」
クロコスは話す。
「まずは室内で、研究だけではなくて、いろいろなことに触れてみたらどうだい」
「私は……おまえに必要なのは、おまえの妻のことを考えない時間なのではないかと思うけどね」
「そんなの、無理です。ずっとシンシアのことばかり考えています」
アステルはようやくクロコスの緑色の目を見た。
「シンシアのことを考えないなんて、ぼくがここに来た意味がありません」
「無理であれば、この世界の彼女のためと思っていろいろやってみたらどうだい。小さなお前の妻のことを考えたらどうだい。彼女を喜ばせるためのささやかな魔術をつくるとか。前向きなことをだよ」
「……」
「まあ、もう少し元気になってからでいいんだよ。これは提案だから、心の片隅にとどめておいてくれればよい」
「エルミスは、おまえを神聖医術院に送るつもりだと言っていた。そうでなければ心の専門家をアステルの部屋に呼ぶべきだと。見張りも増やすと」
クロコスはため息をつく。
「……見張りに関しては、部屋の外にはつけなければならないだろうね。私も、事情は知っているわけだが、お前が死ぬのは見ていられない。可愛い孫の体に入った、成長した可愛い孫だからね」
アステルは何も言わなかった。
「心の専門家、については、専門家ではなくて、エルミスに来てもらったらどうだい」
「え?」
「エルミスが喜ぶことをして、味方につけておきなさい。そうしないと本当にルアンが解雇されてしまうよ」
「そんなの、ダメだ」
アステルは驚いたように目を見開く。
「兄さんはルアンを解雇するって言ったんですか? そんな権限、兄さんにないはずなのに」
「エルミスとルアン君は、仲が悪いのかい?」
「いえ、そんなはずは……でも思い返してみれば兄さんはずっとルアンに冷たいかもしれません」
それは、アステルが1周目では気づかなかったことだった。
「もう少し身を綺麗にして、エルミスに手紙を書いて、話をしてみなさい。エルミスを重んじていれば、無茶なことは言ってこないはずだから」
クロコスはアステルに微笑み、そう伝えた。
アステルは翌朝、ルアンに髪を切りたいと伝えた。ルアンと一緒に相談しながら身支度をした。それからエルミスに手紙を書こうとしていると、エルミスの方からアステルを訪ねてきた。
「今、お兄様に手紙を書こうとしていたところだよ」
エルミスは昨日と打って変わって、元気そうなアステルの姿に、ホッとした様子だった。
「お兄様、ぼくのことを助けてくれて、ありがとう」
アステルが微笑むと、エルミスは嬉しそうだった。
「本当にもう、あんなことはやめてくれ、アステル。昨日で寿命が3年は縮まった気がするよ」
エルミスはアステルを抱擁する。アステルは迷いつつも、祖父の助言に従おうと思い、抱擁を返す。
「おじいさまが部屋に見張りをつけることになったから、もうあんなことは起こらないよ。それから――」
アステルは、クロコスの助言どおりにする。
「ぼくは、知らない人とじゃなくて、お兄様と話したい。月に一回でいいから」
エルミスは、本当に本当に嬉しそうな顔をした。
「わかったよ、アステル。お土産を楽しみに待っていろよ」
エルミスは、ご機嫌よさそうに帰って行った。
(おじいさまはすごいな)
しかしエルミスがアステルの部屋に来るようになると、ルアンに冷たいことがはっきりとわかるようになった。アステルは驚いた。
(あの世界で、ぼくはなにを見ていたんだろう?)
ルアンも甘いものが好きなはずなのに、エルミスの持ってきたお土産には、たとえそれがどんなに好きなものでも手をつけなかった。
12歳のうち、アステルはまた、部屋の外にあまり出ないようにして過ごした。出るときは調子のよいときにして、必ずルアンと一緒に行動をした。