2周目 呼ばれて、沈む 前編
ルアン10歳、秋のおわり
ルアンは、アステルを探している。アステルは魔術院の院長先生のおかげで、部屋の外に出ることができるようになった。しかし逆に、引きこもっていた頃より、精神的に不安定になることが多くなっていた。一緒に歩いているとわかるのだが、城内の景色に目をとめて、まったく動かなくなってしまうのだ。まるで景色に絡め取られてしまったかのように、止まってしまう。夕方、散歩していて止まってしまったアステルに付き添って、ルアンも、暗くなるまでそばにいたこともあった。
先日、院長先生を訪ねて一緒に魔術院に行ったときなんて本当に酷かった。「息ができない」と苦しみ、倒れてしまったのだ。心因性のものだろうと院長先生は言った。院長先生が転移魔法陣を描いてくれて、ふたりはアステルの部屋まで戻ってきた。その夜、アステルは大泣きしていた。相変わらずルアンに声は聞こえないが、翌朝、泣き腫らした顔をしていたから、泣いたのがわかった。
夏ごろ、部屋の外に出ずに、研究がうまくいっている時期。アステルにも明るい時間があり、会話も成り立ち、ルアンも安心できた。あの頃は少し良かった。しかし、秋になって外に出れるようになってから、研究も行き詰まっているようだ。食事もまた食べられなかったり、吐いたりに戻っている。終始、暗い顔をしている。なのでルアンは「朝、おれが騎士団の訓練でいない間は部屋から出ないでほしいです」とアステルにお願いしていた。アステルはその約束を守っていた。部屋に戻ってアステルがいると、ルアンはホッとした。
しかし今日、訓練から戻ってくるとアステルの姿がなかった。ベッドはアステルが抜け出たままの感じで、朝食は手付かずで、着替えてもおらず。靴も履いておらず。起きてそのままどこかに行ってしまったようだった。ルアンは胸騒ぎがして、アステル付きのメイドや執事にも知らせ、城内の者に聞いてまわりながらアステルを探す。
ーーーーーーー
エルミスは、城のメイドたちがクスクスと噂話をしているのを耳にした。悪口を言っていたようだ。廊下のすこし先に、末の弟の姿が見えた。すこし伸びた、ボサボサの金色の髪の後ろ姿だ。上衣もズボンもクリーム色の寝巻き姿に裸足で、部屋の外に出る格好ではない。エルミスの姿をみるとメイドたちは一歩引いて道をあけ、頭を下げる。エルミスはメイドたちを睨みつけると足早に歩き、弟を呼び止める。
「アステル!!!」
アステルは振り向いた。
青い瞳で、呆然とエルミスを見る。
ようやく会うことができた、とエルミスは思う。末の弟のアステルは、エルミスより7つも歳下で、12歳だ。春のはじめの12歳の誕生日まで元気いっぱいだったのに、翌日から急に体調を崩し、半年以上も部屋に引きこもっていた。誕生日パーティーで毒を盛られたのではないかとか、生死の境を彷徨うほどの病だとか、酷い感染症で顔が腫れ上がっているだとか……そんな噂があった。
エルミスは心配で、会いたくて仕方がなかったが、アステルに会うことはかなわなかった。アステルが自分で部屋から出てくるまで。
誕生日パーティーでエルミスがアステルをからかうと、エルミスをにらみ、ぷんすかと怒って去っていったアステルの背中を思い出す。それ以来の再会だ。しかし、アステルの姿はあのときと全く異なっていた。綺麗な金色の髪は、手入れされておらずボサボサだ。明るかった表情は翳り、暗い瞳をしていて。痩せ細った体に、寝巻きに素足で、青白い顔をして廊下に立ち尽くしている。
「アステル、おまえ、そんなに痩せて……」
エルミスがアステルの肩に触れようとすると、アステルは身をかたくした。
「エルミスお兄様、えっと、久しぶり」
お兄様だなんて8歳より幼い頃以来、呼ばれたこともない。アステルがエルミスから、距離をとろうとしているのを感じる。
「いつもどおり、エルミスとか、兄さんでいい。おまえ、本当にどうしたんだ。心配しているんだぞ」
「お兄様、ぼく、行かなきゃ行けないところがあるんだ」
エルミスはアステルの手首を掴む。エルミスは、アステルの手首が細すぎてギョッとした。
「せっかく会えたんだから、もう少し、ここにいろ、アステル。お兄様のそばにいろ」
アステルは掴まれた手首をじっと見つめる。そしてぽつりと言葉をこぼした。
「ぼくは、お兄様と一緒に行くべきだった、あのとき――」
「あのときっていつだ。パーティーのときか?」
やっぱり弟は、パーティーで毒を盛られてこんなふうになってしまったのだろうか。
「エオニアで」
「エオニア?」
弟から意外な国の名前が出てきて、エルミスは眉をひそめる。そもそもエオニア教国の名前を知っていたことが驚きだ。
「ぼくだけじゃダメだったんだ」
夢の話か? とエルミスは疑問に思う。アステルは、寝巻き姿なのだ。もう、秋の終わりがけだ。寒そうだ。
「アステル、どこに行くにしろこれを着ていけ」
エルミスはアステルの手首から手を離すと、着ていた灰色のジャケットを貸し出し、アステルの肩にかける。
「ありがとう。あったかいね。ぼく、寒かったんだね」
「はやく気づけ、今度からは着替えてから出歩くことだな」
エルミスはボケボケな弟に笑う。ようやくアステルらしいアステルに会えた、と思う。
「あ、」
アステルは廊下の先に目を向ける。まるで何かが見えたかのように。アステルはふらふらっと去って行ってしまう。
「お、おい、アステル!?」
エルミスはアステルの視線の先を見る。アステルには何かが見えているようで、アステルはそれを追いかけて歩いているようだ。エルミスも慌てて後を追う。
(幽霊でも見えているのか? アステルに霊感なんかあったか!?)
エルミスはアステルのあとをつける。アステルは、城の外に出る。人気のない場所へ、人気のない場所へとすすんで行く。
(そもそもルアン・カスタノはどうしたんだ。いつも一緒なのに。護衛もつけずに一人で出歩いて。あんな格好で)
エルミスは護衛を2人つけており、3人でアステルのあとを追っている。
アステルは城内の東にある雑木林を通り抜けて、やがて湖畔にたどりつく。
(湖?)
エルミスは昔、幼いアステルとここで石を投げて遊んだことを思い出す。
今は、紅葉の散る、ちいさな秋の湖だ。
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アステルは湖を見つめている。
わずかに、紅葉が浮かぶ湖だ。深い青に赤い色が少しだけちらついて見える。
アステルは、幻覚と幻聴を追いかけてここまできた。ふわりと揺れる白いドレスの端を追いかけて、愛しい笑い声を追いかけて、ここまできた。
「シンシア、ここにきたかったの?」
アステルはささやく。
シンシアの声はしない。湖は静まり返っている。
そのうち、アステルの目に、湖が暗い穴に見えてくる。ちらつく赤い色が血の色に見える。この下に、シンシアがいて。シンシアが、今、痛みに苦しんでいる。
「待っていて、シンシア。今、助けるからね」
アステルは、湖に向かって飛び込む。
ーーーーーーー
エルミスは、少し離れた林の中から様子を伺っていた。護衛騎士がエルミスに声をかける。
「アステル殿下、さすがに様子がおかしいので、保護して、アステル殿下付きの者のところに私が連れて行きます」
「俺が連れて行く」
エルミスの表情は深刻だ。あんな、痛ましい姿のアステルを見ていたくない。しかし、目が離せない。
「エルミス様はこのあとキアノス国への訪問についての会議があります。だいぶ時間が押していますよ」
「あんな状態の弟を、放っておけるか?」
エルミスは怒りすら覚えていた。アステルがあんな風になっていると、誰もエルミスに教えてくれなかったからだ。
「アステル殿下?」
護衛の一人が言う。エルミスが振り返ると、湖畔にエルミスのジャケットだけが落ちている。湖に、波紋がいくつも浮かんでいる。
(は? 飛び込んだ?)
すぐに湖畔へと走る。飛び込んだのではなく、ジャケットを置いて立ち去っただけかもしれないと、辺りを見回す。弟の姿は見当たらない。
嫌な想像に胸がざわつく。エルミスは、自分も飛び込むことにする。護衛が「エルミス様!」と叫ぶのが聞こえた。
水の中で、深く沈んで行くアステルの姿を見て。エルミスは飛び込んで正解だったと気づく。
アステルの沈み方は、アステルが自分自身に呪いをかけたとしか思えない。体が沈むようにと心から願いながら飛び込み、魔力がそれに作用したとしか思えない。しかし、アステルは手に何も持っていなかったし、ポケットのない寝巻きを着ていた。
(触媒なしに魔力が作用する? そんなことってあるのか!?)
エルミスは魔石を用いて魔術を使いながら、アステルを引き寄せ、体を抱えて、水面に向かい泳ぐ。
エルミスは、アステルを引き連れて湖畔に戻ってくる。アステルを寝かせて、頬を叩く。ふたりとも水に濡れている。
「アステル! おい、アステル!」
アステルは、息をしていない。水をたくさん飲んだようだ。エルミスは焦燥し回復魔術を試みるが、うまくいかない。
「エルミス様、私が!」
護衛騎士の一人が聖騎士で、神聖医術を試みる。アステルは強い痛みを感じて、水を吐き、息を吹き返す。
「アステル! ああ!」
エルミスは、アステルの冷たい体をつよく抱擁する。アステルは目をうっすらと開く。しかし、遠くを見ている。エルミスを見ない。
「どうして」
アステルはうわごとのように言う。
「どうしてはこっちの台詞だ! アステル、おまえ、死のうとしたのか?」
エルミスは失意に怒りの混じった、震える声で聞く。しかし、アステルはぼんやりとこう返答する。
「? 違うよ、ぼくは、助けようとしただけ……」
アステルはそれだけ言うと、気を失ってしまう。
ーーーーーーー
ルアンは情報を聞き、雑木林に走ってきて、こちらに向かいくる一行と出会う。
エルミスが、アステルを抱き抱えて歩いている。アステルは、青白い顔をしている。
「ルアン・カスタノ」
敵意でいっぱいの目で、エルミスはルアンを睨む。しかしルアンは、エルミスに失礼にあたるとか、そういう考えはすっ飛んでしまい、アステルに駆け寄る。
「アステル様!!!!」
ルアンの目がもうこぼれ落ちるのではないかというくらい見開かれる。
アステルは、息をしている。
「よかった……よかった、生きてる。アステル様――」
ルアンは、その場に崩れ落ちる。
「何も良くはないだろう! ルアン・カスタノ、お前が目を離したから、アステルは湖に飛び込んだんだ。引き上げたとき、息をしていなかった。神聖医術で戻ってきたんだ。お前のせいだ!」
エルミスは叫ぶ。
ルアンには、(湖にとびこんだ)(引き上げたとき息をしていなかった)という2つの情報だけが大きく聞こえた。ルアンがずっと、恐れていたことが起こってしまった。ルアンは雑木林に座り込んで、エルミスの怒鳴り声を聞いている。
「エルミス殿下、まだ子どもですよ! 落ち着いて!」
護衛騎士が、エルミスを止めようとする。エルミスは激昂している。
「ルアン・カスタノ! お前のせいで!」
アステルが、騒ぎに目を開ける。
「……ルアン?」
アステルは、兄の魔力が怒りに満ちているのを感じる。そして兄の怒りが、足元にいる小さなルアンにぶつけられているのも。
(……?)
「お兄様、やめて」
アステルはもがいて、兄から離れる。ルアンのところへ行き、しゃがみこんで、呆然としているルアンの背中をさする。
「ルアンは何も悪くない」
「ぼくが悪いんだ、ぼくが、」
あれ、うまく感情が制御できないな、とアステルは思う。涙はでてこないのだが、感情立ちすぎて朦朧としている。また倒れそうだ。
(またぼくは助けられなかった、また失敗した、シンシア――)
「ぼくが、あのとき死ななかったのが悪いんだ、あの暗い穴の中で」
「暗い穴?」
その場にいた全員が、アステルが何を言っているのかがわからない。アステルはそれだけ言うと、また、倒れるようにして眠ってしまう。