1周目「魔術と私、どちらも大切にしてください」「わかったよ、シンシア」
魔術院 結婚後、春先の時期
シンシアは目を覚ます。時計を見て、もう、朝だと気づく。灯りをつけて、起き上がる。ベッドの片側を触ると、冷えきっている。
(とうとう帰ってこなかったみたい)
アステルは研究室に泊まったみたいだ。久しぶりのことだ。
アステルに限って、女性に浮気ということはない。たぶん。でも最近、シンシアは、魔術に浮気されている。シンシアは顔を洗ったあと着替えずに、朝ごはんも食べずに、ベッドにもう一度もぐりこむ。すると、部屋の扉があいた音がした。
アステルは、手付かずの朝食に目をやる。首を傾げて、シンシアのところまでやってくる。シンシアは毛布を頭までかぶっている。
「……シンシア? 体調が悪いの?」
心配そうな声がする。シンシアは、毛布から少し顔をだす。ボサボサの金色の髪に、眠そうな顔をした夫が、シンシアを心配そうに覗き込んでいる。シンシアはアステルの手をとって、ベッドに引き込もうとする。アステルは早く寝るべきだと思ったからだ。
しかしアステルはシンシアの横に手をつき、それ以上ベッドには入らない。眠そうだ。
「……ぼくは、朝ごはんを食べてから寝るよ。シンシアは、ごはんは……」
「……」
自分の下にある、シンシアの表情を見て、アステルは気づく。
「体調は、悪くないんだね。でも、ご機嫌が悪そうだ」
「……」
「……ごめんね」
「なんで謝るの?」
「ぼくに怒ってそうだから」
シンシアはムッとして、頬をふくらませる。
「どうしてか、教えてくれる?」
「わからないの?」
「憶測で物を言うより、ちゃんと、シンシアの言葉を聞いたほうが良いと考えたんだ」
起き上がったシンシアに、アステルは少し屈んで目線を合わせる。
「私、いつも、アステルが帰ってくるのを待っているわ。でも、待ちきれずに寝ちゃうの。途中で起きたときにアステルが帰ってきているとホッとするわ。だけど今朝は、起きてもアステルがいなくて、ベッドも冷たかったの」
シンシアは説明する。
「……寂しかった」
「シンシア、ごめんね」
アステルは、ぎゅっとシンシアを抱きしめるが、シンシアはアステルを抱き返さない。欲しいのはハグじゃなくて「今日は必ず帰ってくるよ」という約束だからだ。
なんとなく気まずい空気で一緒に朝ごはんを食べたあと、アステルは眠りに行く。シンシアはアステルの寝顔を眺める。変わらずに、大好きなひとだ、と思う。ちょっと冷たくしすぎたかな、と一瞬、不安になるが、首を横に何度か振る。
お昼ごろ、アステルは目を覚ます。
シンシアは、ソファーで本を読んでいるようだ。アステルに気づいたら、いつもなら振り向くはずだが、振り向かない。
アステルは、ご機嫌ななめのシンシアの肩を後ろからハグする。
「お仕事に行くんでしょう」
シンシアは、ツンツンした感じの声だ。
「今日は、おやすみにするよ」
「おやすみにして、どうするの?」
シンシアは夫を振り返る。
「どうって……」
アステルは(何も考えていなかった)という顔をしている。
「シンシアがしたいことを一緒にするよ。シンシアが散歩に行きたいなら、散歩に行く。買い物に行きたいなら、買い物に行く。温室に行くなら、ぼくも温室に行く」
「じゃあ、私は、アステルの研究室に行くわ。アステルのお仕事を見たいの」
「……」
なんでも好きなことを、と言った手前、アステルは断れなかった。
アステルの研究室は本当に紙と本だらけだ。ルアンや他の研究員にも手伝ってもらって、掃除もしているらしいが、いつも紙で散らかっている。
勝手に紙を移動させるのが、研究にどう影響があるのかわからずにこわかったので、シンシアはただ、アステルのことを眺めている。
アステルは最初のうちはシンシアが気になって、研究に手がつかない感じだった。しかしそのうち、魔術の計算に没頭しはじめると、シンシアのことが見えなくなった。
シンシアは、そばに椅子を持って来て座り、楽しそうにアステルのことを眺める。アステルが計算をしているところを見るのが、シンシアは好きだった。真剣な顔つきなので、かっこいいな〜と思うのだ。
(アステル様は、世界で1番かっこいい)
もちろんシンシアにとって、という話だったが。アステルは、シンシアのすべてを救ってくれた人だ。王子らしくないと言われがちなアステルだが、シンシアにとっては間違いなく王子様だ。心がかっこいい、見た目もかっこいい。シンシアにとって、最高の夫だ。
はじめはそんな調子でお仕事見学をしていたシンシアだったが、夕方になると、持ってきた本も全部読んでしまって暇になってきた。そろそろ帰りたい、とシンシアは思う。
「アステル」
アステルはシンシアの声に気がつかない。
「アステルってば」
シンシアはふくれる。アステルの肩に後ろから手を伸ばし、ぎゅーっと抱きしめる。
アステルは驚いて振り返る。一瞬、なんで研究室にシンシアがいるのか、と思い、そういえばシンシアが居たんだった、と思い出す。
「シンシア」
「何度も呼んでいるのに、ひどいです」
「ごめん……」
アステルは、謝る。
「アステル、もう日が暮れるので、部屋に戻りましょう」
「あとちょっとだけ……」
「アステル……」
シンシアは夫のことをジトーっとした目で見る。
「いま、考えていた答えを、この紙に書くだけだから。シンシアがあと10回アステルって言うまでにはおわるから!」
「もう! アステルアステルアステルアステル……」
シンシアは怒りながら、早口でアステルと10回言う。
アステルは階段を降りるシンシアのあとをついていく。シンシアが夕陽の差し込む踊り場に降りるころ、アステルは聞く。
「きみの一日は、これでよかったの?」
「私、アステルがやりたいことが魔術の研究なら、それをやらないで、とは思っていないです。むしろ好きなことに夢中になってて欲しいの。
そんなアステルが好きなの」
シンシアは、アステルを振り向く。
「でも、私を忘れないで、帰ってきてほしいだけ」
「忘れてなんて」
「忘れてたでしょ」
シンシアはふくれている。
夕食を食べるシンシアを見ながら。
一緒に夕食を食べるのは、いつぶりだろう、とアステルは気づく。シンシアに寂しい思いをさせないと、誓ったのに。今、している研究も、ぜんぶぜんぶシンシアのためなのだが――シンシアは「アステルと一緒にいる時間のほうが嬉しい」と言うのだ。
(ぼくは、焦りすぎていたかもしれない)
魔病討伐まで時間がないと思って。シンシアを支えるために、自分にできることを最大限やりたいと思って、焦っていたかもしれない。
(シンシアとの時間が、大切だってこと――ぼくにとっても、1番大切なんだってこと、忘れていたかもしれない)
「シンシア、ごめんね。ぼく、帰ってくるよ」
アステルは言う。
シンシアはそれを聞いて、花のように笑った。